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第1話 音の消えた廊下

放課後の旧校舎は、いつも少しだけ世界から切り離されている。


西日が長い廊下を斜めに染め、剥がれかけた掲示物の端を揺らしていた。


誰もいないはずの時間帯なのに、今日は奥の方から、低く押し殺した声が聞こえてくる。


「だからさ、持ってるんだろ。出せって言ってんの」


足が止まった。


御影トウマは、古びた窓ガラスに映った自分の顔を見る。目を逸らしたそうな顔だと思った。


関わるな、と心のどこかが言う。


面倒ごとに首を突っ込んで、得をしたことなんて一度もない。


だが次の声が、その言い訳を許さなかった。


「……やめてください」


小さく震える、下級生の声だった。


廊下の角からそっと覗くと、一年生らしい男子が三人の上級生に囲まれていた。


ひとりは壁に肩を押しつけられ、ブレザーの胸ポケットを乱暴に探られている。


足元には、落ちた財布と、割れたキーホルダー。


「それ、母親にもらったやつなんです……」


「は? 知らねえよ。今、お前のもんじゃなくなるから」


笑い声が上がる。


胸の奥に、嫌な熱がじわりと広がった。


止めろ。


でも、自分が行って何になる。


相手は三人だ。しかも三年。


顔も悪い。殴られて終わりだ。


そう思ったのに、気づけば足が前に出ていた。


「それ、返してやってください」


自分でも驚くほど平坦な声だった。


三人の視線が一斉に向く。中心にいた短髪の上級生が、眉を吊り上げた。


「ああ? なんだお前」


「……それ、その人のものでしょう」


口の中が乾く。膝が少し震えているのが分かる。


なのに声だけは妙に静かだった。


「正義の味方気取り?」


「別に。見てると気分悪いだけです」


言った瞬間、しまったと思った。煽った。


真正面から。


案の定、男は舌打ちして近づいてくる。距離が詰まる。


ひどく生臭い香水の匂いがした。


「じゃあお前が代わりに出す?」


「……」


「聞いてんだけど」


胸ぐらを掴まれかけた、その瞬間だった。


左耳の奥で――


カン。


乾いた金属音が鳴った。


世界から、音が落ちた。


風の音も、蛍光灯のうなりも、誰かの呼吸さえも、一拍だけ消える。


視界の色がほんのわずかに褪せ、目の前の上級生の頭上にだけ、ひび割れた黒金の輪郭が浮かび上がった。


王冠。


まただ、と思った。


子どもの頃から、ごくたまに見えてしまうもの。


自分にしか見えない、理解のできない異物。


通る言葉は、いつも短い。


『その手を離して、後ろに下がれ』みたいな長い命令は駄目だ。


この力が拾うのは、刃みたいに単純な一語だけ。


逃げろ、と理性は叫んだ。


言うな、と何度も自分に言い聞かせてきた。


それでも、目の前で怯えている誰かを見ると、その一言が勝手に形になる。


トウマは、低く言った。


「――離せ」


次の瞬間。


上級生の手が、火傷でもしたように胸元から離れた。


「……は?」


本人がいちばん驚いた顔をした。


まるで自分の意思じゃなかったみたいに、指先を見つめている。


取り巻きの二人も、急に空気を読めなくなったように固まった。


音が戻る。


遠くで誰かが階段を駆け上がる音。窓が鳴る音。


だれかの息を呑む音。


「な、なんだよ今……」


「知らねえよ……」


上級生たちは明らかに怯んでいた。何が起きたか分からない。


だが、自分たちの身体が自分のものじゃなかった、その不気味さだけは伝わったらしい。


トウマは落ちた財布を拾い、下級生に差し出した。


「早く行って」


一年生は真っ青な顔のまま、何度も頭を下げて走り去った。


「お、お前……今、何した?」


「何もしてないです」


それは半分だけ本当だった。


トウマは上級生たちを見ず、そのまま彼らの横を通り過ぎた。呼び止められなかった。


追っても来なかった。


振り返らなくても、彼らが自分よりずっと深いところで何かを怖がっているのが分かった。


旧校舎を出た途端、膝から力が抜けた。


校庭脇のベンチに腰を下ろした瞬間、視界が暗く揺れる。吐き気。


こめかみを針で刺されるみたいな頭痛。呼吸が浅い。


これもいつものことだ。使ったあとに来る反動。


最悪なのは、それだけじゃない。


「……今日、なんだっけ」


ぽつりと呟く。


確か、今日は風間シュウと何か約束をしていたはずだった。


放課後、購買か、駅前か、なにか食べに行くとか。朝、その話で笑った記憶もある。


なのに、その肝心な部分だけが、霧の中みたいに抜け落ちている。


スマホを開くと、シュウからメッセージが入っていた。


『おい、逃げんなよ。今日は俺のおごりだって言ったろ』


胸の奥が、冷えた。


読んだ瞬間に思い出すはずの温度が、ない。


「……またか」


指先がかすかに震える。


使うたびに、何かが欠ける。


それが物か時間か、人か感情か、最初はよく分からなかった。


けれど最近は、なくなるものの質がはっきりしてきた。


大事だったはずの、やわらかい記憶ほど、よく消える。


そのとき、画面が震えた。


表示された名前を見て、トウマは目を細める。


九条セナ


通話ではなく、短いメッセージだった。


『また使ったの?』


たったそれだけなのに、見透かされている気がした。


トウマは返事を打てず、ベンチの背にもたれた。西日が沈みきる前の空は、妙に澄んでいる。


誰かを助けたはずなのに、胸の中に残るのは達成感より、ひどく静かな恐怖だった。


――次は、何を失う。

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