第53章 誰のための記録
廃工場の敷地内には、長い間使われていない機械がいくつも残されていた。
割れた窓から差し込む光が、床に散らばった金属片を照らしている。錆びた鉄骨、古い配管、取り外された機械部品。かつてここで何が作られていたのか、今となっては外から判断することも難しい。
湊たちが到着したとき、灰色の細長い個体は、工場の奥にいた。
人間に似た姿ではあるが、腕の長さや関節の構造は人間とは異なる。指先は細く、金属片をつまみ上げる動作には無駄がなかった。
個体は床に置かれた部品を一つずつ拾い、少し離れた場所へ運んでいた。
「また何か作っているのか……」
隊員の一人が小さくつぶやいた。
「まだ、何をしているのかは分からない」
湊は距離を保ったまま答えた。
「周囲を確認する。電源設備が残っている可能性がある。不用意に近づくな」
隊員たちは建物の周辺を確認した。
工場の電力設備は完全には停止していなかった。管理会社の記録によれば、建物自体は長期間使用されていないものの、一部の設備には保守用の電源が供給されている。
そのとき、個体が一つの金属部品を持ち上げた。
部品の先端が、古い機械の側面に触れる。
直後、機械の内部で小さな音がした。
照明が一度だけ明滅し、壁際の制御盤の表示が消えた。
「電源が落ちた!」
隊員が声を上げる。
湊はすぐに手を上げた。
「全員、停止。機械には触るな」
個体は動きを止めていた。
こちらを見ているのか、それとも機械の変化を確認しているのかは分からない。
しばらくして、個体は再び金属片を拾い上げた。
逃げようとはしなかった。
攻撃する様子もない。
ただ、自分の作業を続けようとしている。
「危険がないとは言えません。設備に影響を与えています」
「分かっている」
湊は個体の手元を見た。
その周囲には、大小さまざまな金属部品が並べられていた。偶然散らばったようには見えない。しかし、何らかの規則に従っているのか、完成形を目指しているのかまでは判断できなかった。
「まず電源設備を管理会社に確認させよう。周辺への影響がないことを確かめる。それまでは立入範囲を制限する」
「捕獲は?」
「今の段階では必要ない。こちらに危害を加えていないし、無理に接近すれば、何をするか分からない」
隊員は納得しきれない表情を浮かべたが、それ以上は反論しなかった。
湊はもう一度、個体を見た。
個体は床に置かれた部品を一つ持ち上げ、別の部品の隣に置いた。
そして、しばらくその配置を眺めていた。
何かを確かめているようにも見えた。
*
調査終了後、回収された現場記録は防衛隊の管理部門へ送られた。
電源設備の停止については、管理会社による確認が必要とされた。工場周辺への立入制限も継続されることになった。
個体の行動については、攻撃性の有無だけでなく、周辺環境への影響も含めて記録するよう指示が出された。
その記録には、湊が現場で報告した一文も残されていた。
『当該個体は、周囲の金属部品を収集し、一定の配置に変更している。目的は不明。現時点で人間への直接的な攻撃行動は確認されていない』
報告書を確認した隊員の一人が、最後の一文に目を止めた。
「目的不明、か」
彼は画面を閉じた。
「分からないことが多すぎるな」
それは、誰も否定できない事実だった。
*
同じ頃、研究施設では別の調査が進んでいた。
先日の丘陵地帯で回収された小さな試料について、研究員たちが追加分析を行っていた。
試料は通常の岩石や金属とは異なる構造を持っていた。
古い特殊生命体の資料と照合したところ、一部に類似する構造が確認された。しかし、完全に一致するわけではない。
「同じものとは断定できませんね」
「ええ。現時点では、関連性がある可能性を残す程度です」
研究員は比較画像を並べた。
構造の一部は似ている。
しかし、形成過程も由来も分からない。
過去の資料には、特殊生命体の身体構造が環境や経験によって変化する可能性が記されていた。だが、その変化がどの程度まで進むのか、どのような条件で起きるのかについては、十分な記録が残っていなかった。
「個体ごとの変化を、もっと詳しく追う必要があります」
「今までの記録は?」
「能力や危険性を中心にしたものがほとんどです。身体構造の変化と、本人の行動や目的を結びつけた記録は少ないですね」
研究員は新しい観察項目を追加した。
個体の行動。
身体構造の変化。
環境との相互作用。
変化の継続性。
それらを一つの記録として扱うための分類だった。
新しいファイルには、まだ個体番号も名前も記されていない。
確認されていない情報を、先に埋めることはできなかった。
*
灯里は、父の残した資料を整理していた。
先日の調査で見つかった古い記録には、特殊生命体が金属などの材料を集め、周囲の物体の配置を変えていたという記述があった。
ただし、その個体が何を目的としていたのか、最終的に何を作ったのかは書かれていない。
記録はそこで途切れていた。
灯里は該当するページをもう一度読み直した。
今回の廃工場で確認された個体と、過去の記録に残る個体が同一である証拠はない。
似た行動をする別の個体かもしれない。
あるいは、外見や行動が異なるだけで、何らかの共通点を持っている可能性もある。
今の段階で結論を出すことはできなかった。
灯里は資料を閉じた。
父の研究記録には、能力の数値や身体の構造だけでなく、個体が何を選び、何を続けようとしていたのかを残そうとした形跡があった。
しかし、その記録は不完全だった。
研究者が残した情報は、研究者が見た範囲に限られる。
記録されなかった行動がなかったことになるわけではない。
*
数日後。
廃工場の立入制限区域では、管理会社による設備確認が続いていた。
電源設備に異常が見つかったため、一部の供給は停止されていた。
個体は、その後も工場の奥にとどまっていた。
金属部品を集める行動は変わらない。
ただ、以前と比べて、部品の配置には少しずつ変化が見られた。
ある部品は、別の部品の上に重ねられていた。
別の部品は、少し離れた場所へ移されていた。
そして、以前から置かれていた一つの金属片だけは、個体が何度も位置を調整していた。
その日、個体はその金属片を持ち上げた。
少し考えるように動きを止めたあと、別の部品の隣へ置いた。
今度は、元の位置には戻さなかった。
何が変わったのか。
何が完成に近づいたのか。
外から見ている者には、まだ分からない。
それでも、個体にとっては、その配置を変えることに意味があった。
誰かに命じられたわけでもない。
研究者に評価されるためでもない。
ただ、自分が続けていることだった。
工場の外では、立入制限を示す柵が風に揺れていた。
個体はその音に反応することなく、次の金属片へ手を伸ばした。




