第六章 近づく距離
特殊緊急防衛隊の施設では、ここ数日間に発生した異常事件の報告がまとめられていた。
山林で確認された大型生物。
森の中に現れた人型の個体。
工業地域の倉庫から金属部品を持ち去った個体。
そして、河川敷で目撃された発光する人型の個体。
それぞれの事件に共通しているのは、通常の生物では説明できない特徴が確認されていることだった。
「発生地点が離れているな」
隊長は地図を見ながら言った。
「はい。現時点では、特定の地域に集中しているとは言えません」
報告担当者が答える。
「対象同士の関係も不明か」
「そうです。外見や身体構造には共通点が見られますが、同じ行動を取るわけではありません」
隊長は地図上の印を確認した。
「今後も目撃情報が増える可能性がある。各班は通常の警戒を続けてくれ」
説明が終わると、隊員たちはそれぞれの持ち場へ戻った。
湊は資料を手に取った。
これまで出会った個体は、どれも違っていた。
森にいた個体は、言葉を覚えようとしていた。
倉庫にいた個体は、金属部品を集めていた。
河川敷にいた個体は、何かを探していると言っていた。
同じような姿をしていても、目的は違う。
湊には、まだその違いを理解できていなかった。
*
その日の午後、湊は別の隊員とともに、市街地に近い公園の巡回を担当していた。
公園の周辺では、数日前から不審な人物の目撃情報が寄せられていた。
特別な被害は報告されていない。
ただ、夜間に公園の設備が壊されていたり、飲料水の容器が大量に残されていたりするという。
「普通のいたずらじゃないのか?」
同行する隊員が言った。
「そうかもしれません」
「最近は何でも異常事件に結び付けられそうだな」
「実際に確認するまでは分かりませんよ」
二人は公園の中を歩いた。
遊具に異常はない。
水飲み場も正常に使える状態だった。
しかし、ベンチの近くに空のペットボトルがいくつも置かれていた。
「これか」
隊員が一本を拾い上げる。
ラベルは剥がされているが、一般的な飲料水の容器だった。
「誰かがまとめて飲んだんでしょうか」
「それだけなら問題ないがな」
湊は周囲を確認した。
そのとき、公園の入口付近に人影が見えた。
小柄な人物が、自動販売機の前に立っている。
湊は足を止めた。
「……あれ」
見覚えのある姿だった。
森で出会った人型の個体に似ている。
「どうした?」
「少し確認してきます」
湊は同行者にそう告げ、ゆっくりと近づいた。
相手は自動販売機を見つめていた。
その手には、小銭が握られている。
「こんにちは」
湊が声を掛ける。
相手は振り返った。
やはり、森で出会った個体だった。
「また会ったね」
「……あなた」
「覚えていてくれたんだ」
相手は返事をしなかった。
ただ、手の中の小銭を見せる。
「これで、飲める?」
「うん。お金を入れて、好きなものを選べばいいよ」
湊は自動販売機の操作方法を説明した。
相手は一つずつ手順を確認し、ボタンを押した。
飲み物が落ちてくる。
相手はそれを取り出し、しばらく眺めた。
「前にも買ったよね?」
「飲んだ」
「それなら大丈夫そうだね」
相手は容器の蓋を開けた。
そして、一口飲む。
「……これは、必要?」
「水分は必要だよ。喉が渇くこともあるしね」
「喉が渇く」
「そう。身体が水を必要としている状態かな」
相手は自分の喉に手を当てた。
「私にもある」
「もちろん」
湊は笑った。
相手はその表情を見ていたが、何も言わなかった。
「そういえば、今日は一人?」
湊が尋ねる。
「一人」
「森には戻らないの?」
「森?」
「昨日までいた場所」
相手は少し考えた。
「ここも、森も、同じではない」
「そうだね。ここは町だから」
「町……」
相手は周囲を見渡した。
公園の外には道路があり、その向こうには住宅や店舗が並んでいる。
人々が歩き、車が走り、建物の中で生活している。
相手はそれらを一つずつ見ていた。
「人間は、ここにいる」
「そうだよ」
「たくさんいる」
「うん」
「なぜ?」
湊は少し考えた。
「ここで暮らしているからじゃないかな」
「暮らす」
「食べたり、寝たり、働いたり、誰かと一緒に過ごしたりすることだよ」
相手はすぐには答えなかった。
「それが、生きること?」
「そういう部分もあると思う」
湊はそう答えた。
「でも、人によって違うよ。何を大切にするかも、どう生きたいかも」
相手は飲み物を持ったまま、湊を見つめていた。
「あなたは?」
「俺?」
「どう生きたい?」
突然の質問に、湊は少し驚いた。
「うーん……」
彼は空を見上げた。
「とりあえず、毎日ちゃんと仕事をして、飯を食べて、友達と話して、いろんなことを経験したいかな」
「それだけ?」
「今のところはね」
相手は考えるように視線を落とした。
「それだけで、生きる?」
「それだけでも、十分だと思うよ」
そのとき、同行していた隊員がこちらへ歩いてきた。
「春日、そろそろ移動するぞ」
「分かりました」
湊は相手に向き直った。
「じゃあ、またね」
「また?」
「また会うこともあるかもしれないから」
相手は少し考えたあと、小さく頷いた。
湊が隊員とともに公園を離れていく。
相手はその後ろ姿を見送った。
手に持った飲み物を、もう一度口に運ぶ。
*
その夜、湊は公園での出来事を報告書に記録していた。
対象は以前に森で接触した個体と同一である可能性が高い。
言語による意思疎通は以前より円滑になっていた。
人間社会の基本的な仕組みについては、まだ理解が不十分である。
湊はそこまで書いて、少し手を止めた。
最後に、今日の会話を思い出しながら一文を加えた。
――対象は、人間がどのように生きているのかに関心を示している。
報告書を保存する。
湊は椅子の背にもたれた。
相手が人間の生活に興味を持っているのなら、これからも接触する機会はあるかもしれない。
ただ、相手が人間と同じ生活を望んでいるとは限らない。
湊はそのことを、まだ深く考えていなかった。
*
同じ夜。
久世灯里は、父親の研究資料を机の上に広げていた。
閲覧できるようになった観察記録の中には、個体の行動についての記述もあった。
ある個体は、外部環境の変化に強い関心を示していた。
別の個体は、研究者との接触を避けていた。
また別の個体は、身体の一部を変化させることを繰り返していた。
記録には、それぞれ異なる観察結果が残されている。
灯里はページをめくった。
その中に、父親の手書きによる短い記述があった。
――同じ環境に置いても、彼らの反応は一致しない。
――個体を一括して管理することは、研究上も危険である。
灯里はその文章を読み返した。
「一括して管理……」
父親は、個体をまとめて扱うことに何か問題があると考えていた。
しかし、なぜそこまで強く注意していたのか。
彼女は、別の資料を開いた。
そこには、研究当時の実験計画の一部が残っていた。
複数の個体を同じ条件下に置き、反応を比較する計画。
その計画には、父親による修正の跡があった。
実験対象を一括して扱う項目に、取り消し線が引かれている。
その横には、こう書かれていた。
――個体ごとの意思を確認すること。
灯里は資料を閉じた。
父親は、何を知っていたのだろう。
そして、十年前の事故で、何が起きたのだろう。
彼女は机の上に残った資料を見つめた。
まだ答えは見つからない。
ただ、父親が最後まで守ろうとしていたものが、少しずつ形になり始めていた。
*
深夜。
公園で湊と会った個体は、町の外れにある建物の屋根に座っていた。
遠くには街の明かりが広がっている。
道路を走る車。
窓から漏れる光。
建物の中を行き来する人間たち。
個体は、それらを眺めていた。
昼間、湊が話していたことを思い出す。
食べる。
寝る。
働く。
誰かと過ごす。
それが人間の暮らしだという。
「生きる……」
個体は小さく呟いた。
自分が何を求めているのかは、まだ分からない。
しかし、少なくとも今は、もう少し人間の世界を見てみたいと思っていた。
その考えがどこから生まれたのかも、まだ理解できていなかった。
ただ、個体は屋根から立ち上がり、街の明かりへ視線を向けた。
そして、ゆっくりと歩き始めた。




