第15話 九条セナの境界線
セナは、いつも一歩引いた場所に立っている。
四人で並んでいても、少しだけ外側だ。
笑う時も、怒る時も、誰より深く見ているのに、誰より先に踏み込まない。
それが彼女の性格だと思っていた。
だがトウマは最近、それが性格だけではないのだと気づき始めていた。
土曜の午後、セナに呼び出された場所は、駅から少し離れた古い公園だった。
子どもの頃、何度か一緒に来た記憶がある。だが細部は曖昧だ。
「ここ、懐かしい?」
ベンチに座るセナが訊く。
「……少し」
「私ははっきり覚えてる」
風でブランコが揺れる。
人はいない。
「御影、あなたが初めて“あれ”を使ったの、ここだから」
「……」
「やっぱり、そこも曖昧なんだ」
トウマは返せなかった。
セナがゆっくり話し始める。
小学四年の頃。
この公園で、セナが年上の子たちに囲まれていた。
家が裕福だという理由で、財布を出せだの、生意気だのと絡まれていたらしい。
通りすがりだったトウマは止めに入り、当然相手に突き飛ばされた。
「その時、あなた、泣きそうな顔してたのに」
セナは少し笑う。
「急に静かになった。音が消えて、あの子たちが一斉に後ろへ下がった」
「……王冠が見えた?」
「その時の私は見えてない。ただ、あなたの声だけは覚えてる」
セナはトウマを見た。
「“近づくな”って言った」
ぞくりとした。
聞き覚えがある。というより、その声の出し方を身体が覚えている。
「そのあと、あなた、私のこと見て泣いた」
「え」
「覚えてないんだ」
「……ごめん」
「謝らなくていい。でも、その日から私は知ってる。あなたの中には、誰かを守る時だけ目を覚ます、ろくでもない力があるって」
ろくでもない。
セナらしい言い方だと思った。
「怖くなかった?」
「怖かった」
「……」
「でも、それ以上に、あなたが怖がってたから」
言葉を失う。
自分では覚えていない過去を、彼女はずっと一人で持っていたのだ。
「だから止めるの」
セナは視線を逸らさずに言う。
「あなたが正しいことのために使ってるのは分かる。弱い人を見捨てられないのも分かる。でも、その正しさって、すごく危ない境界線の上にある」
「境界線?」
「守るための命令と、支配のための命令の境界線」
トウマは息を詰めた。
それは、最近自分でも感じ始めていたことだった。
たった一言で相手を止められる快感。間違いを正す側に立てる感覚。
誰かを助けたという達成感。その全部が、正しさの仮面をかぶった別のものに変わる可能性。
「子どもの頃は、ほんの一瞬、偶然みたいにしか出なかった。
でも今年に入ってから、あなた、自分の意思で誰かを守ろうとするたびに、あれを“言葉”にできるようになってる」
「それって、強くなってるってこと?」
「たぶん。だから怖いの。私、あなたに王様になってほしくない」
「セナ」
「みんながひれ伏す方に行ったら、戻ってこれなくなる」
その声音は厳しい。けれど、その厳しさの底にある感情は、ほとんど痛みに近かった。
「なんでそこまで」
また、同じ問いが口をつく。
セナは少し黙ってから、静かに言った。
「あなたが、私の中で“守ってくれた人”のままだから」
風が止んだように感じた。
「私、多分、あの日からずっと、あなたに借りがあるの。……それに、借りだけじゃない」
そこまで言って、セナは自分で言葉を切った。
言わせてはいけない気がした。
聞いてしまえば、何かが決定的に変わる。
トウマも何も言えなかった。
帰り際、セナが封筒を一つ渡してきた。
中にはコピー用紙が数枚。学校の理事会関係者の名前、予算の流れ、教頭との繋がり。
かなり踏み込んだ内部情報だった。
セナにとって、理事会の人間の名前は初めて見るものじゃなかった。
子どもの頃から、父の書斎や食卓で何度も耳にしてきた名前ばかりだった。
「これ、どこから」
「聞かないで」
「危ないだろ」
「だから、あなたにはまだ使わないでほしいの」
“まだ”。
その一言に、不穏な未来が滲む。
「九条」
「もし本当に使う時が来るなら、それは“助けたい”だけじゃ足りない時。誰かを守るために、自分もちゃんと失う覚悟を決めた時だけにして」
そう言って、彼女は先に歩き出した。
夕方の光の中、背中がひどく遠く見えた。
家に帰ってから、トウマは手帳に書く。
『九条セナ。最初から知ってた。守られた記憶を持ってる。王様になるなと言った』
そこまで書いて、手が止まる。
そして小さく、ほとんど自分に言い聞かせるように続けた。
『境界線を忘れるな』
書いた直後、胸がざわつく。
忘れるな、と自分に命じる言葉が、最近増えすぎていた。




