第三十八章 選ばれた場所
特殊緊急防衛隊に、新たな出動要請が届いた。
今度の現場は、市街地にある地下駐車場だった。
施設の管理会社によれば、夜間に駐車場の照明が一斉に消え、その後、複数の車両で警報装置が作動したという。
車両そのものに大きな損傷はなかった。
しかし、監視カメラの映像には、説明できない現象が記録されていた。
「まず映像を確認しよう」
隊長が画面を操作する。
映像には、地下駐車場の通路が映っていた。
午前一時四十七分。
奥の照明が一つずつ消えていく。
その直後、駐車スペースの間に人影が現れた。
人影は車両の横を通り、壁に手を触れた。
すると、壁面の一部に黒い線のようなものが広がった。
数秒後、それは元の状態に戻る。
「以前の壁面変化と似ていますね」
隊員が言った。
「似ているというだけだ。同一の個体とは限らない」
隊長は映像を止めた。
「車両の警報装置が作動した原因も不明だ。現場では設備の状態を確認する。車両には勝手に触れるな」
*
地下駐車場は、すでに管理会社によって一部閉鎖されていた。
湊たちは施設の担当者から説明を受ける。
「照明が消えたのは、この区画です」
担当者が通路の奥を指した。
「車両の警報は?」
「同じ時間帯に三台です。いずれも車体に損傷はありません。ただ、警報装置の履歴に異常が残っています」
「防犯設備の故障という可能性は?」
「業者に確認してもらっていますが、まだ原因は分かっていません」
湊は周囲を見回した。
壁面には目立った損傷がない。
ただし、監視映像に映っていた場所には、黒い細い跡が残っていた。
「これが映像の場所でしょうか」
「そうです」
湊は手を伸ばさず、少し離れた位置から観察した。
黒い跡は壁の表面に薄く残っている。
それが何なのかは分からない。
「採取します。周辺も確認してください」
隊長の指示で隊員たちが調査を始めた。
そのとき、通路の反対側で小さな音がした。
金属が床に触れる音だった。
全員がそちらを向く。
駐車スペースの奥に、人影が立っていた。
身体の輪郭ははっきりしない。
人間に近い形をしているが、全身には暗い模様が浮かんでいる。
「対象を確認」
隊員が警戒する。
人影は壁に近づき、片手を触れさせた。
壁面の黒い線が、わずかに広がる。
「止まれ!」
隊長が声を上げた。
人影は動きを止めた。
しかし、こちらを見ているのかどうかも分からない。
湊は一歩だけ前に出た。
「ここは人間が車を置く場所です。何か探しているんですか?」
返事はなかった。
人影は壁から手を離す。
その直後、駐車場の照明が一斉に点灯した。
隊員たちは反射的に身構えた。
だが、人影は攻撃してこなかった。
壁面の黒い線が消え、元の状態に戻っていく。
「追跡しますか?」
「周辺を確認しろ。無理に接近するな」
隊員たちが通路を確認する。
湊が再び人影の方を見ると、すでに姿はなかった。
駐車場の出入口にも、移動した形跡は確認できなかった。
*
調査後、採取した物質の分析が研究部門へ送られた。
監視映像と照明設備の記録も照合される。
「壁面の変化は確認できますが、物質の成分はまだ分かりません」
「照明が復旧した原因は?」
「電源系統には異常が見つかっていません。ただ、記録上は一時的に電圧が低下しています」
「人影との関係は?」
「同じ時間帯に発生しています。しかし、直接の因果関係は確認できません」
研究員は別の映像を開いた。
そこには、以前の施設で確認された壁面変化が記録されている。
「こちらと今回の映像を比較します」
「同じ能力なのか?」
「まだ判断できません。似た変化が起きていることは確かですが、個体の同一性も、能力の仕組みも不明です」
「引き続き調べろ」
*
灯里は、地下駐車場の調査記録を見ていた。
壁面に現れた黒い線。
以前の施設で確認された変化。
そして、父親の資料に残されていた古い記録。
彼女は過去の資料を開き、該当するページを探した。
そこには、壁面や設備に触れた個体についての観察記録があった。
ただし、能力の詳細は記されていない。
父親は、現象が発生したという結果と、個体がそれを意図して行ったという判断を区別していた。
灯里は資料を読み終え、別の記録を開いた。
十年前の研究施設一覧。
今回の地下駐車場とは関係のない施設名が並んでいる。
その中に、以前調べた旧研究施設の名称があった。
彼女は施設名を一つずつ確認した。
資料の一部には、研究内容を示す欄が存在しない。
削除されたのか、最初から記録されていなかったのかも分からない。
灯里は画面を見つめた。
父親が残した資料だけでは、十年前の研究全体を再構成できない。
現在の研究部門に問い合わせても、管理対象の情報は公開されない。
彼女は、これまで閲覧できなかった資料の一覧を改めて整理した。
必要なのは、断片的な記録を増やすことだけではない。
記録が存在する場所そのものを確認する必要があった。
*
その頃、財閥の研究施設では、別の会議が開かれていた。
議題は、特殊生命体の能力を利用した装備の開発と、人体への適用研究だった。
「現在の装備では、能力の再現に限界があります」
研究員が説明する。
「特殊生命体の組織を利用した場合、出力を高められる可能性はありますが、反応には個体差があります」
「人間の身体に適応させる方法は?」
「細胞レベルでは変化を確認しています。ただし、身体全体にどのような影響が出るかは分かっていません」
「防衛隊員への適用はまだ早いということか」
「現段階では、安全性を保証できません」
会議室に沈黙が流れた。
別の責任者が資料をめくる。
「では、既存装備の改良を続ける。人体への適用は追加データを待つ」
「分かりました」
会議はそこで次の議題へ移った。
しかし、資料の一部には、一般の研究員が閲覧できない項目が残されていた。
そこには、研究対象の管理状況に関する情報が記録されていた。
*
夜。
湊は帰宅途中、住宅街の歩道を歩いていた。
少し先の建物の壁に、人影が見えた。
壁面に沿って、静かに移動している。
湊は足を止めた。
「こんばんは」
人影は動きを止めた。
以前、住宅地で出会った、壁を移動しながら人間の生活を観察していた個体だった。
「また会いましたね」
「ここにいる」
「そうですね」
個体は壁の向こうにある住宅を見ていた。
「人間は、壁の内側にいる」
「家の中ですか?」
「そう」
「寝たり、食べたり、休んだりしています」
「外には出ないのか」
「出ますよ。仕事や買い物に行ったり、友達に会ったり」
個体は少し考えた。
「戻る場所がある」
「そういう人も多いですね」
「全員か」
「全員ではありません」
個体は壁に手を触れた。
表面がわずかに変化する。
湊はその動きを見ていたが、今回は何も言わなかった。
個体はすぐに手を離した。
「ここは、人間の場所」
「そうですね」
「お前も、ここに戻るのか」
「僕の家は別の場所です。でも、帰る場所はあります」
個体は湊を見た。
「帰る」
その言葉を、確かめるように繰り返した。
やがて壁から離れ、建物の向こう側へ移動していった。
湊はその姿を見送った。
彼らが人間の生活をどこまで理解しているのかは分からない。
ただ、少なくとも、目の前の個体は人間の住む場所と、自分がいる場所を区別し始めているように見えた。
*
地下研究施設。
番号00の生命維持装置の前で、研究員が測定結果を確認していた。
「神経活動の変化が続いています」
「前回と比較してどうだ?」
「反応の頻度が増えています。ただし、意識の回復を示すものかどうかは判断できません」
「身体の状態は?」
「大きな変化はありません。先日の指先の動き以降、明確な動作は確認されていません」
責任者は容器の中を見た。
静かに横たわる身体。
閉じられた目。
変化を続ける測定値。
「記録を続けろ。変化があれば、すぐに報告する」
「はい」
研究員は端末に向き直った。
そのとき、測定画面の波形が一度だけ大きく揺れた。
研究員はすぐに記録を保存する。
数値は再び落ち着いた。
身体は動かなかった。
しかし、生命維持装置の中では、十年間続いていた沈黙が少しずつ崩れ始めていた。




