第三十六章 残された車輪の跡
山間部の道路で、特殊生命体らしき存在が目撃された。
通報したのは、早朝に配送業務を行っていた運転手だった。
道路脇の斜面に人影が立っていたという。
運転手が車を停めて確認しようとすると、その影は斜面の奥へ消えた。
その直後、道路脇に停められていた見慣れない車両が走り去ったらしい。
「車両について、何か分かっていますか?」
出動前の会議で、湊が尋ねた。
「色と形状は確認できている。ただし、ナンバーは読み取れなかったそうだ」
「一般車両ですか?」
「外見上はそう見える。ただ、運転手は窓越しに複数の人影を確認したと言っている」
隊長は地図を表示した。
「目撃された個体と車両に関係があるかは不明だ。まず現場を調べる」
*
現場は山間部の道路だった。
周囲には森林が広がり、近くに人家はほとんどない。
湊たちは道路脇の斜面を確認した。
「この辺りで見たそうです」
隊員が目撃地点を示した。
斜面には草木が生い茂っている。
人間が通ったような跡はあったが、足跡の形ははっきりしなかった。
「こちらに何かあります」
別の隊員が、道路脇の地面を指した。
そこには、車輪の跡が残っていた。
通常の乗用車よりも幅が広い。
「先ほどの車両でしょうか」
「可能性はある。周囲を確認しろ」
湊は車輪の跡を追った。
道路から少し外れた場所で、その跡は途切れていた。
代わりに、地面の一部が不自然に押し固められている。
「ここで車両が方向を変えたようですね」
「そう見えるな」
湊は周囲を見回した。
そのとき、斜面の向こうで木の枝が揺れた。
「誰かいますか?」
返事はない。
隊員たちが警戒する。
しばらくして、木々の間に大きな影が見えた。
背中には不規則な突起があり、身体の表面は硬い外殻に覆われているようだった。
以前から山間部で目撃されている大型の個体に似ている。
「対象を確認。大型個体の可能性があります」
隊長が無線で報告する。
個体は防衛隊の方を向いた。
しかし、近づいてくることはなかった。
その場で数秒ほどこちらを見た後、ゆっくりと斜面の奥へ移動していく。
「追跡しますか?」
「距離を保て。周囲の安全を優先する」
湊たちは斜面を進みすぎないようにしながら、個体の移動方向を確認した。
その先には、古い作業道があった。
道の脇には、何かを引きずったような跡が残っている。
ただし、それが大型個体によるものなのか、車両によるものなのかは分からなかった。
*
作業道の先には、小さな空き地があった。
そこには、古い資材がいくつか残されている。
湊は地面にしゃがみ込んだ。
土の上に、細い線状の跡が何本もついている。
「何かを引きずった跡でしょうか」
「そうかもしれない。写真を撮っておけ」
隊員が記録を取る。
そのとき、別の隊員が空き地の端を指した。
「こちらに布のようなものがあります」
地面には、黒っぽい繊維の一部が落ちていた。
湊が触れずに確認する。
「特殊生命体の身体組織でしょうか」
「まだ判断できない。採取して分析に回す」
隊長が指示した。
周辺には、ほかにもいくつかの痕跡が残されていた。
金属製の留め具。
切れた細い紐。
地面に残る複数の車輪の跡。
しかし、どれも何に使われたものなのかは分からなかった。
「ここで何かが行われた可能性はありますね」
湊が言った。
「そうだな。ただし、それが特殊生命体に関係するとは限らない」
隊長は空き地全体を撮影するよう指示した。
その後、周辺の安全確認を終えた防衛隊は現場を離れた。
*
帰還後、調査結果は研究部門にも送られた。
採取された繊維状の物質について、分析が始まる。
「特殊生命体由来の組織と一致する特徴があるか?」
「現在調べています。ただ、量が少なく、劣化も進んでいます」
「車輪の跡については?」
「一般的な車両のタイヤ痕に近いものですが、車種までは特定できていません」
「目撃された車両は?」
「周辺の監視カメラを確認していますが、該当する映像はまだ見つかっていません」
研究員は資料を整理した。
上司は現場写真を一枚ずつ確認していく。
「この留め具は?」
「一般的な工業製品に見えます。特殊な加工は確認されていません」
「管理会社や土地所有者にも確認しろ。誰が出入りできる場所なのか調べる必要がある」
「分かりました」
研究員は新しい調査項目を追加した。
*
一方、財閥の別の施設では、ある報告書が管理責任者のもとへ届けられていた。
そこには、特殊生命体に関する現場情報が記載されている。
「山間部の目撃情報か」
「はい。現場には複数の痕跡が残されていました」
「防衛隊はどこまで調べた?」
「現場の確認と物証の採取までです。車両については、まだ特定できていません」
責任者は資料を閉じた。
「現場の記録をこちらでも確認する」
「防衛隊の調査結果を共有してもらいますか?」
「必要な範囲だけでいい」
担当者は頷いた。
「それから、別件ですが、現在管理している対象の状態について報告があります」
「何か変化があったのか?」
「一部の測定値に変動が見られます。詳しい内容は担当部門が確認中です」
「分かった。報告を待つ」
責任者は別の書類に目を移した。
そこには、施設外部への情報提供を制限する指示が記されていた。
*
灯里は、今回の現場写真を確認していた。
車輪の跡。
繊維状の物質。
金属製の留め具。
そして、山間部で目撃された大型個体。
それぞれの情報だけでは、何も断定できない。
しかし、彼女は一つの点に引っかかっていた。
特殊生命体の目撃情報が増えている一方で、財閥の研究資料には、現在も公開されていない対象管理の記録が存在する。
その資料の中には、個体の所在や状態を記録する項目があった。
灯里は研究管理部門に問い合わせた。
「現在、特殊生命体をどのように管理しているのか、公開可能な範囲で確認したいのですが」
担当者は画面を確認した。
「管理対象の詳細については、研究上の機密情報に該当します」
「すべての対象が研究施設内にいるのですか?」
「回答できません」
「現在、外部で確認されている個体については?」
「個別の状況については、こちらでは回答できません」
灯里は相手を見た。
「それでは、現在の研究がどのような対象を扱っているのかも分からないということですか」
「閲覧権限のある資料をご確認ください」
担当者はそれ以上説明しなかった。
灯里は端末を閉じた。
父親の資料を調べているだけでは、現在の研究の全体像を知ることはできない。
何かが隠されている。
その確信だけが、少しずつ強くなっていた。
*
夜。
湊は防衛隊の施設で、今回の調査記録を整理していた。
山間部の大型個体。
空き地に残された痕跡。
正体の分からない車両。
どれも結びついていない。
「春日、まだ残っていたのか」
隊員が声をかけた。
「もう少しで終わります」
「今日の現場、どう思った?」
「何かがあったのは確かだと思います。でも、何があったのかは分かりません」
「俺も同じだ。あの車両が気になるな」
「はい」
湊は画面に映る車輪の跡を見た。
特殊生命体を探すための出動だった。
だが、現場で見つかったのは、特殊生命体とは限らない人間の痕跡だった。
そして、その痕跡が何を意味するのかは、まだ分からない。
*
地下研究施設。
生命維持装置の数値が、ゆっくりと変化していた。
研究員が新しい測定結果を確認する。
「反応は安定しています」
「前回の身体の動きについては?」
「映像を再確認しました。指先の動きは確かに確認できます。ただし、意識が戻ったと判断できる状態ではありません」
「そうか」
責任者は容器の中を見た。
横たわる身体の手は、静かに閉じられている。
「十年前の記録と比較した結果は?」
「一致しない部分が多くあります。現在の状態が、事故前と同じものなのかも判断できません」
「引き続き記録を続けろ」
「はい」
研究員が端末を操作する。
そのとき、別の画面に通知が表示された。
管理対象に関する報告だった。
責任者は通知を開いた。
そこには、現在の管理状況についての短い記述があった。
彼は内容を確認した後、画面を閉じた。
透明な容器の中では、眠り続けていた身体の生命活動が、静かに変化を続けていた。




