第二十九章 眠り続けるもの
研究施設の地下深く。
複数のモニターに、生命維持装置の状態が表示されていた。
装置の内部には、一人の人間に似た身体が横たわっている。
外見上、大きな変化はない。
目を閉じたまま、身体もほとんど動かない。
しかし、生命反応を示す数値は、十年前とはわずかに異なっていた。
「前回の測定から、また変化しています」
研究員が報告した。
「どの程度だ?」
「大きな変化ではありません。ただ、反応の間隔が短くなっています」
「装置の異常ではないのか?」
「複数の測定機器で確認しました。計測上の誤差ではないと考えています」
責任者はモニターに近づいた。
表示された数値を確認する。
「ほかの個体の活動状態との関連は?」
「現時点では確認できていません」
「記録を続けろ。変化があればすぐに報告すること」
「分かりました」
研究員は画面を操作した。
装置の内部にある身体は、相変わらず眠っているように見えた。
その施設にいる誰も、まだ目覚める時期を予測できなかった。
*
翌日、特殊緊急防衛隊では、これまでの目撃情報を整理する会議が開かれていた。
画面には、各地で確認された個体の記録が並んでいる。
「最近の特徴として、同じ地域で複数の個体が確認される事例が増えています」
分析担当の隊員が説明した。
「それぞれの個体に行動上の関連はあるのか?」
隊長が尋ねる。
「今のところ、明確な関連は確認できていません。接近している個体もいれば、互いに距離を取っている個体もいます」
「人間に対する反応は?」
「攻撃的な個体もいますが、接触を避ける個体や、人間の行動を観察している個体もいます」
湊は資料を見ていた。
森で出会った小柄な個体の記録もある。
これまでの接触では、攻撃されたことはない。
だが、それだけでほかの個体まで安全だとは言えなかった。
「現場での対応方針は変更しない。攻撃が確認された場合は防衛と住民の避難を優先する。意思疎通が可能な対象についても、警戒を解くな」
「了解しました」
隊長は続けた。
「それから、今後は目撃情報だけでなく、周辺環境の変化も記録する。道路、建物、設備への影響を確認しておけ」
会議はそのまま終了した。
*
会議の後、湊は装備を片付けていた。
そこへ、先日から新型装備の調整を担当している研究員がやって来た。
「春日隊員、少し確認してもいいですか」
「はい。装備のことですか?」
「そうです。前回の使用時、腕に痺れが出たと記録されています」
「今はもう大丈夫です」
「痛みや違和感はありませんか?」
「少し疲れることはありますけど、普段の生活には問題ありません」
研究員は端末に記録を入力した。
「今後、装備の出力をさらに上げる可能性があります。その場合、身体への負担も増えるかもしれません」
「もっと強くなるんですか?」
「出力だけを見れば、そうなります。ただし、実際に使えるかどうかは別です」
湊は装備を見た。
「人間の身体に合わせて作っているんですよね?」
「はい。現在の装備は、特殊生命体の組織構造を参考にしています」
「それなら、どうして人間にも使えるんですか?」
研究員は少し考えた。
「完全に同じものではありません。人間の身体で扱えるように、別の構造に置き換えています」
「なるほど」
「ただ、元になった組織の性質をすべて再現できているわけではありません」
湊は頷いた。
「じゃあ、まだ分からないことも多いんですね」
「そうです」
研究員は正直に答えた。
「分からないことがあるから、調べています」
その言葉を聞き、湊は装備をケースに戻した。
「使う側も、分からないまま使わないようにしないといけませんね」
「その通りです」
*
その日の夕方、灯里は研究施設の資料室にいた。
父親の記録と、最近の個体の観察結果を照合している。
いくつかの記録を比較すると、個体ごとに身体の変化が異なることが改めて確認できた。
ある個体は外皮を硬くする。
ある個体は金属を動かす。
また別の個体は、壁や地面に触れて変化を起こす。
それらは単なる種類の違いなのか。
それとも、それぞれが別の方向へ変化しているのか。
灯里は父親の記録を開いた。
そこには、身体の変化についての考察が残されていた。
『同じ環境に置かれた個体が、同じ変化を示すとは限らない』
さらに、その下には別の文章があった。
『個体の変化を理解するには、その個体が何を求めているのかを知らなければならない』
灯里は画面から目を離した。
父親は、個体を能力の集合として見ていなかった。
能力の強さだけでは、何も説明できないと考えていたのだろう。
しかし、現在の研究では、その能力を利用するための分析が進められている。
灯里は端末を操作し、別の資料を検索した。
今度は十年前の実験記録ではなく、現在の研究部門が公開している資料だった。
そこには、特殊生命体の組織を利用した装備開発と、人体への応用研究について記載されていた。
「……もう、ここまで進んでいる」
灯里は小さく呟いた。
父親が残した研究と、現在の研究。
その間には、十年という時間がある。
そして、その十年間に何が行われていたのかは、まだ明らかになっていなかった。
*
夜、湊は森の近くを歩いていた。
防衛隊の巡回任務が終わったところだった。
街灯の明かりが届かなくなる場所で、木々の間に小さな影が見えた。
「こんばんは」
湊が声をかける。
小柄な個体は振り返った。
「春日湊」
「また会いましたね」
「また会った」
個体は湊の手元を見た。
「それは何だ?」
「これですか?」
湊は持っていた飲み物を見せた。
「人間が飲むものです。水とは少し違いますけどね」
「飲む必要があるのか?」
「喉が渇いたら飲みます」
個体は以前と同じように、飲み物を見つめた。
「お前は、いつも何かを持っている」
「そうですか?」
「前も、飲むものを持っていた」
「確かにそうですね」
湊は笑った。
「人間は、出かけるときに飲み物を持っていくことがあります」
「なぜだ?」
「途中で喉が渇くかもしれないからです」
「まだ渇いていないのに、持っている」
「そうですね。あとで必要になるかもしれないので」
個体は少し考えた。
「まだ起きていないことのために、用意するのか」
「そういうこともあります」
「それは、必要なことなのか?」
「状況によります。必要になるかどうか分からないものもありますよ」
個体は湊の手元から視線を外した。
「分からないのに、用意する」
「はい」
「人間は、不思議だ」
「そうですか?」
「そうだ」
湊は少し笑った。
「僕から見ても、あなたたちは不思議ですよ」
個体は湊を見た。
「お前は、私たちを知っているのか?」
「まだ、ほとんど知りません」
「知らないのに、話す」
「話せるなら、話してみたいですから」
個体は答えなかった。
しばらくして、木々の奥へ視線を向けた。
「私は、まだ知らないことがある」
「僕もです」
「お前は、知らないことを知りたいのか?」
「そうですね。知ると、できることが増えるかもしれません」
「できること」
「はい。でも、知ったからといって、全部できるわけじゃないですけどね」
個体は少しだけ考えた。
「また会ったら、話す」
「ええ。もちろんです」
個体は森の中へ歩いていった。
湊はその背中を見送った。
相手が何を考えているのか、まだ分からない。
それでも、会話の中で少しずつ新しい言葉が増えている。
それは、これまでの現場で得られた記録とは違うものだった。
*
同じ夜。
地下研究施設のモニターに、再び変化が表示された。
生命維持装置の数値が、ゆっくりと変わっていく。
研究員が画面を確認した。
「反応が変化しています」
「どの部分だ?」
「生命活動の数値です。これまでよりも明確な変化が出ています」
責任者が装置の前に立った。
透明な容器の中で、眠ったままの身体が静かに横たわっている。
その指先が、ごくわずかに動いた。
研究員は息を止めた。
「今のは……」
「記録しろ」
責任者が指示する。
指先は、もう動かなかった。
装置の数値だけが、わずかな変化を示し続けていた。
十年間、閉ざされていた記録の中で、何かが動き始めていた。




