第55章 選ばれなかった場所
廃工場での調査が延期されてから二日後、防衛隊に新たな出動要請が入った。
場所は、市街地から少し離れた資材置き場だった。
敷地内には建設会社が管理する金属資材が保管されている。数日前から、夜間に資材の配置が変わっているという報告があり、管理者が確認に来たところ、倉庫の壁面に大きな亀裂が見つかった。
盗難の形跡はなかった。
監視カメラにも、人間が資材を運び出す様子は映っていない。
ただ、夜間の映像には、倉庫の外側を移動する不明な影が何度か記録されていた。
「特殊生命体の可能性があるということですね」
車内で隊員が資料を確認した。
「現時点では可能性の段階だ。現場の安全を確保してから確認する」
湊は装備を点検した。
今回の場所は住宅地から離れているものの、敷地の隣には小規模な作業所がある。人が残っている可能性もあるため、まず周辺の確認が優先された。
到着すると、資材置き場の管理者が入口で待っていた。
「昨日までは、こんな状態ではなかったんです」
管理者は倉庫の壁を指した。
壁面には、外側から押し広げられたような亀裂が走っている。近くには鉄骨や金属板が積まれていたが、倒壊した様子はなかった。
「中に誰かいる可能性は?」
「確認できていません。夜間は無人です」
「周辺の作業所には連絡しましたか」
「はい。今日は作業を止めてもらっています」
湊は隊員たちに周囲の確認を指示した。
そのとき、倉庫の裏側から金属が擦れる音が聞こえた。
隊員たちが一斉に振り向く。
建物の陰から現れたのは、四肢の長い個体だった。
身体の表面は暗い色をしており、肩から背中にかけて硬い突起のようなものが並んでいる。歩くたびに、その突起がわずかに動いた。
個体は人間たちを見ると、すぐに立ち止まった。
「対象を確認。距離を維持しろ」
隊員が装備を構える。
個体は後ろへ下がった。
しかし、逃げる方向には倉庫の壁がある。
「退路を塞ぐな。左右に広がれ」
湊は隊員たちに指示した。
個体はしばらく動かなかった。
やがて、身体を横に向け、倉庫の壁へ近づいた。
「壁に接触する!」
隊員が警告した直後、個体の前肢が壁面に触れた。
鈍い音が響く。
亀裂が少しだけ広がった。
「攻撃行動か?」
「まだ判断できない。距離を取れ!」
湊たちは倉庫から離れた。
個体は壁を押し続けているわけではなかった。
一度触れた場所から前肢を離し、今度は少し離れた部分に触れた。
また音がする。
壁面の一部がわずかに沈み込んだ。
まるで、壁の状態を確かめているようにも見えた。
「何をしているんだ……」
隊員の一人がつぶやいた。
湊には分からなかった。
ただ、壁が崩れれば、個体自身も危険にさらされる。
「倉庫の構造を確認する。崩落の可能性がある。全員、建物から離れろ」
個体は人間たちの動きに反応し、壁から離れた。
そして、積み上げられた鉄骨の方へ歩いていった。
*
資材置き場の外では、建設会社の担当者が防衛隊の説明を待っていた。
「倉庫が壊されるのを黙って見ているわけにはいきません」
「建物の安全確認が先です。個体が何をしているのか分からない状態で近づけば、さらに損傷する可能性があります」
「では、資材も使わせるということですか」
「それも決まっていません。所有者の許可なく持ち出してよいわけではありませんから」
担当者は納得できない様子だった。
「こちらは何もしていないのに、なぜ人間側が制限されるんですか」
湊はすぐには答えなかった。
管理者の立場からすれば、突然現れた個体によって所有物や施設に損害が出ている。作業を止める必要も生じていた。
一方で、個体が人間を襲ったという事実はない。
どちらか一方の事情だけで判断できる状況ではなかった。
「損傷した設備については、調査結果をもとに管理会社と対応を協議します。ただ、今は安全が確認できるまで倉庫に近づかないでください」
「いつまでですか」
「確認でき次第です。期限を決めて安全を無視することはできません」
担当者は不満を残したまま、建物の方を見た。
*
その後の調査で、倉庫の壁面には以前から内部の腐食が進んでいたことが分かった。
個体が触れたことで亀裂が広がったのは事実だったが、損傷のすべてを個体の行動だけで説明することはできなかった。
資材置き場の監視映像を詳しく調べると、個体は数日前から敷地内に出入りしていた。
その間、金属資材の一部が何度も移動していた。
しかし、持ち出されたものは確認されていない。
個体は資材を別の場所へ運び、しばらくすると元の場所へ戻すこともあった。
「また、何かを作っているのでしょうか」
隊員が映像を見ながら尋ねた。
「そうかもしれない。ただ、前の工場の個体と同じ目的だと考える根拠はない」
「同じような行動をする個体が複数いる可能性もありますね」
「可能性はある。だから、今は別々に記録する」
湊は映像を停止した。
画面の中で、個体は一本の鉄骨を持ち上げていた。
しばらく周囲を確認した後、鉄骨を地面に置く。
その隣には、別の金属部品が並んでいた。
しかし、組み合わせる様子はなかった。
*
灯里は研究施設で、父の資料と最近の現場報告を照合していた。
今回の個体については、まだ詳細な身体分析が行われていない。
ただ、倉庫の壁面に生じた損傷と、個体の身体構造には興味深い点があった。
個体の前肢には、通常の外骨格とは異なる硬質部分が確認されている。
その構造が壁面の損傷に関係している可能性はあるが、映像だけでは判断できない。
灯里は分析担当者に尋ねた。
「現場で採取した壁面の破片はありますか」
「あります。ただし、個体の身体由来の物質が付着しているかどうかは、まだ確認できていません」
「分析結果が出たら、既存の試料とも比較してください」
「分かりました」
灯里は報告書を閉じた。
最近の事例では、個体の行動と周囲の環境が直接関係していることが多い。
しかし、環境に影響を与えたという事実だけで、その行動の目的まで決めることはできない。
人間にとっては破損であっても、個体にとっては別の意味があるかもしれない。
もちろん、その意味が分かったとしても、人間側が受ける損害を無視できるわけではなかった。
*
夜。
資材置き場では、個体が再び鉄骨の近くにいた。
昼間に人間たちが設置した柵の外側で、警備員が巡回している。
個体は柵を越えようとはしなかった。
鉄骨の一本に前肢を触れさせ、ゆっくりと向きを変える。
それから、少し離れた場所にある金属板へ移動した。
金属板の端を持ち上げようとするが、重さのためか、途中で動きを止める。
個体は何度か姿勢を変えた。
やがて、金属板から手を離した。
そのまま倉庫の方へ向かうこともなく、資材置き場の奥にある空き地へ移動していった。
そこには、何も置かれていなかった。
個体はしばらく空き地に立っていた。
そして、地面に前肢をつけた。
何かを探しているのか。
それとも、そこを選んだのか。
人間たちには、まだ分からなかった。
ただ、その場所には、以前まで個体が触れていた資材も、倉庫の壁もなかった。




