表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/43

第10話 逃げろ

そのメッセージを受け取ったのは、夜の十一時を少し過ぎた頃だった。


『助けてください』


短い一文だけだった。


通話をかけても出ない。既読もつかない。


部活関係のトラブルだろうか、と一瞬思ったが、直後に送られてきた位置情報は学校ではなく、駅の反対側の商店街裏だった。


トウマは迷う時間を持たなかった。


上着だけ羽織って家を出る。夜風は思ったよりぬるく、街灯の下だけが白々と浮いていた。


走りながら、頭の片隅では冷静な声がしている。警察を呼ぶべきか。


大人に連絡すべきか。だが、もしそれが間に合わなかったら。


商店街の裏路地は、人通りがほとんどなかった。


シャッターの下りた店が並び、雨上がりの湿り気がアスファルトに残っている。


角を曲がったとき、トウマは立ち止まった。


真壁ミナトではない。


そこにいたのは、白峰ユイナだった。


「……え」


彼女は壁際で、スマホを握りしめている。目の前には男が一人。


スーツ姿だが、酔っているのか、足元が少しおぼつかない。


「だからさ、少し話すだけだって」


「やめてください」


「夜遅くに一人で歩いてる方が悪いんじゃない?」


吐き気がするほど嫌な言い方だった。


ユイナが一歩下がる。男が詰める。


トウマはすぐに声を上げた。


「離れてください」


男が振り向く。


目が据わっている。初対面の高校生に止められたことで、露骨に苛立った顔をした。


「なんだお前」


「彼女、嫌がってる」


「関係ねえだろ。ガキは帰れ」


その瞬間、ユイナがトウマを見て目を見開いた。


驚きと、安堵と、そして「来てしまった」という諦めが混ざった顔だった。


後で考えれば、あの位置情報は彼女が送ったものではなかったのかもしれない。


あるいは助けを求める余裕がなくて、どこかで誤送信になったのかもしれない。


いまは、そんなことはどうでもよかった。


「御影くん、だめ」


「白峰、こっち来て」


「聞こえねえのかよ」


男が苛立ってユイナの腕を掴んだ。


左耳の奥で、乾いた音が鳴る。


カン――。


夜の路地の音が、一拍だけ消えた。


街灯の光が少しだけ遠くなり、男の頭上に黒金の王冠が浮かぶ。


使うな、と頭のどこかが言う。


だが、ユイナの手首を掴む指先を見た瞬間、その声はかき消えた。


――クラウン・オーダー。


「――離せ」


男の手が、弾かれたように離れた。


「な……」


本人がいちばん驚いた顔をする。


指が震えている。何が起きたのか理解できないまま、腕だけが勝手に動いたという顔だ。


ユイナがすぐにトウマの方へ走る。


トウマはその肩を引き寄せ、一歩前に出た。


「次、近づくな」


「てめえ……何しやがった」


「近づくな」


低く繰り返した瞬間、男の足が一歩だけ後ろへ下がった。


命令としては弱い。たぶん今のは能力ではなく、ただの声だ。


けれどさっきの一言が残していった恐怖が、相手を十分に怯ませていた。


男は何か捨て台詞を吐こうとして、結局何も言えずに踵を返した。


足音が完全に遠ざかってから、ようやくトウマは息を吐いた。


「……大丈夫」


「ごめん」


「なんで謝るんだよ」


「また、使わせた」


その一言に、トウマは何も返せなくなる。


ユイナはまだ少し震えていた。


けれど顔を上げたとき、その目にあったのは恐怖だけではなかった。


「私、今日バイト帰りだったの。終電一本前で、急いでて……後ろつけられてるの、途中で気づいた」


「なんで誰にも連絡しなかった」


「した。……たぶん、御影くんに送ったの、位置情報だけ先に飛んじゃって」


「俺、真壁から来たのかと思って」


「真壁くん?」


話が噛み合わない。


けれど、今は細かいことを整理する余裕がなかった。


近くの公園まで移動して、ベンチに座る。自販機の明かりがやけに白い。


トウマは自分の手が少し震えているのに気づいて、握り込んだ。


「御影くん」


「なに」


「ありがとう」


まっすぐに言われて、胸が熱くなる。


でも同時に、恐ろしくもあった。


「……俺じゃなくてもよかった」


「よくない」


ユイナは即答した。


「怖かったけど、御影くんが来てくれて安心した」


「でも、俺」


「力を使ったから?」


その言葉で、トウマは彼女がやはり分かっているのだと再確認する。


「見えたんだろ。あの日」


「うん」


「じゃあ分かるだろ。あれ、普通じゃない」


「普通じゃないね」


否定しない。


けれど逃げもしない。


「でも、普通じゃないことと、御影くんが悪い人ってことは、同じじゃない」


「……」


「私は、そう思いたくない」


沈黙が落ちる。


夜の公園のブランコが、風で小さく軋んだ。


「本当はさ」


ユイナが膝の上で手を組んだまま言う。


「助けてもらって、すごく嬉しかった。でも、それ以上に、あなたが苦しそうなのが嫌だった」


「俺は」


「わかってる。見過ごせなかったんだよね」


その理解の仕方が、あまりにも優しくて苦しい。


「……少しだけ、忘れた」


「え?」


「たぶん、ここ来る前のこと」


「また?」


「うん」


言った瞬間、ユイナの目が揺れた。


彼女はすぐに表情を整えたが、その一瞬の傷つきは隠せなかった。


「じゃあ、今からのこと、覚えてて」


「白峰」


「このベンチ。自販機。さっきの風。私、青いカーディガン着てる」


少しだけ笑って言う。


「忘れそうなら、何回でも言うから」


その言葉に、トウマは喉が詰まる。


帰り道、駅まで送るあいだ、二人はあまり話さなかった。


でも沈黙は重くなかった。むしろ、今までより近い沈黙だった。


別れ際、ユイナが立ち止まる。


「御影くん」


「ん」


「私にまで、命令しないでね」


「……しない」


「絶対?」


「絶対」


その約束が、どれほど重いものか、トウマは自分でもよく分かっていた。


家に帰ってから、手帳を開く。


何を書けばいいのか迷った末に、トウマは短く残した。


『夜の公園。青いカーディガン。忘れるな』


書いたあと、数秒見つめてから、もう一行足す。


『逃げろ、じゃなくて、守りたい』


その言葉がどこまで自分のものとして残るのか、不安は消えない。


それでも今夜だけは、少しだけ希望の方を信じたいと思った。


だが、スマホの通知がその余韻を切り裂く。


有馬ノアからだった。


『御影先輩、変な映像がまた撮れました。今度はもっとはっきりです』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ