第14話 白峰ユイナの秘密
六月の湿った風は、どこか人を疲れさせる。
そのせいだけではないだろうが、その頃のユイナは明らかに無理をしていた。
授業中に一瞬だけぼんやりする。階段で足を止める。
いつもの笑顔の端に、かすかな翳りがある。
「白峰、最近しんどそうじゃね」
シュウが珍しく小声で言った。
「うん」
「言えよ」
「何を」
「だから、好きな女が無理してるって」
「声でかい」
「聞こえるように言ってねえよ」
聞こえていたら終わりだ。
だが、言われて初めて、自分がずっと彼女のことを目で追っていたと気づく。
その日の放課後、トウマは駅前のスーパーでユイナを見かけた。
制服のまま買い物かごを提げ、値引きシールの貼られた惣菜を静かに選んでいる。
見慣れない姿ではない。
けれど、その後ろ姿には、学校で見せる柔らかさとは別の緊張があった。
「白峰」
「……御影くん?」
振り向いた顔に、驚きと少しの困惑が混ざる。
「買い物?」
「うん。祖母に頼まれて」
「手伝う」
「なんで」
「なんとなく」
断られるかと思ったが、ユイナは少しだけ笑った。
「じゃあ、お味噌持って」
そのまま一緒に店内を回る。味噌、豆腐、牛乳、安い野菜。
生活の匂いがする買い物だった。
彼女が家計を意識しているのが、かごの中身だけで伝わる。
会計を終えて、店の外に出る。夕暮れはまだ明るい。
だがユイナは駅とは逆の方向へ歩き出した。
「家、こっちなの?」
「ううん。病院」
短く言って、彼女は少しだけ目を伏せる。
「お母さん、入院してるの」
「……そうなんだ」
「長くてね。もう慣れたけど」
慣れた、という言葉の軽さが痛かった。
慣れなければやっていけないだけだ。
「じゃあ、バイトも」
「うん。少しでも家の足しになればって」
歩きながら、ユイナはぽつぽつ話してくれた。
父はほとんど家にいないこと。祖母は優しいけれど年齢の分だけ無理がきかないこと。
病院の費用や日々の生活費のこと。
自分が笑っている方が家の空気が保てると思っていること。
「誰にも言わないつもりだった?」
「言うほどのことじゃないし」
「言うほどだよ」
「そうかな」
そう言って笑う顔が、逆に痛々しい。
病院前のベンチに座る。
空は薄い群青に変わり始めていた。
「この前、助けてもらったときね」
ユイナが言う。
「嬉しかった。でも、同時に思ったの。御影くんって、自分のことは全然助けないんだなって」
「俺は」
「だって、無理しても平気な顔するし、痛いことも怖いことも、自分だけで飲み込もうとする」
静かな声だった。
責めているわけではない。だから余計に逃げられない。
「私も人のこと言えないけどね」
「白峰は」
「私も、誰かに頼るの苦手」
そこで彼女は少しだけ笑う。
「似てるのかも」
その言い方に、胸の奥がゆっくり熱くなる。
似ている。そう言われただけで、救われた気がした。
だがその直後、病院の玄関前で見覚えのある男が立っているのに気づいて、空気が一変した。
昨夜の、あの男だった。
酔ってはいない。だが顔には苛立ちがある。
ユイナの顔色が変わる。
「知り合い?」
「……バイト先の常連。時々来て、勝手に話しかけてくる」
男はこちらを見つけると、露骨に眉を寄せた。
「またお前か」
「近づかないでください」
「勘違いすんなよ。ただ話したいだけだって」
「嫌です」
ユイナの声は震えていない。
だがトウマは、彼女の指先がわずかに白くなるほどバッグの持ち手を握りしめているのを見た。
また、左耳の奥が静まる。
カン……。
音が落ちる寸前で、トウマは自分の爪が掌に食い込むほど握った。
使うな。
こんな場所で、こんな相手に、また。
でも守りたい。
葛藤したほんの一秒の間に、男が一歩近づく。
その時だった。
「やめてください」
ユイナが前に出た。
まっすぐ男を見る。
「私、あなたが怖いです。迷惑です。もう来ないでください」
強い声だった。
トウマは息を呑む。
男は一瞬気圧されたように止まり、舌打ちして去っていった。
能力は使わなかった。使わずに済んだ。
けれど、膝から力が抜けそうになる。
使わずに守れた安堵と、もし彼女が言えなかったらという恐怖が一緒に押し寄せる。
「……すごいな」
「怖かったよ」
「でも言った」
「言わないと、ずっと終わらない気がしたから」
その強さに、トウマは目を離せなくなる。
別れ際、ユイナがふと立ち止まる。
「御影くん」
「ん」
「私、あなたにばっかり守られたくない」
「……」
「隣に立てる人でいたい」
その言葉は、恋に名前がつく少し手前の温度をしていた。
家に帰ってから、トウマは手帳に長く書いた。
『白峰ユイナ。母が入院。祖母と暮らす。バイトしてる。無理して笑う。強い』
そして迷った末、最後に一行だけ付け加えた。
『隣に立ちたいと思った』
書いた直後、その文字が少しだけ眩しく見えた。




