第五章 手に入れたいもの
工業地域での異常事件から二日後。
特殊緊急防衛隊の施設には、倉庫内で撮影された映像と、現場から回収された金属片が届いていた。
技術担当者は、金属片を一つずつ確認している。
「表面に大きな損傷はありません。ただ、通常の衝撃で飛ばされた場合とは違う変形が見られます」
「どういうことだ?」
隊長が尋ねた。
「壁に突き刺さった部分だけでなく、金属片全体に圧力がかかったような痕跡があります。単純に投げ飛ばしたわけではないようです」
「それも能力の一部なのか」
「可能性はあります。ただし、仕組みまでは分かりません」
隊長は映像を見た。
人型の個体が金属片を拾い、床に置く。
その直後、周囲の金属片が浮かび上がった。
「現場では、対象はその後どうなった?」
「倉庫の奥へ移動したところで、隊員が追跡を中止しています。その後、警察が建物内部を確認しましたが、対象の姿はありませんでした」
「回収されたものは?」
「金属部品の一部がなくなっています」
隊長は少し考えた。
「つまり、あの個体は金属を持ち去ったのか」
「はい」
湊は報告を聞きながら、映像を見つめていた。
あの個体は、こちらに対して積極的に攻撃してきたわけではない。
ただ、自分に必要なものを手に入れようとしていた。
「春日」
「はい」
「現場で、対象が何か言っていたそうだな」
「はい。『必要』とだけ」
「何が必要なのかは?」
「分かりません。聞いても答えませんでした」
「そうか」
隊長は映像を止めた。
「次に遭遇した場合も、まずは周囲の安全を確保する。相手が何を求めているのかを知ることは重要だが、現場の危険を無視するな」
「了解しました」
*
同じ日の午後。
久世灯里は、父親の資料を整理しながら、古い研究記録の一部を拡大していた。
そこには、個体の身体変化についての図が描かれている。
身体の外側に現れる変化。
内部構造の変化。
外部環境に対する反応。
それぞれに異なる注釈が付けられていた。
灯里は、その中の一つに目を留めた。
――個体の変化は、必要とする環境や活動に応じて現れる場合がある。
「必要とする環境……」
彼女は前に見た記録と照らし合わせた。
父親の研究では、個体の進化は一律に決まるものではないとされていた。
何を求めるのか。
どのような状態を維持したいのか。
その違いが、身体の変化にも影響する可能性がある。
灯里は資料をめくった。
しかし、具体的な個体の記録は残っていなかった。
あるのは研究の途中経過と、いくつかの仮説だけだ。
父親は、まだ答えを得ていなかったのかもしれない。
彼女は端末に新しい検索条件を入力した。
個体番号、活動状況、身体変化。
その三つを組み合わせて検索する。
表示された資料の中に、以前は見落としていた項目があった。
個体別観察記録。
灯里は開こうとした。
しかし、画面には閲覧権限がないという表示が出た。
「ここも制限されているのね」
彼女は申請画面を開いた。
必要な資料を指定し、閲覧理由を入力する。
すぐに回答が返ってくるわけではない。
灯里は申請を送信し、父親の手書き資料に戻った。
*
翌日。
湊たちは、工業地域から少し離れた場所で目撃された別の異常について、現場確認を命じられた。
今回の通報は、住宅地に近い河川敷からだった。
住民が夜間に不自然な光を見たという。
現場に到着した湊たちは、周辺を分担して調べ始めた。
「こちらは異常ありません」
「川沿いも確認しましたが、特に何も見つかっていません」
無線で報告が続く。
湊は河川敷の斜面を下りた。
水面は穏やかで、周囲に大きな変化はない。
そのとき、対岸の草むらが動いた。
「誰かいますか?」
湊は足を止めた。
草むらの向こうに、人影が見える。
人間の姿に近い。
だが、以前に出会った個体とは違い、身体の表面が水に濡れたように光っていた。
相手は湊を見た。
すぐには逃げない。
「ここで何をしているの?」
湊は距離を保ったまま尋ねた。
相手は川の水面を見た。
そして、ゆっくりと手を伸ばした。
水面がわずかに揺れる。
その手の周囲に、小さな光が集まり始めた。
湊は思わず身構えた。
しかし、光は攻撃のようには見えなかった。
相手は水に手を触れたまま、しばらく動かなかった。
「水が欲しいの?」
湊が尋ねる。
相手は首を横に振った。
「違う」
「じゃあ、何をしているの?」
「……探している」
「何を?」
相手は答えなかった。
川の流れを見つめている。
湊は少し待った。
やがて、相手は顔を上げた。
「ここは、どこ?」
「日本の川だよ」
「日本?」
「国の名前。ここは人間が暮らしている場所だ」
相手はその言葉を繰り返した。
「人間が……暮らしている」
「そうだよ」
相手は川から手を離した。
光はゆっくりと消えていく。
「人間は、どこにいる?」
「この辺りにもたくさんいるよ。少し歩けば町がある」
相手は町の方向を見た。
しかし、すぐにそちらへ向かうことはなかった。
「行きたいの?」
湊が尋ねる。
相手は答えない。
そのとき、背後から隊員の声がした。
「春日、そちらはどうだ?」
湊が振り返る。
「人型の対象を確認しました。現在、会話を試みています」
再び対岸を見ると、相手はすでに草むらの奥へ移動していた。
「待って!」
湊は声を掛けた。
しかし、相手は振り返らなかった。
追いかけようとした湊を、隊員が止める。
「無理に追うな。周辺の確認が先だ」
「分かりました」
湊は草むらを見つめた。
あの個体は、何かを探していると言った。
それが何なのかは、結局分からなかった。
*
同日夜。
工業地域の倉庫から金属部品を持ち去った個体は、街から離れた建物の内部にいた。
床には、集めた金属部品が並んでいる。
個体は一つずつ手に取り、形状を確かめていた。
曲がった部品を戻す。
細い部品を別の場所へ移す。
その作業を何度も繰り返している。
やがて、個体は金属部品を組み合わせ始めた。
まだ何かを完成させるには、材料が足りない。
個体は手を止めた。
「……足りない」
短く呟く。
その声には、焦りも怒りもなかった。
ただ、必要なものが不足しているという事実を確認しているようだった。
個体は再び外へ出た。
夜の街を見つめる。
そこには、数え切れないほどの建物と、人間の暮らしがあった。
個体はその光景をしばらく眺めていた。
そして、近くに置かれていた金属製の柵に手を触れた。
柵がわずかに震える。
個体はそのまま、静かに歩き出した。
*
数日後。
久世灯里のもとに、資料閲覧申請への回答が届いた。
すべての資料が許可されたわけではない。
ただし、一部の古い観察記録については閲覧可能になっていた。
灯里は画面を開いた。
そこには、個体ごとの観察日時と、身体の状態が記録されている。
番号は複数ある。
しかし、詳細な記録が残っている個体は限られていた。
灯里はページを進めた。
ある個体の欄には、短い記述があった。
――外部環境への適応傾向が強い。
別の個体には、
――身体構造の変化が継続している。
さらに別の個体には、
――観察者との意思疎通が成立しない。
灯里は記録を読み進めた。
どの個体も同じ状態ではない。
研究者たちも、すべてを理解していたわけではなかった。
その事実は、灯里にとって重要だった。
父親の研究は、完成された技術の記録ではない。
まだ分からないことを調べ、個体ごとの違いを理解しようとしていた途中のものだった。
灯里は最後のページを開いた。
そこには、父親の名前が記録されていた。
その下に、短い手書きの文章が残っている。
――彼らの未来を、こちらの都合で決めてはいけない。
灯里は画面を閉じなかった。
父親が何を守ろうとしていたのか。
その答えに近づくには、まだ多くの資料が必要だった。
そして、今もどこかで目を覚ました個体たちは、それぞれの理由で動き始めている。
彼らが何を求めているのか。
人間とどのような関係を築くのか。
それは、まだ誰にも決められていなかった。




