第七章 知らない名前
翌朝、春日湊は防衛隊の施設で、前日の巡回報告を提出していた。
公園で接触した人型の個体について、確認できた内容を記録する。
以前に森で出会った個体と同一である可能性が高いこと。
人間の言葉を理解し、簡単な会話が成立すること。
飲料水の購入方法を覚え、実際に自分で購入していたこと。
湊は最後に、相手が自分の名前を知らないと話していたことも記載した。
「春日、報告書は終わったか?」
隊員が声を掛ける。
「はい。今、提出します」
「公園での接触について、研究部門から追加の質問が来ている。あとで回答しておいてくれ」
「分かりました」
湊は端末を操作し、報告書を送信した。
その直後、施設内の放送が鳴った。
『第一班、第二班は待機室に集合してください』
湊は立ち上がった。
*
待機室には、隊長と数人の隊員が集まっていた。
正面の画面には、市街地の地図が表示されている。
「昨夜、住宅地の近くで不審な人物が目撃された」
隊長が説明を始めた。
「目撃者によると、夜間に建物の屋根付近を移動していたらしい。警察が周辺を確認したが、現在まで対象は発見されていない」
「人間ではない可能性があるんですか?」
隊員が尋ねた。
「現時点では判断できない。ただ、最近の目撃情報との関連を考慮し、周辺の巡回を行う」
画面に目撃地点が表示された。
湊はその場所を見て、少し考えた。
昨夜の報告と似ている。
ただし、同じ個体が移動したと決まったわけではない。
「対象を発見した場合、まずは警察と連携して周辺住民の安全を確保する。対象への対応は状況を見て判断する」
「了解しました」
隊員たちは装備を確認し、出動の準備を始めた。
*
午前十時。
湊たちは目撃地点の周辺に到着した。
住宅が並ぶ道路を警察官が巡回し、防衛隊は建物の屋上や空き地を確認していく。
「こちら、異常ありません」
「こちらも確認しました」
無線で報告が続く。
湊は建物の間にある細い通路を歩いていた。
そのとき、上の方から小さな物音がした。
顔を上げる。
建物の屋根に、人影が立っていた。
「いた……」
湊は無線を取った。
「こちら春日。屋根の上に人型の対象を確認しました」
『対象の特徴を報告しろ』
「小柄な体格です。以前、公園で接触した個体に似ています」
相手は湊を見下ろしていた。
「おーい!」
湊が声を掛ける。
相手は動かない。
「この前の人だよね?」
相手は屋根の端まで移動した。
そして、隣の建物へ飛び移った。
「待って!」
湊は走り出した。
相手は建物の屋根を移動していく。
その動きは人間のものとは思えないほど軽い。
しかし、攻撃する様子はなかった。
「春日、単独で追うな!」
無線から隊長の声が聞こえる。
「了解!」
湊は足を止め、相手の移動先を確認した。
屋根の上で、相手も立ち止まっている。
しばらく見つめ合ったあと、相手は屋根から地面へ降りた。
湊は慎重に近づいた。
「どうして逃げるの?」
「追ってきた」
「そうだね。見つけたから」
「捕まえる?」
「今のところ、捕まえるつもりはないよ」
相手は湊の後ろを見た。
道路の向こうから、警察官と別の隊員が近づいてきている。
「ほかにもいる」
「うん。俺たちは一緒に仕事をしているんだ」
「仕事?」
「人を守る仕事だよ」
相手は湊を見た。
「人間を守る?」
「そう」
「なぜ?」
「危険なことが起きたら、怪我をする人がいるから」
「人間は弱い?」
「弱いところもあるよ。だから助け合うんだ」
相手は少し考えた。
「あなたも弱い?」
「もちろん。俺一人じゃできないことも多いからね」
「それでも守る?」
「一人で全部守るわけじゃないよ。みんなでやるんだ」
相手はその答えを聞いて、黙った。
そこへ隊員が到着した。
「春日、対象か?」
「はい。今のところ、攻撃する様子はありません」
隊員は相手を警戒しながら、湊の隣に立った。
「対象に質問する。少し下がれ」
「分かりました」
隊員が前に出る。
「君はどこから来た?」
相手は答えなかった。
「ここで何をしている?」
沈黙が続く。
湊は相手の様子を見ていた。
質問が理解できないのか、それとも答えたくないのか。
今の段階では分からない。
隊員は質問を変えた。
「名前は?」
相手は少しだけ顔を動かした。
「……ない」
「名前がない?」
「分からない」
隊員は湊を見た。
湊は小さく頷いた。
「以前も同じことを言っていました」
「そうか」
隊員はそれ以上質問を続けなかった。
そのとき、相手が湊の方を向いた。
「あなたには、名前がある」
「あるよ。春日湊」
「春日……湊」
「うん。春日が名字で、湊が名前」
相手はその言葉を何度か繰り返した。
「湊」
「そう」
「あなたの名前」
「そうだよ」
相手はしばらく湊を見つめていた。
「名前があると、分かる?」
「何が?」
「誰なのか」
湊は少し考えた。
「名前があると、呼びやすいし、誰のことを話しているのか分かりやすいね。でも、名前だけでその人の全部が分かるわけじゃないよ」
「全部は分からない」
「うん。話したり、一緒に何かをしたりして、少しずつ分かるんじゃないかな」
相手は視線を落とした。
それから、湊の名前をもう一度口にした。
「湊」
「どうしたの?」
「覚えた」
湊は笑った。
「ありがとう」
*
その後、対象は警察と防衛隊の監視下で、周辺から離れることを選んだ。
無理に拘束することはなかった。
ただし、現場では対象の移動方向を記録し、周辺住民への安全確認を続けた。
湊は帰隊する前に、もう一度だけ相手を見た。
相手は道路の向こうに立っていた。
人間たちが歩いていく様子を眺めている。
湊が手を上げると、相手も少し遅れて手を上げた。
それを見届けてから、湊は車両に乗り込んだ。
*
同じ日の午後。
久世灯里は、閲覧を許可された観察記録を一つずつ確認していた。
記録には、個体ごとの番号と、観察時の身体状態が記されている。
その中に、ほかの資料とは異なる形式の記録があった。
個体番号00。
記録日時は、十年前。
灯里は画面を開いた。
そこには、研究者による観察内容が残されていた。
身体の状態。
反応の変化。
意思疎通の結果。
そして、最後に記録された項目。
種群全体の活動停止に関する観察。
灯里はその記録を読み進めようとした。
しかし、途中から閲覧制限が掛かっている。
残された文章は短かった。
――対象個体は、他個体の活動状態に影響を与える可能性がある。
――詳細な検証は未完了。
灯里は画面を見つめた。
「00……」
父親の手書き資料にも、何度か登場していた番号だ。
ほかの個体と同じように記録されているが、観察内容には明らかな違いがある。
灯里は、別の資料を検索した。
00に関する記録は、ほとんどが制限されている。
それでも、一つだけ、閲覧可能な文書が残っていた。
父親の研究メモだった。
そこには、短い一文が書かれていた。
――この個体には、まだ未来がある。
灯里はその文章を見つめた。
父親は、00という個体に何を見ていたのだろう。
そして、なぜ十年前の事故に関係する資料の中で、この番号だけが特別に扱われているのだろう。
彼女は端末に記録を保存した。
今すぐ答えを出すことはできない。
ただ、00について調べる必要があることは、はっきりしていた。
*
夜。
街の外れにある建物の屋上で、人型の個体が座っていた。
昼間、湊と話したことを思い返している。
春日。
湊。
名前があると、呼ぶことができる。
名前がなくても、生きることはできる。
しかし、名前があれば、誰かと話すときに相手を区別できる。
個体は自分の手を見つめた。
「私……」
言葉が続かない。
自分が何者なのか、まだ分からない。
それでも、湊という名前は覚えていた。
個体は屋上から立ち上がり、街の明かりを見た。
明日も、あの人間に会えるだろうか。
そのことを考えている自分に、まだ名前はなかった。




