第四十二章 知らない名前
特殊緊急防衛隊に、山間部の施設から連絡が入った。
施設は、以前から使用されている小規模な水質観測所だった。
管理者によれば、数日前から観測機器の数値が不安定になり、夜間には水路付近で人影が目撃されているという。
「水質に異常があるんですか?」
出動前の会議で、湊が尋ねた。
「現時点では確認されていない。機器の故障なのか、外部から何か影響を受けているのかも分からない」
隊長は観測所の位置を画面に表示した。
「付近には河川がある。以前、水辺で目撃された個体との関連も考えられるが、同一とは限らない」
「現場で確認する必要がありますね」
「ああ。水路に近づく際は足元に注意しろ。機器の状態も記録する」
*
観測所は山間部の河川沿いに建てられていた。
周囲には人家が少なく、建物の裏側には水位を測定する設備が並んでいる。
管理者が入口で待っていた。
「こちらが異常の出ている装置です」
案内された機器には、複数の数値が表示されていた。
「数値が変化する時間帯は決まっていますか?」
「夜間が多いですが、昼間にも一度ありました。急激に上がったり、元に戻ったりしています」
「水そのものに異常は?」
「採取した水を調べましたが、特別な異常は見つかっていません」
湊は装置の周囲を確認した。
配線には目立った損傷がない。
ただ、測定器の近くにある金属製の固定具が少し緩んでいた。
「ここは以前から緩んでいたんですか?」
「いいえ。先週確認したときは問題ありませんでした」
隊員が固定具を撮影する。
そのとき、建物の外から水音が聞こえた。
湊は窓の向こうを見た。
河川の近くに、人影が立っている。
「外に誰かいます」
隊長たちも窓へ向かった。
水辺に立つ人影の身体は、表面が水のように淡く光っている。
以前、河川敷で目撃された個体に似ていた。
「対象の可能性がある。外へ出るぞ」
*
湊たちは水路へ向かった。
個体は流れる水を見つめていた。
「こんにちは」
湊が声をかける。
個体はゆっくりと振り返った。
「また、探しているんですか?」
「探す」
「何を?」
「始まり」
以前と同じ言葉だった。
湊は川の流れを見た。
「この川の始まりを探しているんですか?」
「流れてくる場所」
「上流ですね」
個体は水面に手を伸ばした。
指先が水に触れると、身体の表面がわずかに揺らいだ。
「ここから、どこへ行く」
「川は下流へ流れて、やがて海につながります」
「海」
「大きな水の集まる場所です」
個体は水面を見つめた。
「水は、戻るのか」
「蒸発して雲になったり、雨になったりして、また地上に戻ってきます」
「同じ水か」
「一つ一つの水が同じ形で戻ってくるわけではないですが、循環しています」
個体は湊を見た。
「形が変わっても、続く」
「そうですね」
個体は再び川へ目を向けた。
そのとき、観測所の装置から警報音が鳴った。
隊員が振り返る。
「観測値が急上昇しています!」
湊は装置のある建物を見た。
水位計の表示が大きく変化している。
「川の水位が上がったんですか?」
「実際の水位とは一致していません。測定値だけが変わっています!」
隊長が管理者に確認する。
「ほかの観測機器は?」
「確認します!」
管理者が別の測定器へ向かった。
河川の水面には、目立った変化はない。
個体は警報音を聞きながら、装置の方向を見ていた。
「あなたが何かしたんですか?」
湊が尋ねる。
「触れていない」
「そうですか」
「水が、変わる」
個体は川の流れを見た。
その直後、身体の輪郭が少しずつ崩れ始めた。
「待ってください!」
湊が声をかける。
個体は水面に手を入れ、そのまま河川の中へ沈んでいった。
湊たちは周囲を確認したが、再び姿を見つけることはできなかった。
*
調査後、観測所の機器は専門業者によって点検されることになった。
複数の測定器のうち、一台だけに異常な数値が残されていた。
「水位そのものが変わったわけではないんですね」
湊が隊員に尋ねた。
「ああ。現場の水位と測定値が一致していなかった」
「個体が触れたわけでもありませんでした」
「ただ、個体が現れた時間と重なっている。関連の可能性は調べる必要がある」
隊長は報告書に記録を追加した。
今回の現象についても、個体が原因だとは断定しなかった。
*
財閥の研究部門では、水辺の個体に関する映像が分析されていた。
「身体の表面に変化が見られます」
「水中に入った後は?」
「映像では追跡できていません。水中での移動能力や活動可能な範囲も不明です」
「観測装置の異常との関係は?」
「現段階では分かりません。機器の故障も含めて調査が必要です」
研究責任者は映像を止めた。
「この個体の情報は、既存の管理記録と照合できるか?」
「申請中ですが、まだ回答がありません」
「引き続き確認しろ」
研究員は端末を操作した。
別の画面には、特殊生命体の組織を利用した研究の進捗が表示されていた。
採取された試料によって、細胞の反応は異なる。
同じ処理を施しても、同じ変化が起きるわけではない。
「こちらの研究は、まだ再現性が十分ではありません」
「試料の違いを整理しろ。無理に一つの結果へまとめる必要はない」
「分かりました」
*
灯里は、十年前の研究計画に関する資料を読み進めていた。
今回の観測所の情報を調べる中で、父親の資料に水に関する記録があったことを思い出したのだ。
しかし、その記録には個体の行動を詳しく説明する内容はなかった。
彼女は別の資料を開いた。
十年前の研究施設では、複数の個体が異なる環境で観察されていた。
施設ごとに記録方法も異なっている。
ある施設では身体の変化。
別の施設では周囲の物質への反応。
さらに別の施設では、個体同士の接触について記録されていた。
灯里は資料の最後にある研究計画の承認欄を見た。
父親の名前の横には、いくつかの追加資料番号が記載されている。
彼女はその番号を検索した。
結果は、すべて閲覧制限だった。
しかし、資料が存在することは確認できた。
「まだ残っているんだ……」
灯里は記録を保存した。
父親が何を知っていたのか。
何を守ろうとしていたのか。
その答えは、まだ資料の奥に隠されている。
*
夜。
番号00の生命維持装置では、研究員が測定結果を確認していた。
「波形が変わっています」
「前回と同じ変化か?」
「似ていますが、今回は反応の間隔がさらに短くなっています」
「身体の動きは?」
「まだ明確な動作は確認できません」
研究員は記録を保存した。
責任者は容器の中を見た。
身体は静かに横たわっている。
しかし、画面に表示された数値は、以前の状態から少しずつ離れていた。
「十年前の記録だけでは説明できないな」
責任者が呟いた。
「はい。現在の反応については、引き続き観察する必要があります」
「続けろ」
研究員は頷いた。
透明な容器の中では、指先がわずかに動いたようにも見えた。
しかし、映像には明確な動作として記録されなかった。
研究員は画面を拡大し、もう一度確認した。
その瞬間、測定値が短く揺れた。
そして、再び静かになった。




