第52章 残された記録
特殊防衛部隊の技術管理室では、前日の装備試験に関する検証が続いていた。
春日湊は椅子に座り、技術員から説明を受けていた。
「停止遅延が発生したのは、高負荷状態から停止信号を送った場合です」
技術員は画面に二つの波形を表示した。
「通常の動作では、前回より改善しています。ただし、強い負荷がかかると制御部の反応が遅れます」
「昨日みたいに、大きな岩を押さえたときですね」
「そうです。装備そのものが壊れたわけではありません。ただ、現時点では安全に使用できる負荷の範囲を限定する必要があります」
湊は自分の腕を見た。
「じゃあ、しばらくは前の装備に戻るんですか?」
「基本的にはそうなります。今回の試験装備は改良を続けます」
説明が終わると、湊は技術管理室を出た。
廊下の向こうから、班長と別の隊員が歩いてくる。
「春日、ちょうどいいところにいた」
「何かありましたか?」
「昨日の崩落現場で見つかったものについて、確認が入った」
班長が端末を差し出した。
画面には、斜面の岩の隙間を撮影した写真が表示されている。
そこには、細長い溝のようなものが残っていた。
「昨日の個体が通った場所ですか?」
「可能性はある。ただ、技術班の見解では、自然にできた亀裂とは少し違うらしい」
「何かを削った跡ですか?」
「まだ分からない。問題はこっちだ」
班長は別の写真を表示した。
岩の表面に、薄い光沢を持つ小さな物体が付着している。
大きさは指先ほどだった。
「現場の調査員が回収した。通常の岩石とは組成が異なるらしい」
「特殊生命体の一部でしょうか?」
「断定はできない。現時点では未分類物質だ」
湊は写真を拡大した。
表面には細かい筋が走っている。
生物の組織にも、金属の破片にも見える。
「これが昨日の個体と関係しているんですか?」
「そこも調査中だ。お前が見た影の個体についても、映像から特徴を整理している」
班長は端末をしまった。
「今の段階では、現場に残ったものと個体を結びつける根拠はない。勝手に判断するなよ」
「はい」
同じ頃、久世灯里は研究施設から取り寄せた資料を確認していた。
父親が関わっていた十年前の研究記録。
その中には、実験対象の身体構造を調べた資料だけでなく、施設周辺で採取された物質の分析記録も含まれていた。
灯里は一枚の資料を取り出した。
そこには、特殊生命体の身体から分離された物質について記載されていた。
しかし、記録の大半は黒塗りになっている。
残された部分には、短い文章があった。
「個体由来の物質は、通常の生体組織と同一の分類には収まらない」
灯里は、その下の記述に目を向けた。
「外部環境に応じた構造変化を確認。変化後も、元の組織との連続性を保持」
彼女は資料の番号を確認した。
別のファイルにも同じ番号が記載されている。
そちらは十年前の事故より前に作成されたものだった。
「事故の前から……」
灯里は二つの記録を並べた。
父親たちは、すでに特殊生命体の身体が環境に応じて変化することを知っていたらしい。
ただし、現在の個体に見られるような進化と、当時の実験で確認された変化が同じ現象なのかは分からない。
彼女は資料の末尾を確認した。
担当研究者の欄には、父親の名前があった。
その隣には、別の研究員の署名も残されている。
灯里はその名前を記録した。
これまで調べてきた資料には、ほとんど登場していない人物だった。
夕方。
湊は施設の外で、装備の返却手続きを終えていた。
帰ろうとしたところで、灯里から連絡が入った。
『少し確認したい資料があるんだけど、時間はある?』
「今なら大丈夫です」
『前に話した十年前の研究記録について。少し気になることが見つかった』
「分かりました。どこに行けばいいですか?」
待ち合わせ場所に着くと、灯里はすでに資料を広げていた。
「これを見て」
湊は紙面を覗き込んだ。
「特殊生命体の身体が変化する記録ですか?」
「そう。今まで私は、個体の身体変化について、最近になって研究が進んだものだと思っていた」
灯里は別の資料を重ねた。
「でも、十年前の段階で、すでに確認されていた」
「じゃあ、昔から進化していたんですか?」
「進化と呼んでいいのかは分からない。記録にあるのは、環境に応じて身体構造が変化したという事実だけ」
灯里は資料の一部分を指した。
「ここには、変化した身体が元の状態に戻らなかった例もある」
「元に戻らない……」
「そう。少なくとも、研究者たちは一時的な反応として扱っていなかった」
湊は資料を見つめた。
森で出会った個体のことを思い出す。
人間の飲み物に興味を持ち、遊ぶことを覚え、何かを守ろうとしていた小さな人型の個体。
川辺で水の流れを見つめていた個体。
金属を集め、何かを作ろうとしていた個体。
それぞれの身体は違い、行動も違っていた。
「今いる個体たちも、同じように変わっているんでしょうか」
「可能性はある。でも、記録だけでは判断できない」
灯里は資料を閉じた。
「もう一つ、気になることがある」
「何ですか?」
「この研究記録には、身体変化の観察だけでなく、個体が何をしていたのかも書かれている」
「行動ですか?」
「ええ。何を探していたのか、何に反応したのか、どんな環境を選んだのか」
灯里は少し考えてから続けた。
「当時の研究者たちは、身体だけを見ていたわけではなかったみたい」
湊は頷いた。
「それなら、今の僕たちも、もっと行動を記録したほうがいいですね」
「そう思う」
「危険かどうかだけじゃなくて、何をしているのかも」
灯里は返事をしなかった。
その考えに賛成しているのか、それとも別のことを考えているのか、湊には分からなかった。
やがて彼女は、資料の端に書かれた研究員の名前を指した。
「この人を探したい」
「お父さんと一緒に研究していた人ですか?」
「そう。事故の前後で、記録の残り方が不自然なの。何を知っていたのか確認したい」
「今も研究所にいるんでしょうか?」
「分からない。少なくとも、現在の研究組織には名前がない」
灯里はその名前を手帳に書き写した。
その夜。
研究施設の地下区画では、別の分析作業が行われていた。
崩落現場から回収された物質が、透明な容器の中に置かれている。
研究員は顕微鏡の画像を拡大した。
「組成は?」
「既存の金属材料とは一致しません。生体由来の特徴もありますが、通常の組織とは異なっています」
「十年前の保存資料と比較してくれ」
別の研究員が端末を操作した。
画面に複数の分析結果が並ぶ。
しばらくして、一つの項目に反応が表示された。
完全な一致ではない。
しかし、構造の一部に共通点が見られた。
研究員は結果を保存した。
「過去の個体由来資料と、部分的な類似性があります」
「同じ個体のものか?」
「そこまでは分かりません。個体の特定には追加分析が必要です」
責任者は容器を見つめた。
「引き続き分析しろ。現場の映像とも照合する」
研究員が頷く。
容器の中の物質は、何も反応しない。
ただ、表面の細い筋が、照明を受けてわずかに光っていた。




