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第9話 告発の放課後

保健室で目を覚ましてから数日が過ぎても、雨の日の感触はまだ身体の奥に残っていた。


案内板の落下。


空中で止まった一秒。


ユイナの「見えた」という声。


それ以来、四人の空気は少しだけ変わった。崩れたわけではない。


ただ、見ないふりで保たれていた薄い膜が、一枚剥がれたような感じだった。


「お前、ほんとに大丈夫なのか」


昼休み、購買帰りのシュウが言った。


片手に焼きそばパン、片手に炭酸。


自分は何も考えていないような顔をして、こういうときだけ妙に核心を突く。


「しつこい」


「しつこくもなるだろ。お前、この前から顔色の悪さがデフォルトになってる」


「風間くん、それ全然フォローになってない」


ユイナが小さく笑う。


「白峰は甘やかしすぎ」


「風間くんは雑すぎ」


「九条は厳しすぎ」


「風間だけは黙って」


セナの一言で、教室の空気が少しだけ和らぐ。


こんな時間がまだ続くのだと思うと、トウマはほんの少しだけ救われる。


だが、その一方で、こういう何でもない会話ほど、いつか最初に失ってしまうのではないかという予感が、胸の底で冷たく澱んでいた。


その日の放課後だった。


国語準備室の前を通りかかったとき、中から言い争うような声が聞こえた。


ドアは少しだけ開いている。


「だから、それは記録に残せません」


「残せない、じゃなくて残したくないんでしょう」


三雲カオルの声だ、とすぐに分かった。いつもの軽さはまるでない。


低く抑えられていて、それが逆に怒りを際立たせていた。


トウマは反射的に足を止める。


「被害の申告が出てるんです。指導じゃ済まないレベルです」


「三雲先生、感情的にならないでください」


「感情じゃなくて事実です」


「学校の秩序を乱すような扱いは避けたいと言っているだけですよ」


相手は教頭だった。固く乾いた声。


責任を取る気のない人間特有の、無機質な平坦さが滲んでいる。


「秩序って、誰のためのですか」


「これ以上言うなら、あなたの立場も考えますよ」


数秒、沈黙した。


トウマは扉の隙間から、机の端を掴んだカオルの指先を見た。白くなっていた。


怒っている。悔しいのだろう。


けれど、この場では教師である以上、真正面から机を叩くことも怒鳴ることもできない。


やがて、カオルが乾いた声で言った。


「……分かりました」


その言い方で、全然分かってなどいないことが分かった。


トウマは足音を殺してその場を離れた。


胸の奥に、じくじくとした熱が残る。


部費横領の件だろう。前に見かけた、バスケ部一年の件。


あれは一件落着なんかじゃなかった。教師に助けを求めても、上で握り潰される。


理不尽は、顔の悪い上級生だけじゃなく、もっと整った場所にもある。


放課後の廊下は妙に長く見えた。


そのとき、階段の踊り場で、例のバスケ部一年が一人うずくまっているのが見えた。


名前はたしか、真壁ミナト。


「……大丈夫」


「御影先輩」


目元が赤い。泣いた痕だ。


けれど本人は泣いていないふりをするように、笑いかけようとして失敗した。


「もう、いいんです」


「よくないだろ」


「でも、先生も困ってるし……俺が黙ってれば済むなら、それで」


その“それで”の響きに、トウマは息を詰めた。


こういう言葉を言わせてしまうのが、たぶん一番まずい。


誰かの痛みが“自分が我慢すれば済む話”に変わったとき、人は一番静かに壊れていく。


「黙るなよ」


「でも」


「悪いのはお前じゃない」


口にしながら、トウマは自分に言っている気もした。


その夜。


トウマは一人で校舎に残っていた。


目的ははっきりしている。教頭室ではない。


もっと目立たず、しかし記録が集まる場所。職員準備室の共有ロッカー。


部費関連の仮保管書類がそこにあると、偶然聞こえた会話から知ってしまった。


盗み見るのは褒められたことじゃない。


けれど、何もしなければ、また誰かが飲み込まれる。


廊下に人の気配はない。


蛍光灯の白さだけが無機質に伸びている。


ロッカーの前に立ったとき、背後で足音が止まった。


「そんなところで何してるの」


振り返ると、三雲カオルがいた。


終わった、と思った。


だが彼女は叱るより先に、トウマの顔を見て少し眉をひそめた。


「あなたさ、変なこと背負い込みすぎ」


「……先生も同じじゃないですか」


「生意気」


そう言いながら、カオルはポケットから鍵を出した。


トウマが言葉を失う。


「これは私が開ける。あなたは見なかったことにする。いい?」


「先生」


「大人のやり方ってやつ。たまには信用しなさい」


ロッカーが開く。ファイルの束。


部費記録。領収書の差し替え。


数字の不自然な空白。


やはり、黒だった。


カオルは一冊抜き取り、静かに息を吐く。


「……やっと掴んだ」


「先生一人でやるつもりですか」


「本当はね。でも、これで黙るなら教師やってない」


その時、廊下の向こうで別の足音がした。


カオルの顔が変わる。


「隠れて」


反射的に、トウマは隣の資料棚の陰に身を潜める。


近づいてきたのは教頭ではなかった。


「おや、三雲先生。こんな時間に」


榊キョウヤだった。


生徒会長が、どうしてこんな時間に職員エリアへいるのか。


違和感より先に、ぞくりとした。


「榊くんこそ」


「生徒会資料の提出です。……何か、面白いものでも見つかりましたか?」


彼の笑みは柔らかい。だが、その奥にある何かはひどく冷たい。


カオルはファイルを閉じた。


「生徒会長が心配することじゃない」


「そうですか。でも最近、学校の中で“見えない正義”が流行っているみたいなので」


「……」


「秩序は保たないといけませんよね」


その一言で、トウマの背筋が冷えた。


キョウヤは何かを知っている。少なくとも、勘づいている。


ただの噂として笑っているのではない。


やがて彼は一礼し、去っていった。


静かになってからも、カオルはしばらく動かなかった。


トウマが棚の陰から出ると、彼女は小さく言った。


「これ、かなり面倒なことになる」


「榊先輩、何なんですか」


「わからない。でも、学校の中で一番“いい顔”が上手いタイプ」


カオルはファイルを封筒に入れ、トウマを見た。


「御影。あなた、弱い子を見捨てられないでしょう」


「……」


「だったら尚更、自分を捨てるようなやり方だけはするな」


帰宅してから、トウマは何度もその言葉を思い返した。


だが、真壁ミナトの赤い目も同じくらい離れなかった。


机に向かい、手帳を開く。


『悪いのはお前じゃない』


そう書き留めたあと、しばらくペン先が止まる。


次に浮かんだのは、別の言葉だった。


『助ける方法は一つじゃない』


けれど本当にそうだろうか。


目の前の理不尽を、たった一言で止められると知ってしまった人間に、他の方法だけを選び続けることができるのだろうか。


その夜、知らない番号から短いメッセージが届いた。


『助けてください』


送り主は、真壁ミナトだった。

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