第54章 境界の向こう側
廃工場の周辺に立入制限が設けられてから四日が経過した。
管理会社による設備確認は終わったが、工場内の電源を完全に切るには、古い配線を一部撤去する必要があった。
その作業を始める前に、防衛隊はもう一度現場を確認することになった。
今回の目的は個体の捕獲ではない。
設備の安全を確保し、個体の活動範囲と人間側の作業範囲を分けられるかどうかを調べることだった。
「工場の電源を完全に停止させると、あの個体の作業にも影響する可能性があります」
現場担当者が説明した。
「逆に、電源を残せば、また設備に異常が起きるかもしれない」
「だから、まず本人の行動を確認する必要があるわけか」
湊は工場の入口を見た。
前回と同じように、個体は建物の奥にいた。
周囲には金属部品が並べられている。以前よりも配置が整理されており、床に直接置かれていた部品の一部は、古い作業台の上に移されていた。
湊たちは入口付近で立ち止まった。
「電源設備の確認を行う。こちらから近づく必要はない」
隊員の一人が作業員に指示を出す。
作業員が工具を取り出したとき、個体が動いた。
金属片を持っていた手を止め、作業員の方へ顔を向ける。
「反応しました」
「作業を止めてください」
湊の声に、作業員が手を止めた。
個体はしばらくその場に立っていた。
そして、作業台の上に置かれた部品を一つ取り、床の別の場所へ移した。
その動作を見た湊は、個体の周囲を確認した。
作業台の近くには、まだ使われていない金属部品がいくつも残っている。個体がそれらを必要としているのか、単に場所を変えているだけなのかは分からない。
「このままでは、設備の撤去作業ができませんね」
作業員が言った。
「個体がいる範囲と、設備を撤去する範囲を分けられないか確認しよう」
「もし移動しなかったら?」
「その場合は、作業方法を変更する。個体を無理に動かすことを前提にはしない」
湊はそう答えた。
隊員の一人は、少し不満そうに個体を見た。
「人間側がずっと合わせる必要があるんでしょうか」
「合わせるかどうかは、状況による」
湊は個体から目を離さなかった。
「ただ、今は人間側にも設備を管理する責任がある。相手が何をしているのか分からないからといって、いきなり全部を取り上げる理由にはならない」
個体は再び金属片を拾い上げた。
その手元では、二つの部品が以前とは異なる角度で組み合わされていた。
しかし、それが何を意味するのかは、まだ誰にも分からなかった。
*
その日の作業は延期された。
管理会社は工場の外側から配線を確認する方法を検討し、防衛隊は個体の活動範囲を記録することになった。
ただし、個体の活動範囲をそのまま人間側の立入禁止区域にするわけではない。
工場は民間企業の所有物であり、周辺には別の事業所もある。設備の安全管理を無期限に先送りすることはできなかった。
人間側の都合と、個体がそこで続けている活動。
両方を考慮したうえで、実際に使える方法を探す必要があった。
湊は現場を離れる前に、もう一度工場の奥を見た。
個体は金属部品を動かしていた。
こちらの判断を待っているようには見えなかった。
ただ、自分の作業を続けていた。
*
一方、灯里は研究施設の資料管理部門に来ていた。
父の研究記録に残されていた、もう一人の共同研究者について調べるためだった。
以前確認した記録には、共同研究者の存在だけが記されていた。
氏名は別紙に記載されているとあったが、その別紙は研究資料の中に見つからなかった。
灯里は管理担当者に記録の移管履歴を確認してもらっていた。
「この時期の研究資料は、十年前の事故後に複数の部署へ移されています」
「移管先は分かりますか」
「一部は分かります。ただ、すべての資料が同じ管理番号で整理されているわけではありません」
「共同研究者の氏名が記載された別紙については?」
担当者は画面を確認した。
「元の資料には添付されていた可能性があります。しかし、移管時の一覧には記録がありません」
「紛失したということですか」
「そこまでは断定できません。別の資料に統合された可能性もありますし、閲覧制限のある部署へ移された可能性もあります」
灯里は画面に表示された移管履歴を見た。
事故後、研究資料の管理部署は何度か変更されていた。
そのうち一度は、通常の研究記録とは別の管理体系へ移されている。
移管理由は、研究内容の再分類。
具体的な分類名は、灯里の権限では確認できなかった。
「閲覧申請はできますか」
「申請自体は可能です。ただし、対象資料が特定できていないので、承認されるかどうかは分かりません」
「分かりました。まず、移管された時期と管理部署を確認したいです」
灯里は必要な情報を書き留めた。
父が何を研究していたのか。
事故の直前に何が起きていたのか。
そして、なぜ一部の記録だけが通常の研究資料から切り離されたのか。
まだ答えは出ていない。
ただ、資料が残っていないことと、資料が存在しなかったことは同じではなかった。
*
同じ頃、研究施設の別棟では、特殊生命体の身体構造に関する会議が開かれていた。
先日回収された試料と、過去の保存資料との比較結果が報告されている。
「今回の試料については、特殊生命体由来である可能性を否定できません。しかし、特定の個体との対応関係は確認できていません」
「身体の一部が変化した結果という可能性は?」
「あります。ただし、変化前の構造が分からないため、どのような過程を経たのかは判断できません」
別の研究員が資料を切り替えた。
「これまでの研究では、能力の強さや危険性を優先して観察してきました。しかし、個体の身体がどのように変化し、その変化が行動とどう結びついているのかについては、十分なデータがありません」
「つまり、今後は個体ごとの長期観察が必要だと?」
「そうです。ただし、対象をどのように確保するかは別の問題です」
会議室に短い沈黙が流れた。
個体を観察するために接近すれば、相手の行動に影響を与える可能性がある。
捕獲すれば、環境が変わり、身体の変化そのものが止まるかもしれない。
遠くから観察するだけでは、内部構造の変化を十分に把握できない。
研究上の必要性と、観察対象の状態を維持することは、必ずしも一致しなかった。
「まずは既存の記録を整理しましょう。新たな接触については、個体ごとに判断する必要があります」
会議はそこで次の議題へ移った。
*
夕方。
廃工場では、個体が再び作業台の前に立っていた。
床に置かれていた金属片のいくつかは、すでに別の場所へ移されている。
個体は細長い部品を二つ並べ、その間に小さな金属片を差し込んだ。
固定されたわけではない。
少し触れれば、簡単に外れてしまう。
それでも個体は、何度か角度を変えながら同じ作業を繰り返した。
やがて、一つの部品が作業台の端から落ちた。
個体はそれを拾い上げた。
今度は、先ほどとは違う場所に置いた。
その動作を何度も繰り返す。
外から見ている者には、効率の悪い作業に見えたかもしれない。
しかし、個体は作業を中断しなかった。
まだ完成していない。
何を完成させようとしているのかも分からない。
それでも、個体は自分の判断で部品を選び、配置を変え続けていた。
その行動を記録する人間たちは、まだその意味を知らない。
そして、その個体もまた、自分の行動が人間たちの記録に残されていることを知らなかった。




