第三十二章 残された空白
特殊緊急防衛隊に、新しい任務が与えられた。
今回の場所は、市街地から離れた山間部にある旧工業施設だった。
十年以上前に閉鎖された施設で、現在は管理会社が定期的に敷地を確認している。
その管理会社から、建物内部の設備が何度か作動しているという報告が届いていた。
「電源は切られているはずなのに、夜間に照明が点灯したり、機械の音が聞こえたりするそうです」
隊員が資料を説明した。
「侵入者の可能性は?」
「管理会社が確認しましたが、人間の侵入を示す痕跡は見つかっていません」
「特殊生命体の目撃情報は?」
「直接の目撃はありません。ただ、建物の外壁に黒い線のようなものが現れたという報告があります」
湊は写真を確認した。
壁面には、細い黒色の線が何本も走っている。
以前、旧研究施設で確認されたものと似ているようにも見えた。
「同じ現象でしょうか」
「まだ分からない。現場で確認する」
隊長は資料を閉じた。
*
旧工業施設は、山に囲まれた場所にあった。
建物の周囲には雑草が生い茂り、入口には立入禁止の表示が残されている。
管理会社の担当者が防衛隊を出迎えた。
「設備の電源は、数年前から完全に切っています。建物の中に電気が流れる理由はありません」
「最後に確認したのはいつですか?」
「三日前です。そのときは何もありませんでした」
隊長は隊員を二つの班に分けた。
湊は二人の隊員とともに、建物の内部を調査することになった。
扉を開けると、古い機械と配管が並んでいた。
床には埃が積もっている。
しかし、その一部に不自然な跡があった。
「誰かが歩いたような跡があります」
隊員がしゃがみ込む。
「足跡ですか?」
「形がはっきりしません。埃が部分的に消えています」
湊は周囲を確認した。
壁には、外から報告されていた黒い線があった。
線は壁面を横切り、機械の裏側へ続いている。
「この先を確認します」
三人が慎重に進んだ。
そのとき、建物の奥から低い機械音が聞こえた。
電源が切られているはずの装置が、ゆっくり動いていた。
「停止している設備ではなかったのか?」
「管理会社の説明では、そのはずです」
湊は装置に近づかず、周囲を確認した。
機械の表示板には数字が浮かんでいた。
しかし、その数字は一定せず、短い間隔で変化している。
「触らない方がいいですね」
「ああ。まず映像を記録する」
隊員がカメラを向けた。
その直後、装置の前に影が現れた。
人間のような輪郭だった。
影は機械に近づき、表面に手を伸ばした。
すると、表示板の数字が一斉に変化した。
「対象を確認!」
隊員が声を上げる。
影はゆっくりと振り返った。
顔ははっきり見えない。
身体の輪郭も、周囲の暗闇に溶け込むように不明瞭だった。
「動くな!」
隊員が警告する。
影は一瞬だけ動きを止めた。
しかし、攻撃する様子はない。
その手が機械から離れると、表示板の数字は再び不規則に変化し始めた。
「何をしているんだ……?」
湊が呟いた。
影は答えなかった。
次の瞬間、建物の照明が一斉に点灯した。
隊員たちは反射的に目を閉じる。
再び目を開けたとき、影は消えていた。
「追跡しますか?」
「待て。まず周囲の安全を確認する」
隊長の指示が無線から届いた。
湊たちは装置から距離を取り、建物内部の異常がないか確認した。
設備は停止していた。
しかし、表示板には最後まで数字が残っていた。
*
調査終了後、防衛隊は現場の映像を分析した。
「影が触れた直後に、装置の数値が変化しています」
「装置そのものを操作したのか?」
「断定できません。接触と数値変化には時間的な関連がありますが、内部で何が起きたのかは分かりません」
「外部からの電力供給は?」
「確認中です。現時点では、通常の電源経路から電気が供給された形跡はありません」
隊長は映像を止めた。
「原因を特定するまでは、施設を使用させない。管理会社にも立入禁止を徹底させろ」
「了解しました」
湊は画面に映る影を見ていた。
以前、壁に触れていた人影と似ている。
しかし、同じ個体なのかは分からない。
それに、今回の影が装置に触れた理由も不明だった。
ただ、ひとつ気になったことがある。
影は装置に触れた後、こちらを見ていた。
あのとき、何を考えていたのだろうか。
*
財閥の研究施設では、旧工業施設の映像が共有されていた。
「この個体の行動について、過去の記録と照合しました」
研究員が報告する。
「一致した特徴はあるか?」
「身体の輪郭と壁面への接触行動に共通点があります。ただし、映像の解像度が低く、同一個体かどうかは判断できません」
「設備への影響は?」
「接触後に計測値が変化しています。しかし、能力によるものか、装置側の異常が先に発生していたのかは分かりません」
上司は映像を繰り返し再生した。
「過去の研究記録には、このような行動はあったか?」
「一部に似た記述があります。ただし、該当資料の閲覧権限がありません」
「誰が管理している?」
「研究管理部門です」
上司は画面を閉じた。
「閲覧申請を出せ。必要な資料を確認する」
「分かりました」
研究員は端末を操作した。
申請画面には、十年前の研究記録が表示された。
その中には、現在の研究員たちが知らない情報が残されている可能性があった。
*
灯里もまた、旧工業施設の報告を受け取っていた。
彼女は施設名を見た瞬間、手を止めた。
父親の古い研究資料に、同じ施設名が記載されていたからだ。
灯里は保存していた資料を開いた。
十年前の施設一覧。
その中には、現在の工業施設だけでなく、研究施設や医療施設の名前も並んでいる。
今回の施設には、研究内容を示す欄がなかった。
削除されたのか、最初から記録されていないのかも分からない。
「また、この施設……」
灯里は父親の手書き資料を確認した。
そこには、短い記述が残されていた。
『個体が周囲に触れることで、何らかの変化が起きる可能性がある』
その下には、別の文章が続いていた。
『変化が起きたことと、変化を起こそうとしたことは、同じではない』
灯里は文章を読み返した。
父親は、観測された結果だけで個体の意図を決めないようにしていた。
今回の影も、機械を動かそうとしていたのか。
それとも、何かを確かめようとしていたのか。
あるいは、ただ触れただけなのか。
映像だけでは判断できない。
灯里は研究管理部門に資料閲覧を申請した。
しかし、画面には以前と同じ表示が出た。
<PRIVATE_PERSON>限された資料です。
理由の説明はなかった。
灯里は端末を閉じた。
父親が残した記録には、まだ多くの空白がある。
そして、その空白を誰かが意図的に残している可能性もあった。
*
夜。
特殊緊急防衛隊の訓練施設では、新型補助装備の試験が行われていた。
湊は腕部の装置を装着し、指定された重量物を持ち上げる。
以前よりも少ない力で持ち上げられた。
「負担は軽減されていますね」
研究員が記録する。
「ただ、動きを止めるときに少し遅れます」
「急停止時の反応ですね。まだ調整が必要です」
「実際の現場で使うなら、そこが気になります」
「分かっています。データを集めて改善します」
湊は装備を外した。
「これを使う人には、どこまで分かっているんですか?」
「装備の基本的な性能と注意事項は説明しています」
「身体への影響についても?」
研究員は少し間を置いた。
「現在確認されている範囲は説明しています」
「まだ分からないこともあるんですよね」
「すべての影響を確認できているわけではありません」
湊は装備を見た。
「だったら、分からないこともちゃんと伝えてください」
研究員は返事をしなかった。
湊は訓練場を出た。
*
地下研究施設。
生命維持装置の前で、研究員が記録を確認していた。
「反応間隔が、さらに短くなっています」
「数値の安定性は?」
「一部に変動があります。ただし、生命活動に相当する反応は維持されています」
「身体の変化は?」
「確認できません」
責任者は容器の中を見た。
横たわる身体は、十年前とほとんど同じ姿を保っている。
しかし、装置の数値は明らかに変化していた。
「引き続き観察しろ」
「はい」
研究員が端末に記録を入力する。
そのとき、モニターの波形が一瞬だけ大きく揺れた。
「今の反応は?」
「確認します」
研究員は計測機器を調べた。
数秒後、波形は再び安定した。
装置の中では、何も起きていないように見えた。
ただ、閉じられたままの瞼の奥で、何かが少しずつ変化していた。




