第三十九章 記録の外側
特殊緊急防衛隊の施設に、一通の調査報告が届いた。
前回の地下駐車場で発生した設備異常について、管理会社から追加情報が提供されたのだ。
湊は隊長の隣で、報告書の画面を確認していた。
「警報装置の記録に、異常な通信が残っていた?」
「ああ。ただし、外部からの通信なのか、内部機器の誤作動なのかは分かっていない」
「車両側にも同じ記録があったんですか?」
「三台のうち二台だ。残り一台は記録が残っていない」
隊長は別の資料を表示した。
「問題は、設備の異常が発生した時間帯に、駐車場の監視映像が一部欠落していることだ」
「人影が映っていた時間と同じですか?」
「完全には一致しない。映像が欠落した時間は、人影が確認される少し前からだ」
湊は画面を見つめた。
「その個体が映像を消した可能性は?」
「可能性の一つだ。ただし、現時点では根拠がない」
隊長は資料を閉じた。
「今回の調査は設備管理会社と警察が引き継ぐ。こちらは別の現場へ向かう」
*
新しい現場は、郊外にある小規模な研究施設だった。
施設の管理者から、敷地内で人影が目撃されたとの連絡があった。
目撃されたのは、夜間の警備員だった。
建物の外壁付近に人間のような影が立っていた。
警備員が近づくと、影は壁の向こうへ消えたという。
「壁の中に入ったということですか?」
湊が尋ねる。
「警備員はそう表現している。ただ、実際に壁を通り抜けたのか、視界から消えただけなのかは分からない」
隊長は施設の配置図を確認した。
「研究施設といっても、現在は通常の検査業務しか行っていない。危険物の保管状況も確認する」
現場に到着すると、施設の責任者が出迎えた。
「こちらが目撃された場所です」
案内されたのは、建物の裏側にある通路だった。
壁には目立った傷も、破損もない。
しかし、地面には細かい黒い粒が少しだけ残っていた。
「採取してください」
隊長が指示する。
湊は壁を見上げた。
建物の窓はすべて閉じられている。
通路の先には、設備搬入口があった。
「ここから出入りした可能性はありますか?」
「管理記録上、この時間帯に搬入はありません」
責任者が答えた。
そのとき、通路の奥で影が動いた。
「そこに誰かいます!」
隊員が声を上げる。
壁際に、輪郭の不明瞭な人影が立っていた。
人影は隊員たちを見た後、壁に片手を触れた。
壁の表面が、波紋のようにわずかに変化する。
「動くな!」
隊員の声に、人影は反応しなかった。
壁面の変化は少しずつ広がり、やがて元に戻っていく。
その間、人影の身体も不安定に揺れていた。
湊が近づこうとしたとき、隊長が腕を伸ばして制止した。
「距離を保て」
人影は壁から手を離した。
そして、通路の奥へ移動する。
隊員たちが追おうとしたが、次の角を曲がったときには姿が消えていた。
通路の先には、閉じられた搬入口しかなかった。
「建物内部への侵入経路を確認する。全員、慎重に調べろ」
隊長の指示で、施設内の調査が始まった。
しかし、窓や扉に破損はなく、侵入した形跡も見つからなかった。
*
研究施設から提出された黒い粒子は、財閥の分析部門へ送られた。
「以前の採取物と比較してください」
研究員が資料を渡す。
「類似した特徴はあります。ただし、同一の物質とは断定できません」
「特殊生命体由来の組織である可能性は?」
「否定できませんが、確証もありません」
別の研究員が、壁面の映像を確認していた。
「今回の変化は、以前の映像よりも広範囲です」
「個体の能力が強くなっているのか?」
「それも判断できません。接触した壁面の材質や、撮影条件も違います」
責任者は二つの映像を並べた。
「個体を確認できれば、直接観察できるのだが」
「現在の管理対象にも、類似した反応を示す個体がいる可能性があります」
「可能性だけでは比較できない。既存の記録を確認しろ」
研究員は端末を操作した。
しかし、表示されたのは閲覧制限のある資料だった。
「こちらの記録は、別部門の承認が必要です」
「申請しておけ」
*
灯里は、父親の研究記録を読み返していた。
最近の目撃情報には、壁面や設備に触れる個体が何度も登場する。
しかし、すべて同じ個体なのかは分からない。
それぞれが同じ能力を持っているのかも分からない。
灯里は十年前の資料を開いた。
そこには、複数の個体についての観察記録が残されていた。
ただし、個体ごとの記録は途中で途切れている。
彼女は研究施設の一覧と、現在の財閥の施設情報を照合した。
いくつかの施設は、名称が変更されていた。
別の施設は閉鎖されている。
そして、現在も稼働している施設の中に、十年前の研究記録と関係するものがあった。
「ここか……」
灯里はその施設の情報を開いた。
研究内容の欄には、現在の業務とは異なる記載が残っていた。
しかし、詳細を開こうとすると閲覧制限が表示される。
灯里はアクセス申請を送った。
今度は、以前とは異なる回答が返ってきた。
資料の存在は確認された。
ただし、閲覧には研究責任者の承認が必要だという。
灯里は申請画面を閉じなかった。
父親が関わった研究の記録が、まだどこかに残っている。
その事実だけは、少しずつ確かになっていた。
*
防衛隊の訓練施設では、新型補助装備の試験が行われていた。
湊は装備を装着し、指定された動作を繰り返す。
歩行。
方向転換。
急停止。
最後に、一定の重量を持ち上げる動作を行った。
「右腕の反応が少し遅れています」
測定担当者が言った。
「やっぱりそうですか」
「装備の出力を上げると、動作の補助が強くなる一方で、停止時の負荷も大きくなります」
「慣れれば改善しますか?」
「ある程度は。ただし、身体への負担がなくなるわけではありません」
湊は腕を動かした。
「使い方を間違えると危険ですね」
「そのための訓練だ」
隊長が答えた。
「現場で装備に頼りすぎるな。装備が使えなくなった場合も考えて行動しろ」
「分かりました」
湊は装備を外した。
性能が上がることは、単純に悪いことではない。
実際、これまでの現場では装備によって負傷を防げたこともあった。
ただ、その性能を支える仕組みについて、使用者が十分に知らされているとは言えなかった。
*
夜。
湊は公園の近くを歩いていた。
街灯の下に、見覚えのある小さな人影が立っている。
「こんばんは」
森で出会った小型の人型個体だった。
「春日湊」
「今日は何を見ているんですか?」
「人間」
個体は道路の向こうを見た。
そこでは、仕事帰りらしい人が自転車を押して歩いていた。
少し先で、別の人が道を譲る。
自転車の人は軽く頭を下げ、そのまま通り過ぎていった。
「今のは何ですか?」
「道を譲ってもらったんですよ」
「なぜ?」
「相手が通りやすいようにしたんだと思います」
「何かを得たのか」
「直接何かをもらったわけではないですね」
個体は道路を見ていた。
「必要ではないことをする」
「必要かどうかは、人によって考え方が違いますからね」
「お前もするのか」
「僕も、そういうことはあります」
個体は少し考えた。
「それは、守ることか」
「守ることもあります。でも、それだけじゃないですよ」
個体は返事をしなかった。
しばらくして、道路の反対側へ歩き出した。
湊はその背中を見送る。
個体が人間の行動を理解したのかは分からない。
それでも、以前より質問の内容が少しずつ変わっているように感じた。
*
地下研究施設。
番号00の生命維持装置では、神経活動の変化が続いていた。
研究員は測定結果を確認し、責任者に報告する。
「反応の頻度がさらに増えています」
「身体の状態は?」
「指先に続く動きは、まだ確認できていません。ただ、神経活動の波形は以前より明確になっています」
「意識の回復と判断できるか?」
「現段階ではできません」
責任者は装置の前に立った。
透明な容器の中では、身体が静かに横たわっている。
「過去の記録と比較し続けろ。変化を見落とすな」
「はい」
研究員が記録を保存する。
画面の片隅には、十年前の事故に関する資料が表示されていた。
しかし、その一部には閲覧制限がかかっている。
責任者はその画面を見た後、何も言わずに端末を閉じた。
装置の中の身体は、まだ目を開けない。
それでも、長く続いていた沈黙は、確実に変わり始めていた。




