第四十四章 選ばれた対象
特殊緊急防衛隊の本部に、財閥側から新しい通達が届いた。
内容は、今後の現場対応における情報共有と、特殊生命体の保護・移送に関する運用変更についてだった。
隊員たちは会議室に集められ、資料を配られた。
「今回の変更は、現場で確認した個体の情報を、より早く研究部門と共有するためのものです」
説明を担当する財閥側の職員が話し始めた。
「これまでは現場ごとに報告を行っていましたが、今後は個体の特徴や行動履歴を整理し、必要に応じて専門部門へ引き継ぎます」
「引き継ぐ、というのは?」
隊員の一人が尋ねた。
「調査や保護が必要と判断された場合、専門施設での観察を検討します」
「本人の意思は確認するんですか?」
湊が尋ねた。
職員は一瞬だけ資料に目を落とした。
「意思疎通が可能な場合は、可能な限り確認します。ただし、意思疎通が難しい場合や、周囲に危険を及ぼす可能性がある場合は、現場の状況を踏まえて判断することになります」
「誰が判断するんですか?」
「防衛隊と専門部門が協議します」
「本人が行きたくないと言った場合は?」
職員はすぐには答えなかった。
「個体ごとの状況によります。現時点では、すべてのケースに適用できる統一基準はありません」
湊は資料を見た。
そこには、保護対象の選定、移送の必要性、観察環境の確保といった項目が並んでいる。
「保護すること自体は必要だと思います」
湊は続けた。
「でも、保護する側が全部決めていいという意味ではないですよね」
職員は湊を見た。
「その点については、今後の運用の中で検討されることになります」
会議室には、納得した者もいれば、まだ疑問を持っている者もいた。
隊長は資料を閉じた。
「現場では、これまでどおり具体的な行動と危険性を確認する。個体の特徴だけで対応を決めることはしない」
*
会議が終わったあと、湊は廊下で同僚と話していた。
「専門施設で観察するって、実際にはどうなるんだろうな」
「安全な場所で調べるんじゃないか?」
「それならいいんだけど」
「何か気になるのか?」
「自分から行きたいと思っているならいい。でも、本人が何も知らないまま連れていかれるなら、少し違う気がする」
同僚は肩をすくめた。
「現場で危険な個体に遭遇したら、そんなことを考えている余裕はないかもしれない」
「それはそうだよ。人が襲われているなら止めなきゃいけない」
湊は否定しなかった。
「ただ、危険かどうかと、どこに連れていくかは、別に考えた方がいいと思う」
同僚は少し考えたあと、話題を変えた。
*
その日の午後、防衛隊は郊外の住宅地へ向かった。
住民から、夜間に建物の外壁が変形しているという通報があったためだ。
現場に到着すると、住宅の外壁の一部が不自然にへこんでいた。
壁の表面には、黒い線のような痕跡が残っている。
「以前の施設で確認されたものに似ていますね」
隊員が写真を撮影した。
「同じものとは限らない。周囲も調べろ」
隊長が指示する。
湊は住宅の所有者に話を聞いた。
「最初に気づいたのは、いつですか?」
「昨日の夜です。窓の外で何かが動いたように見えて、朝になって確認したら壁がこうなっていました」
「何か音はしましたか?」
「小さな音が何度か。でも、誰かが壁を叩いているような音ではありませんでした」
「人影は?」
「はっきりとは見ていません。ただ、壁の近くに黒っぽいものがあったような気がします」
湊は壁を確認した。
黒い痕跡は、表面に浮かんでいるようにも見える。
しかし、触れても明確な変化はなかった。
「原因が分かるまでは、この周辺に近づかないようにしてください」
「分かりました」
住宅の周囲を調べていると、隊員の一人が建物の裏手から声を上げた。
「隊長、こちらに反応があります」
全員がそちらへ向かう。
建物の裏にある細い通路。
その先の壁に、人影が立っていた。
身体の輪郭は曖昧で、壁と重なっているように見える。
「対象を確認。距離を保て」
隊長が指示する。
人影は壁に手を触れた。
その部分の表面がわずかに歪み、黒い線が広がる。
だが、数秒後には元の状態へ戻った。
「壁が……」
隊員が呟く。
湊は人影を見た。
「そこは人が住んでいる場所です」
人影は動きを止めた。
「何をしているんですか?」
返事はない。
人影は壁から手を離した。
そして、通路の奥へ移動する。
「待て!」
隊長が声を上げた。
人影は振り返らず、建物の陰へ消えていった。
隊員たちは慎重に追跡したが、通路の先には誰もいなかった。
*
現場の確認を終えたあと、壁の痕跡は専門部門へ送られることになった。
住宅の所有者には、追加調査が終わるまで周辺の安全を確認するよう説明した。
「今回の人影が、壁の変形を起こしたのかは分かりませんね」
湊が報告する。
「そうだ。触れたときに変化が起きたことは確認できたが、それが意図的なものかどうかも分からない」
「以前の個体と同じかどうかも、まだ判断できません」
「そのとおりだ」
隊長は報告書に記録を残した。
*
財閥の研究施設では、住宅地で撮影された映像が分析されていた。
「壁面の変化は、過去に確認された現象と似ています」
「同一個体か?」
「映像だけでは判断できません」
「個体の接触と壁面の変化に因果関係はあるか?」
「時間的には一致しています。ただ、接触によって変化したのか、別の要因が同時に発生したのかは不明です」
責任者は映像を止めた。
「個体の移送記録と照合できるか確認しておけ」
「管理部門への申請が必要です」
「申請しろ」
研究員は端末に向かった。
画面の別の場所には、特殊生命体の捕獲・管理に関する情報が表示されていた。
その情報の一部は、現場部門からは閲覧できない設定になっている。
研究員は申請を送信したが、すぐに承認されることはなかった。
*
夜、灯里は父親の古い研究記録を確認していた。
今回の壁面変化について、父親の資料には似た現象の観察記録が残されていた。
ただし、そこには原因の断定はない。
灯里は記録の一文を読み返した。
――観察された変化と、個体が意図した行動を混同してはならない。
父親は、何度も同じ問題を指摘していた。
彼女は資料の作成日を確認した。
事故が起きるより前の日付だった。
その頃から父親は、個体の行動を単純に分類することに慎重だったのだろう。
しかし、現在の研究では、個体の行動を能力や危険性によって分類し、管理対象を決めようとしている。
灯里は画面を閉じた。
父親が何を守ろうとしていたのか。
それを知るためには、制限された資料を確認する必要がある。
*
深夜。
番号00の生命維持装置では、研究員が定期確認を行っていた。
生命活動の数値に大きな変化はない。
身体も動いていない。
研究員は測定結果を記録し、装置の状態を確認した。
そのとき、内部の神経活動を示す波形が短く変化した。
「……またか」
研究員は記録を保存した。
以前よりも変化の頻度は増えている。
しかし、意識が戻っているかどうかは分からない。
研究員は容器の中を見た。
静かに横たわる身体。
閉じられた目。
そして、十年間変わらなかった姿。
装置の扉は、今日も開かれなかった。




