第三十一章 消えた観測対象
防衛隊本部に、複数の目撃情報が届いていた。
場所は市街地から離れた山間部。
ここ数日、夜間に発光するものが見えたという通報が続いている。目撃者によって説明は異なり、青白い光だったという者もいれば、水面の反射のようだったという者もいた。
「同じ現象だと判断できる材料はありません」
資料を確認していた隊員が言った。
「目撃地点は?」
「川沿いに集中しています。上流から下流にかけて、いくつか報告があります」
湊は地図を覗き込んだ。
「川沿いなら、以前の水みたいに光る個体がいた場所にも近いですね」
「第五章で確認した個体か?」
隊長が尋ねる。
「可能性はあります。でも、同じ個体かどうかは分かりません」
「その通りだ。現場で確認するまでは決めつけるな」
隊長は出動準備を指示した。
*
現場に到着すると、川沿いの道路には警察車両が停まっていた。
目撃者はすでに帰宅しており、周辺に一般人はいない。
湊たちは川の両側を分かれて調べることになった。
水面は穏やかだった。
街灯の光が届かない場所では、川の流れだけがかすかに見える。
「こちら、異常なし」
無線から報告が入る。
湊も川岸を進んだ。
そのとき、水面の一部が淡く光った。
最初は街灯の反射かと思った。
だが、光は水の流れに逆らうように移動していた。
「こちら春日。川の中に発光するものを確認しました」
『位置を報告しろ』
「東側の川岸から約十メートル先です」
湊は距離を保ちながら観察した。
水面から、人の形をしたものがゆっくりと現れた。
身体の輪郭は以前と同じように不明瞭で、表面には水のような光が流れている。
それは湊の方を向いた。
「また会いましたね」
湊が声をかける。
「……お前」
「覚えていましたか?」
「覚えている」
個体は川の流れを見た。
「ここは、前と同じ場所か?」
「少し違います。前に会った場所から、川を下ったところです」
「下った」
「水が流れていく方向ですね」
個体は水面に手を伸ばした。
「流れている」
「はい」
「止まらない」
「雨が降ったり、川の形が変わったりすれば流れ方も変わります。でも、水は基本的に高いところから低いところへ流れていきます」
個体はしばらく水を見つめていた。
「始まりは、まだ見つからない」
「探しているんでしたね」
「そうだ」
「この川の上流を調べているんですか?」
「上流だけではない」
「ほかにも?」
個体は答えなかった。
湊は無理に尋ねなかった。
以前から、この個体は何かを探していると話していた。しかし、それが何なのかはまだ分からない。
「ここに来るまで、何か見つかりましたか?」
「変わるものを見た」
「変わるもの?」
「水の中にあるもの。形が変わる。動く。消える」
「魚や石のことですか?」
「分からない」
個体は水面を見つめたまま、ゆっくりと腕を動かした。
川の流れに小さな渦が生まれた。
その渦は数秒で消え、再び元の流れに戻った。
「水は、同じ場所に留まらない」
「そうですね」
「人間もそうなのか?」
「人間も移動します。でも、同じ場所で暮らし続ける人もいます」
「なぜ?」
「そこに住みたいから、仕事があるから、家族がいるから。理由はいろいろです」
「同じ場所にいるのに、変わるのか」
「人間も毎日少しずつ変わりますよ」
個体は湊を見た。
「お前も?」
「たぶん。自分ではあまり分かりませんけど」
そのとき、無線が鳴った。
『春日、対象を確認したか』
「はい。水面に現れた人型の個体です。現在、こちらと会話しています。攻撃行動はありません」
『了解。距離を保って観察を続けろ』
湊は無線を切った。
個体はその機器を見ていた。
「それは何だ」
「離れた場所にいる仲間と話すためのものです」
「声が届くのか」
「電波を使っています」
「見えないものが、声を運ぶ」
「そうですね」
個体は無線機から川へ視線を戻した。
「水も、何かを運ぶ」
「ええ。土や砂、流れてきたものも運びます」
「では、ここにも何かが流れてくる」
「そういうこともあります」
個体は再び水面に手を入れた。
身体の輪郭が少しずつ水に溶け込んでいく。
「もう行くんですか?」
「探す」
「気をつけてください。川は場所によって深さも流れも違います」
「分かっている」
個体は水の中へ沈み、姿を消した。
湊はしばらく川を見つめていた。
結局、何を探しているのかは聞けなかった。
だが、以前よりも少しだけ、個体が周囲の世界を見ていることは分かった。
*
帰還後、防衛隊は現場映像を整理した。
「対象は水中への移動が可能と考えられます」
「水中での活動時間は?」
「不明です。今回の映像では、姿を消した後の追跡ができていません」
「水の流れを操作した可能性は?」
「小さな渦は確認できますが、能力によるものか、単なる水面の変化なのかは判断できません」
隊長は映像を停止させた。
「現時点では、危険性を判断できない。目撃情報が続くなら、川沿いの住民への注意喚起も検討する」
湊は報告書に個体との会話を記録した。
その中で、ひとつの言葉が気になっていた。
――始まりは、まだ見つからない。
どこから来たのか。
何を探しているのか。
その答えは、まだ見えなかった。
*
一方、財閥の研究施設では、特殊生命体の能力に関する資料が更新されていた。
最近の目撃情報を整理した研究員が、上司に報告する。
「水辺で確認された個体について、過去の記録と照合しました」
「一致したのか?」
「外見上の特徴には共通点があります。ただし、同一個体と断定できるほどの情報はありません」
「水中活動に関するデータは?」
「十分ではありません。映像から確認できるのは、水面から出現し、再び水中へ移動したことだけです」
「採取できるものはあったか?」
「ありません」
研究員は資料を閉じた。
上司はしばらく考えた後、別の画面を表示した。
そこには、特殊生命体由来の組織を利用した装備開発の進捗が記されていた。
「こちらは予定通り進めろ」
「人体への応用研究については、まだ安全性に問題があります」
「問題があることは把握している。必要なデータを集めろ」
「防衛隊員への適用については?」
「現場での装備運用とは分けて考える。今はまだ、実施の判断を下していない」
研究員は返事をせず、画面を見つめた。
研究は進んでいる。
しかし、その先に何が待っているのかを、彼自身も理解しきれてはいなかった。
*
夜。
灯里は父親の資料を整理していた。
今回の水辺での目撃情報を調べるうち、十年前の研究記録に、興味深い記述を見つけた。
特殊生命体の身体が、周囲の環境に応じて変化する可能性。
それは、単純に環境へ適応するという意味ではなかった。
個体が何を求め、どのような状態で生きようとするのかによって、身体の変化も異なるという仮説だった。
灯里は記録を読み返した。
父親は、能力を分類するための表を作っていなかった。
個体ごとの観察記録には、行動や反応、周囲との接触について細かく書かれている。
そして、その多くに結論は記されていない。
「分からないことを、分からないまま残していたんだ……」
灯里は小さく呟いた。
研究者として、結果を出すことは重要だ。
しかし、父親は結果を急ぐことよりも、観察を続けることを選んでいたように見えた。
彼が何を知っていたのか。
なぜ十年前の記録が制限されているのか。
灯里はまだ、その答えに届いていなかった。
机の上には、閲覧できない資料の一覧が残っていた。
その中に、今まで何度も目にしてきた番号がある。
00。
灯里はその番号を見つめた。
ほかの個体については、少しずつ現在の行動と過去の記録を照らし合わせられるようになってきた。
だが、00については、ほとんど何も分からない。
それでも、父親が残した言葉だけは何度も目にしていた。
『この個体には、まだ未来がある。』
灯里は資料を閉じた。
その言葉が、何を意味しているのか。
まだ、理解できなかった。
*
地下研究施設。
生命維持装置の前で、研究員が数値を確認していた。
「また反応が変わっています」
「前回からどのくらい経過した?」
「約六時間です」
「間隔が短くなっているな」
「はい。ただ、身体の動きは確認できません」
研究員は映像を拡大した。
透明な容器の中で、人形の身体は静かに横たわっている。
顔にも、手にも、目立った変化はない。
「神経活動に相当する反応は?」
「継続しています。以前よりも安定しています」
責任者はしばらく画面を見つめていた。
「記録を続けろ。変化があれば、すぐに報告しろ」
「了解しました」
モニターに波形が表示される。
その波形は、ゆっくりと変化を続けていた。
まだ目覚めたわけではない。
しかし、十年間止まっていた時間は、確実に動き始めていた。




