第10話 逃げろ
そのメッセージを受け取ったのは、夜の十一時を少し過ぎた頃だった。
『助けてください』
短い一文だけだった。
通話をかけても出ない。既読もつかない。
部活関係のトラブルだろうか、と一瞬思ったが、直後に送られてきた位置情報は学校ではなく、駅の反対側の商店街裏だった。
トウマは迷う時間を持たなかった。
上着だけ羽織って家を出る。夜風は思ったよりぬるく、街灯の下だけが白々と浮いていた。
走りながら、頭の片隅では冷静な声がしている。警察を呼ぶべきか。
大人に連絡すべきか。だが、もしそれが間に合わなかったら。
商店街の裏路地は、人通りがほとんどなかった。
シャッターの下りた店が並び、雨上がりの湿り気がアスファルトに残っている。
角を曲がったとき、トウマは立ち止まった。
真壁ミナトではない。
そこにいたのは、白峰ユイナだった。
「……え」
彼女は壁際で、スマホを握りしめている。目の前には男が一人。
スーツ姿だが、酔っているのか、足元が少しおぼつかない。
「だからさ、少し話すだけだって」
「やめてください」
「夜遅くに一人で歩いてる方が悪いんじゃない?」
吐き気がするほど嫌な言い方だった。
ユイナが一歩下がる。男が詰める。
トウマはすぐに声を上げた。
「離れてください」
男が振り向く。
目が据わっている。初対面の高校生に止められたことで、露骨に苛立った顔をした。
「なんだお前」
「彼女、嫌がってる」
「関係ねえだろ。ガキは帰れ」
その瞬間、ユイナがトウマを見て目を見開いた。
驚きと、安堵と、そして「来てしまった」という諦めが混ざった顔だった。
後で考えれば、あの位置情報は彼女が送ったものではなかったのかもしれない。
あるいは助けを求める余裕がなくて、どこかで誤送信になったのかもしれない。
いまは、そんなことはどうでもよかった。
「御影くん、だめ」
「白峰、こっち来て」
「聞こえねえのかよ」
男が苛立ってユイナの腕を掴んだ。
左耳の奥で、乾いた音が鳴る。
カン――。
夜の路地の音が、一拍だけ消えた。
街灯の光が少しだけ遠くなり、男の頭上に黒金の王冠が浮かぶ。
使うな、と頭のどこかが言う。
だが、ユイナの手首を掴む指先を見た瞬間、その声はかき消えた。
――クラウン・オーダー。
「――離せ」
男の手が、弾かれたように離れた。
「な……」
本人がいちばん驚いた顔をする。
指が震えている。何が起きたのか理解できないまま、腕だけが勝手に動いたという顔だ。
ユイナがすぐにトウマの方へ走る。
トウマはその肩を引き寄せ、一歩前に出た。
「次、近づくな」
「てめえ……何しやがった」
「近づくな」
低く繰り返した瞬間、男の足が一歩だけ後ろへ下がった。
命令としては弱い。たぶん今のは能力ではなく、ただの声だ。
けれどさっきの一言が残していった恐怖が、相手を十分に怯ませていた。
男は何か捨て台詞を吐こうとして、結局何も言えずに踵を返した。
足音が完全に遠ざかってから、ようやくトウマは息を吐いた。
「……大丈夫」
「ごめん」
「なんで謝るんだよ」
「また、使わせた」
その一言に、トウマは何も返せなくなる。
ユイナはまだ少し震えていた。
けれど顔を上げたとき、その目にあったのは恐怖だけではなかった。
「私、今日バイト帰りだったの。終電一本前で、急いでて……後ろつけられてるの、途中で気づいた」
「なんで誰にも連絡しなかった」
「した。……たぶん、御影くんに送ったの、位置情報だけ先に飛んじゃって」
「俺、真壁から来たのかと思って」
「真壁くん?」
話が噛み合わない。
けれど、今は細かいことを整理する余裕がなかった。
近くの公園まで移動して、ベンチに座る。自販機の明かりがやけに白い。
トウマは自分の手が少し震えているのに気づいて、握り込んだ。
「御影くん」
「なに」
「ありがとう」
まっすぐに言われて、胸が熱くなる。
でも同時に、恐ろしくもあった。
「……俺じゃなくてもよかった」
「よくない」
ユイナは即答した。
「怖かったけど、御影くんが来てくれて安心した」
「でも、俺」
「力を使ったから?」
その言葉で、トウマは彼女がやはり分かっているのだと再確認する。
「見えたんだろ。あの日」
「うん」
「じゃあ分かるだろ。あれ、普通じゃない」
「普通じゃないね」
否定しない。
けれど逃げもしない。
「でも、普通じゃないことと、御影くんが悪い人ってことは、同じじゃない」
「……」
「私は、そう思いたくない」
沈黙が落ちる。
夜の公園のブランコが、風で小さく軋んだ。
「本当はさ」
ユイナが膝の上で手を組んだまま言う。
「助けてもらって、すごく嬉しかった。でも、それ以上に、あなたが苦しそうなのが嫌だった」
「俺は」
「わかってる。見過ごせなかったんだよね」
その理解の仕方が、あまりにも優しくて苦しい。
「……少しだけ、忘れた」
「え?」
「たぶん、ここ来る前のこと」
「また?」
「うん」
言った瞬間、ユイナの目が揺れた。
彼女はすぐに表情を整えたが、その一瞬の傷つきは隠せなかった。
「じゃあ、今からのこと、覚えてて」
「白峰」
「このベンチ。自販機。さっきの風。私、青いカーディガン着てる」
少しだけ笑って言う。
「忘れそうなら、何回でも言うから」
その言葉に、トウマは喉が詰まる。
帰り道、駅まで送るあいだ、二人はあまり話さなかった。
でも沈黙は重くなかった。むしろ、今までより近い沈黙だった。
別れ際、ユイナが立ち止まる。
「御影くん」
「ん」
「私にまで、命令しないでね」
「……しない」
「絶対?」
「絶対」
その約束が、どれほど重いものか、トウマは自分でもよく分かっていた。
家に帰ってから、手帳を開く。
何を書けばいいのか迷った末に、トウマは短く残した。
『夜の公園。青いカーディガン。忘れるな』
書いたあと、数秒見つめてから、もう一行足す。
『逃げろ、じゃなくて、守りたい』
その言葉がどこまで自分のものとして残るのか、不安は消えない。
それでも今夜だけは、少しだけ希望の方を信じたいと思った。
だが、スマホの通知がその余韻を切り裂く。
有馬ノアからだった。
『御影先輩、変な映像がまた撮れました。今度はもっとはっきりです』




