第四十九章 それぞれの境界
山間部の道路に、規制線が張られていた。
前日の夜、道路脇の斜面で大きな地響きが確認された。付近を通行していた車両の運転手が、斜面の下を移動する巨大な影を目撃している。
通報を受けた特殊緊急防衛隊は、周辺道路を封鎖し、住民と通行車両を別の経路へ誘導していた。
「現場の状況は?」
湊がヘルメットを直しながら尋ねる。
隣にいた隊員が端末を確認した。
「斜面の一部が崩れている。道路までは届いていないが、地盤が緩んでいる可能性がある。目撃された影については、まだ確認できていない」
「人は?」
「負傷者はいない。近くの作業員も全員避難済みだ」
湊は道路の先を見た。
木々の間には、斜面から転がり落ちた岩がいくつも散らばっている。
その一つは乗用車ほどの大きさだった。
「自然に崩れた可能性もあるんですよね?」
「ああ。だから、原因を決めつけるな。生物がいたとしても、崩落との関係は別に確認する必要がある」
隊長の指示を受け、隊員たちは二つの班に分かれた。
湊は数名の隊員とともに、道路脇の林へ入った。
しばらく進むと、地面に深い足跡のような痕跡が見つかった。
人間の足跡とは明らかに違う。
周囲の土が押し固められ、近くの木の幹には硬いものが擦れたような跡が残っていた。
「いた可能性は高そうですね」
隊員の一人が周囲を警戒する。
湊も銃を構えた。
そのとき、木々の奥で何かが動いた。
大きな影だった。
背中には不規則な突起が並び、身体の表面は岩のように硬そうに見える。
以前から目撃されている大型個体に似ていた。
しかし、同じ個体なのかは分からない。
大型個体は防衛隊の存在に気づくと、しばらくその場にとどまった。
攻撃する様子はない。
だが、近づいてもいない。
「こちらを見ているのか……?」
隊員が小さくつぶやいた。
大型個体の背後で、もう一つ影が動いた。
人型だった。
その個体は斜面に手を触れた。
すると、足元の岩の表面に細かな亀裂が走った。
岩の一部が崩れ、地面に落ちる。
「能力の発現か?」
「待ってください。こちらへの攻撃とは限りません」
湊が言った。
しかし、隊員は銃口を下げなかった。
人型個体は防衛隊を見た。
その後、手を岩から離し、木々の間へ移動した。
大型個体も反対側へ歩き始める。
二体は互いに接触しなかった。
一緒に行動しているようにも見えない。
ただ、同じ場所にいたという事実だけが残った。
「追跡しますか?」
「いや。斜面の状態を確認する。無理に追えば、こちらが危険になる」
隊長の判断で、部隊は現場の記録を優先した。
湊は最後に、二体が消えた方向を見た。
彼らが何を考えていたのかは分からない。
ただ、少なくとも今のところ、こちらに向かってくる意思は確認できなかった。
それだけだった。
*
帰隊後、現場映像の確認が行われた。
大型個体の身体的特徴、人型個体の行動、斜面の状態。
それぞれ別の項目として整理されていく。
「今回の人型個体は、以前の道路崩落現場で確認されたものと同一でしょうか」
隊員が尋ねた。
研究担当者は映像を止めた。
「外見上の共通点はある。ただし、同一個体と判断できる情報は不足している」
「岩の表面を変化させる能力については?」
「映像だけでは仕組みを特定できない。どの程度の範囲に作用するのかも分からない」
「つまり、現時点では評価できないということですね」
「そうだ」
説明を聞いていた隊員の一人が腕を組んだ。
「いつまで評価できないと言い続けるんですか」
室内の視線が集まる。
「現場では、相手が何を考えているかなんて分からない。こちらが攻撃されてから判断するのでは遅いでしょう」
別の隊員が反論した。
「だからといって、見つけた個体をすべて攻撃するんですか」
「危険があるなら排除するべきだ。相手が人間と同じ考え方をする保証もない」
「攻撃していない個体まで同じ扱いにする理由にはならない」
「攻撃していないから安全だとでも?」
二人の声が少しずつ強くなった。
隊長はすぐには口を挟まなかった。
湊は二人を交互に見た。
どちらも、現場を経験している隊員だった。
危険な個体によって仲間が負傷する場面を見た者もいる。
一方で、何もしていない個体に対して、最初から武器を向けることに抵抗を感じている者もいる。
「俺たちの仕事は、住民を守ることです」
別の隊員が口を開いた。
「相手が何であっても、危険があるなら止めなければならない。ただ、止める方法が攻撃だけとは限らないと思います」
「その方法が通用しなかったら?」
「そのときは別の判断が必要です」
「現場でそんな余裕があると思うか?」
議論は簡単にはまとまらなかった。
隊長がようやく口を開いた。
「意見は分かった。だが、今の段階で部隊全体の方針を一つに決めることはできない。個体ごとの行動、現場の危険性、住民への影響を確認する。それが現時点での判断だ」
会議はそこで終了した。
湊は端末を閉じた。
誰かの意見だけを聞けば、簡単に答えが出るような問題ではなかった。
*
その日の夕方、久世灯里は研究施設の資料閲覧室にいた。
机の上には、十年前の研究施設一覧と、現在使用されている施設の管理記録が並んでいる。
彼女は複数の番号を照合していた。
以前から気になっていたことがある。
父が関わっていた施設の一部が、現在も別の管理番号で記録に残っているのだ。
ただし、研究内容はほとんど閲覧できなかった。
灯里は職員に確認した。
「この施設の旧記録について、現在の管理担当部署はどこですか」
職員は画面を確認した。
「資料の種類によって異なります。研究記録は研究管理部門、移送に関する記録は別の管理部門が保管しています」
「同じ施設の記録なのに、保管先が違うんですか」
「管理上の区分です」
「十年前の事故記録もですか」
職員は少し間を置いた。
「事故記録については、通常の閲覧申請では確認できません」
灯里は職員の表情を見た。
「閲覧できない理由は?」
「私の権限では説明できません」
それ以上の回答はなかった。
灯里は資料を閉じた。
十年前の研究と現在の研究。
その間に、何が引き継がれ、何が変更され、何が隠されているのか。
父の名前が記録に残っていることだけでは、何も判断できない。
彼が何を考え、何に反対し、どこまで関わっていたのか。
それを知るためには、さらに奥の資料へ進む必要があった。
*
夜。
防衛隊の施設では、装備の点検が行われていた。
湊は腕部の補助装置を外し、担当者に渡した。
「最近、停止するときに少し遅れる感じがします」
「急停止時の反応遅延は、まだ完全には解消されていない」
「訓練でも気になりました」
「出力を上げれば負荷も増える。現在の調整では、これ以上の改善は難しい」
担当者は装置の記録を確認した。
「新しい試験装備の導入については、上から連絡が来ている。詳細はまだ分からないが、現在の装備とは異なる方式になる可能性がある」
「新しい方式?」
「まだ説明できる段階ではない」
湊は少し考えた。
「安全性は確認されているんですか」
「確認中だ」
その返答を聞いて、湊はそれ以上尋ねなかった。
装備を受け取ると、自分の腕を軽く動かす。
今の装備でも、完全に身体の動きを補助できるわけではない。
まして、まだ分からないものを使うとなれば、慎重になる必要がある。
施設の窓の外では、夜間訓練を終えた隊員たちが帰っていく。
彼らもまた、それぞれ違う考えを持っていた。
同じ制服を着て、同じ任務を与えられていても、何を守りたいのか、どこまで許容できるのかは同じではない。
湊は装置を棚に戻した。
まだ答えは出ていない。
そして、答えを出すために必要なものも、十分にはそろっていなかった。
遠く離れた研究施設の地下では、00番の生命維持装置が静かに稼働していた。
モニターに表示された数値は、これまでとは異なる周期で変化している。
研究員が記録を確認し、装置の映像を拡大した。
閉じられたままの瞼。
動かない身体。
その指先が、ほんのわずかに動いた。
研究員は画面を見つめた。
「……また反応した」
記録が保存される。
まだ誰も、その変化が何を意味するのか説明できなかった。




