第25話 榊キョウヤは笑っている
榊キョウヤという男は、たぶん怒鳴らない。
命令もしない。
声を荒げず、無理に追い詰めることもしない。
なのに、気づくと相手の足場だけが静かに削られている。
あの生徒会室で向き合ったとき、トウマはそのことをはっきり理解した。
週明けの学校は、表面だけ妙に平穏だった。
体育祭の準備は続き、授業も進む。
けれど廊下では、“王様”の話がますます具体性を帯びていた。もう都市伝説ではない。
誰かが悪人を裁き、誰かがそれを歓迎し、誰かがそれを利用しようとしている。
空気の中に、静かな共犯関係が生まれつつあった。
「最近、生徒会の連中、変じゃない?」
昼休み、シュウがパンの袋を破りながら言った。
「変って何が」
「やたら“校内の秩序”とか言って回ってる。しかも、王様の噂を否定するでもなく煽るでもなく、ちょうどいい温度で放置してる感じ」
「榊先輩が?」
「たぶん主にあいつ」
シュウは言ってから、ちらりとトウマを見た。
まだ完全には元通りじゃない。
けれど、以前みたいに真正面から避ける感じでもなくなっていた。
ユイナが小さく息を吐く。
「怖いね。みんなが“誰かが裁いてくれる”って思い始めるの」
「楽だからな」
セナが淡々と言う。
「自分で責任を取らなくて済むから。匿名で願って、匿名の誰かに断罪してもらう。いちばん卑怯な形」
その言葉は鋭い。
でも、今はその鋭さに救われる部分もあった。
「……セナ」
「なに」
「お前、榊先輩のこと、前から知ってるみたいに言うよな」
「知ってるわけじゃない。ただ、ああいう顔の人間を家で何人も見てきただけ」
言ってから、セナは少しだけ表情を閉じた。
理事会。父親。
家の中の空気。そこに触れるとき、彼女はいつもほんの少し遠くなる。
授業が終わる頃、トウマは廊下でキョウヤに呼び止められた。
「少しだけいいかな」
「……今じゃないとだめですか」
「むしろ今がいい」
笑顔のまま、断れない種類の圧をかけてくる。
生徒会室ではなく、使われていない視聴覚準備室。扉を閉めると、外の音が少し遠くなった。
「警戒しなくていい」
「してるように見えますか」
「十分してるね」
キョウヤは机の上に数枚のコピーを並べた。
見覚えのある名前が並ぶ。理事会関係者、予算名目、外部業者。
セナが見せた資料と、どこかで繋がる匂いがある。
「学校は綺麗じゃない」
「知ってます」
「でも、生徒や若い教師だけで変えられるほど単純でもない」
「……それで?」
「君の力が必要なんだよ」
その言い方に、トウマは嫌悪より先に寒気を覚えた。
「必要?」
「うん。恐怖って、時々いちばん早く秩序を作るから」
あまりにもあっさり言うので、一瞬意味が遅れて届く。
「ふざけるな」
「ふざけてないよ。現実的な話をしてる」
キョウヤは本当に真面目な顔だった。
それが何より怖い。
「君は弱い者を助けたい。強い者をくじきたい。だろ?」
「だからって」
「だから、悪いものを悪いまま放っておくより、支配した方が早い」
その理屈は危険だ。
でも一部だけ、分かってしまう。
目の前の理不尽に、手続きは遅い。訴えは握り潰される。
証拠は消される。
だったら、一言で止められる力の方がずっと速い――そう思ってしまう自分がいる。
トウマは歯を食いしばった。
「俺はあなたの道具じゃない」
「知ってる。だから面白い」
「……」
「道具なら、もっと素直に壊れてくれる」
窓から差し込む夕日が、キョウヤの横顔だけを薄く染める。
「御影くん。人はね、“守るため”なら思ったより簡単に踏み越えるよ」
その言葉は、最近の自分の内側とひどく似ていた。
部屋を出たあと、息がうまく吸えなかった。
廊下の向こうで、ユイナが待っているのが見える。声をかけるでもなく、ただ立っている。
その姿を見た瞬間だけ、胸の圧迫感が少し緩んだ。
「……長かったね」
「ごめん」
「怒られた?」
「それより厄介」
ユイナはそれ以上は訊かなかった。
ただ並んで歩きながら、トウマの左手に視線を落とす。
「また、握りすぎてる」
「え」
「爪の跡」
掌には、無意識に食い込ませた爪の痕が残っていた。
そうしないと、さっきの会話に引きずられそうだった。
帰宅後、手帳を開く。
前のページには、自分で強く線を引いた痕が残っていた。
文字は見えるのに、どうしてその順番で書いたのか分からない。
焦っていたことだけが、筆圧から伝わってくる。
トウマは新しいページに、短く書いた。
『榊キョウヤ 信用するな』
次の行で止まる。
言葉が多いと、あとで意味が抜ける。
だからできるだけ短く。
自分にも通る最小の命令だけを残す。
『正義の顔をした支配』
そこまで書いたあと、手が止まった。
もし自分がいちばんそれに近づいているとしたら、どうすればいいのだろう。




