第三十章 最初の兆候
地下研究施設の警報が鳴った。
短い電子音が繰り返され、研究員たちが一斉に端末へ向かう。
「生命維持装置の反応が変化しています!」
「どの装置だ?」
「中央区画です。対象番号、00」
その言葉に、責任者の表情が変わった。
「記録を表示しろ」
大型モニターに、装置内部の映像が映し出される。
透明な容器の中には、人間に似た身体が横たわっていた。
十年前からほとんど変化していない姿。
しかし、現在の数値は以前と明らかに異なっていた。
「生命反応が上昇しています。前回の変化よりも大きい」
「身体の状態は?」
「外見上の変化は確認できません。ただし、神経活動に相当する反応が増えています」
「装置の異常ではないな?」
「複数の計測機器で同じ結果が出ています」
責任者は画面を見つめた。
「ほかの個体への影響は?」
「現時点では確認できません」
「この情報は外部に出すな。閲覧権限を限定し、記録を保全しろ」
「分かりました」
研究員たちは指示に従った。
透明な容器の中で、身体は再び静止していた。
しかし、数値は元に戻らなかった。
*
同じ頃、特殊緊急防衛隊では新しい出動要請が届いていた。
場所は市街地から離れた物流施設。
夜間警備員が、敷地内で複数の金属部品が浮かび上がる現象を目撃したという。
「また金属を動かす個体でしょうか」
隊員が資料を確認する。
「可能性はある。ただし、以前の長腕の個体と同じとは限らない」
隊長が答えた。
「現場には警備員が残っているのか?」
「通報後、施設の外へ避難しています。現在は警察が周辺を封鎖しています」
「よし。まず敷地内の安全を確認する。対象を見つけても、住民や警備員に危険が及ばない限り、無理に接近するな」
湊たちは出動準備を整えた。
*
物流施設に到着すると、広い敷地の一部が停電していた。
倉庫の照明は消えているが、非常灯だけが点灯している。
警察官が入口で待っていた。
「警備員は全員避難済みです。敷地内に人が残っていないことも確認しています」
「ありがとうございます。こちらで調査します」
隊長は隊員たちに指示を出した。
湊は別の隊員とともに、倉庫の外側を確認する。
地面には金属製の部品がいくつか落ちていた。
その一つが、わずかに震えている。
「風ではなさそうですね」
「ああ。周囲を確認しよう」
二人が倉庫の角を曲がったとき、奥の資材置場で何かが動いた。
金属板が浮き上がっている。
その下に、人影が立っていた。
細長い腕。
灰色の皮膚。
湊はすぐに気づいた。
以前、何度も資材を集めていた個体だった。
「また会ったな」
個体がこちらを見た。
「春日湊」
「ここで何をしているんですか?」
「探している」
「何を?」
「足りないもの」
以前と同じ答えだった。
個体の周囲には、いくつもの金属片が浮かんでいる。
しかし、それらは倉庫の資材から少し離れた場所に置かれていた。
「ここにあるものは、施設の管理物です。勝手に持ち出してはいけません」
「知っている」
「なら、どうしてここに?」
「外に落ちていた」
個体は地面を指した。
確かに、金属片のいくつかは倉庫の外側に落ちていた。
ただし、それが最初からそこにあったのか、何かの理由で移動したのかは分からない。
「それを使うんですか?」
「使う」
「何を作っているんですか?」
個体は少し黙った。
「まだ、言えない」
「前にもそう言っていましたね」
「まだ分からないことがある」
湊は浮かんでいる金属片を見た。
「完成に近づいているんですか?」
「少し」
個体は片方の腕を動かした。
金属片がゆっくりと位置を変える。
いくつかの部品が接近し、互いに触れた。
しかし、すぐに離れてしまった。
個体はその動きを見つめた。
「まだ動かない」
「何かが足りないんですか?」
「そうだ」
「何が?」
「分からない」
湊はそれ以上尋ねなかった。
個体が何を作ろうとしているのかは分からない。
しかし、今のところ攻撃する様子もなかった。
そのとき、別の方向から隊長の声が聞こえた。
「春日、状況を報告しろ」
「対象を確認しました。以前、資材置場で接触した長腕の個体です。現在、金属部品を操作しています」
『周囲への危険は?』
「今のところ攻撃行動はありません。ただし、施設内にいる理由は確認できていません」
『了解した。周囲を警戒しろ』
湊は無線を戻した。
個体は金属片を地面に下ろしていた。
「ここは人間が管理している場所です。必要なものがあっても、勝手に持っていくことはできません」
「分かっている」
「外に落ちていたものでも、誰かが使う予定かもしれません」
個体は地面の金属片を見た。
「これは、誰も使っていない」
「今はそう見えるかもしれません。でも、持ち主がいるかもしれない」
個体はしばらく黙っていた。
やがて、金属片をすべて地面に置いた。
「持っていかない」
「ありがとうございます」
個体は湊を見た。
「お前は、いつもそれを言う」
「何をですか?」
「人間のものだと」
「そうですね。人間の社会では、誰かが管理しているものがありますから」
「お前たちは、何でも自分たちのものにするのか?」
湊は少し考えた。
「何でも、というわけではありません。誰のものでもない場所もありますし、みんなで使う場所もあります」
「みんなで使う」
「公園のような場所ですね」
個体は地面の金属片を見た。
「分からない」
「すぐに分からなくてもいいと思います」
そのとき、倉庫の奥で警報音が鳴った。
隊員が無線で報告する。
「倉庫内の設備が作動しています!」
湊は振り返った。
金属片の一部が再び浮き上がる。
個体も倉庫の方を向いた。
「これは、お前が?」
「違う」
個体は即座に答えた。
直後、倉庫の内部から大きな音が響いた。
「全員、退避!」
隊長の指示が飛ぶ。
湊たちは倉庫から距離を取った。
内部では、保管棚の一部が傾いていた。
金属部品が床に落ち、通路を塞いでいる。
しかし、そこに人間はいなかった。
「設備の故障か?」
隊長が状況を確認する。
「まだ分かりません。電源系統に異常が出ています」
湊は周囲を見回した。
長腕の個体は、すでに姿を消していた。
地面には、金属片が残されている。
*
調査の結果、倉庫内部の設備に不具合があったことは確認されたが、発生原因は特定できなかった。
個体が設備を操作した証拠も見つからなかった。
ただし、現場にいたことは確認されているため、防衛隊は引き続き経過を観察することになった。
帰還後、湊は報告書を提出した。
「対象は今回も、金属部品を持ち去りませんでした」
「それは記録しておく。ただし、施設への侵入があったことも事実だ」
「はい」
「相手の行動を理解しようとするのは構わない。だが、現場の安全確認を優先しろ」
「分かっています」
湊は頷いた。
*
夜、灯里は父親の資料を調べていた。
今回の物流施設の件を知り、金属を操る個体に関する古い記録を探していた。
しかし、該当する資料は見つからない。
代わりに、十年前の研究一覧の中から、身体構造に関する一つの記録を発見した。
そこには、複数の個体の身体が異なる方向へ変化していく可能性について書かれていた。
灯里は記録を開いた。
最後のページに、父親の手書きの文章があった。
『生きるために必要なものは、個体によって違う』
その下には、さらに短い一文が残されていた。
『それを理解する前に、奪ってはならない』
灯里はしばらく画面を見つめた。
現在の研究では、個体の組織が装備や試薬の開発に利用されている。
それがどこまで進んでいるのか。
そして、どの個体がどのような扱いを受けているのか。
まだ分からないことばかりだった。
*
地下研究施設。
生命維持装置の前で、研究員が新しい測定結果を確認していた。
「反応がさらに変化しています」
「身体の動きは?」
「確認できません。ただし、生命活動の数値は継続して上昇しています」
「意識活動については?」
「まだ断定できません」
責任者は透明な容器を見た。
その中の身体は、目を閉じたままだった。
研究員が記録を更新する。
モニターには、以前とは異なる波形が表示されていた。
十年間、変わらなかったものが、少しずつ変わり始めている。
しかし、まだ誰も、その変化が何を意味するのかを知らなかった。




