第2話 正義の味方は、誰にも見えない
翌朝、教室に入った瞬間から空気がおかしかった。
「それでさ、急に離したんだって」
「いやでも、あいつ絶対ビビってたって」
「王様じゃね? 王様」
「なにそれ、だっさ」
机に鞄を置きながら、トウマは聞かないふりをした。
昨日の旧校舎の件は、案の定それなりに広まっていた。
ただし事実としてではなく、正体の曖昧な噂として。
“三年の不良が、急に手を離した”
“何か声が聞こえたらしい”
“見えない正義の味方がいる”
“旧校舎の王様”
ばかばかしいと思う。思うのに、笑えない。
「おはよ、死にそうな顔してるな」
後ろから肩を叩かれ、トウマは少しだけ身をこわばらせた。
振り向くと、風間シュウがいつもの無駄に明るい顔で立っている。
寝癖のついた黒髪、雑に結んだネクタイ、朝からうるさいくらい元気な目。
「……してない」
「してる。鏡見ろよ。あと昨日、お前、人のメシから逃げたろ」
「ごめん。ちょっと体調悪くて」
「そーいうとこだけ素直なの、逆に腹立つな」
笑いながら言って、シュウはトウマの机に紙パックのカフェオレを置いた。
「ほら。朝メシ代わり」
「いらない」
「飲め。倒れられたら気分悪い」
押しつけるように渡されて、結局受け取ってしまう。
こういうところが、シュウには敵わない。
無理やり雑に見えて、ちゃんと人の逃げ道を塞いでくる。
「御影くん、大丈夫?」
柔らかな声が横から落ちた。
白峰ユイナは、窓際の席から少し首を傾げてこちらを見ていた。
肩のあたりで揺れる黒髪と、薄く光を含んだような目。
彼女が話すと、教室のざわめきが少し静かになる気がする。
「顔色、悪いよ」
「……寝不足なだけ」
「ほんとに?」
「ほんと」
トウマがそう答えると、ユイナはそれ以上追及しなかった。
ただ、無理に信じたふりをするでもなく、静かに言う。
「じゃあ、無理しないで」
短い一言なのに、妙に胸に残った。
「白峰、お前それ甘やかしすぎ。こいつこういうとき放っとくとマジで限界まで黙るから」
「風間くんは、ちょっと騒がしすぎ」
「はいはい、そうですよー」
シュウが大げさに肩をすくめる。ユイナが小さく笑う。
そのやりとりを見ながら、トウマは一瞬だけ、自分もそこに自然に混ざれている気がした。
「御影」
空気を裂くみたいに、低く澄んだ声が飛んだ。
教室の入り口に立っていたのは、九条セナだった。
整った姿勢、乱れのない制服、感情を読むのが難しい顔。けれどトウマには分かる。
今の彼女は、少し怒っている。
「昼、少しいい?」
「……うん」
「逃げないで」
それだけ言って、セナは自分の席へ戻った。
シュウが小声で口笛を吹く。
「こわ。何やらかしたんだ、お前」
「別に」
「その“別に”が一番怪しいんだよな」
昼休み。人気の少ない渡り廊下で、トウマはセナと向き合っていた。
「昨日、使ったでしょ」
「……」
「否定しないんだ」
「しても信じないだろ」
「当たり前」
風が吹き抜ける。セナは手すりに軽く触れたまま、まっすぐトウマを見た。
「どれくらい記憶抜けたの」
「まだ、大したことない」
「嘘」
「……シュウとの約束、少し」
「少し、ね」
その言い方が痛かった。
セナは幼い頃から、トウマの異変に一番早く気づく。本人より先に。
だから誤魔化せない。
「これ以上、軽く見ないで。前よりひどくなってる」
「わかってる」
「わかってないから使うの」
言葉が詰まる。
使いたくて使ったわけじゃない。
だが、それを言い訳にした瞬間、何も守れなくなる気もした。
「見過ごせなかったんだよ」
「それであなたが削れていくのを、私は見過ごせって?」
珍しく、セナの声が強く揺れた。
トウマが返事に迷っていると、彼女は深く息を吐いて、少しだけ目を伏せた。
「……ごめん。言いすぎた」
「いや」
「でも、本当に気をつけて。次に何が消えるか、もうあなたにも分からない」
チャイムが鳴る。会話はそこで途切れた。
放課後、帰る支度をしていたときだった。机の中で指先に何かが触れた。
小さく折られたメモ。
広げると、見慣れた自分の字で一行だけ書かれていた。
『ユイナには絶対に使うな』
息が止まる。
いつ書いた。
何のために。
どうしてそんなことを、自分は自分に命じた。
「……何それ」
背後から声がして、思わず紙を握りしめた。
振り向くと、ユイナが不思議そうに立っていた。
「ごめん、見えちゃった。何か大事なメモ?」
「……いや、違う」
「そっか」
彼女はそれ以上訊かなかった。訊かないでくれることに、少し救われて、同時に苦しくなる。
「御影くん」
「ん?」
「昨日、何かあったよね」
まっすぐな目だった。責めるでも、試すでもない。
ただ、心配している目。
トウマは視線を逸らした。
「何も」
「……そっか」
ユイナはわずかに寂しそうに笑った。
「言えないならいいよ。でも、ひとりで苦しい顔しないで」
その言葉が、妙に深く刺さった。
誰かにそう言われる資格なんて、自分にあるんだろうか。
彼女が教室を出たあと、トウマはもう一度メモを開く。
ユイナには絶対に使うな。
意味は分からない。だが、自分の字だ。
きっと忘れたくないほど大事な警告なのだろう。
その夜。布団に入る前、何気なく校内匿名掲示板を見たトウマは、指を止めた。
『昨日の件、また“王様”が動いたらしい』
『見えないのに逆らえないとか怖すぎ』
『でも悪いことしたやつしかやられてなくね?』
『正義の味方じゃん』
スクロールする指先が冷える。
正義の味方。
そんな大それたものじゃない。
ただ、自分の中にある“何か”は、時々あまりにも簡単に、人を従わせてしまう。
それが正しいことに使われる保証なんて、どこにもないのに。
画面を閉じても、最後の書き込みだけが頭に残った。
『王様は、また現れるのかな』
トウマは無意識に、右手で左耳を押さえた。
あの金属音を、もう二度と聞きたくないはずなのに。




