第二十八章 記録されないもの
防衛隊本部に、一通の報告書が届いた。
報告元は、郊外にある民間の医療施設だった。
施設の職員によれば、数日前から夜間に不審な現象が起きているという。
廊下の照明が突然消える。
監視カメラの映像に、誰もいないはずの場所で影が映る。
そして、使用していない検査室の機器が、何度か勝手に作動した。
「人的被害は?」
隊長が尋ねた。
「今のところありません。職員にも怪我人はいません」
「患者への影響は?」
「異常が起きた時間帯には、検査室は使用されていませんでした」
隊長は報告書を閉じた。
「施設側は原因を特定できていない。電気設備の故障も考えられるが、目撃情報がある以上、現場を確認する」
湊は資料に目を通した。
添付された写真の一枚に、廊下の壁が写っている。
壁面の一部に、細い黒い線が残っていた。
以前の調査でも似たような痕跡が確認されている。
ただし、同じ原因によるものかどうかは分からない。
「行きましょう」
隊員たちは準備を始めた。
*
医療施設は、住宅地の外れに建っていた。
建物は比較的新しく、入口には夜間も警備員が配置されている。
施設の責任者が、防衛隊を出迎えた。
「こちらです。問題が起きているのは二階の検査室です」
「患者さんは?」
「現在、検査室の使用を停止しています。ほかの診療には影響が出ないようにしています」
「分かりました。まず設備を確認します」
湊たちは責任者の案内で二階へ向かった。
廊下は静かだった。
照明も正常に点灯している。
しかし、検査室の前まで来ると、室内から小さな電子音が聞こえた。
ピッ。
ピッ。
機器が作動している音だった。
「電源は切ってあるはずですが……」
責任者が困惑した表情を見せる。
隊長が手で合図した。
「全員、周囲を確認。機器には不用意に触れるな」
湊は扉の横から室内を覗いた。
検査機器の画面が点灯している。
その隣に、何かが立っていた。
人間のような姿だった。
しかし、身体の輪郭がはっきりしない。
腕のような部分が、機器の側面に触れている。
「対象を確認しました」
湊が小声で報告する。
隊長は室内を確認した。
「刺激するな。まず人間がいないことを確認する」
責任者が頷く。
「検査室には誰もいません」
そのとき、影が動いた。
機器の画面に表示されていた数値が変化する。
直後、室内の照明が一度だけ明滅した。
「電源系統に異常が発生しています」
隊員が報告する。
「施設側の設備担当に連絡しろ。こちらは距離を保つ」
湊は影を見ていた。
影は機器に触れたまま、画面を見ているようだった。
攻撃する様子はない。
だが、何をしているのかは分からない。
「ここに何があるんでしょうか」
湊が呟いた。
影は答えない。
やがて、腕を離した。
機器の画面が消える。
影は扉の反対側へ移動し、そのまま廊下の奥へ姿を消した。
「追跡しますか?」
「いや。施設内の安全確認を優先する」
隊長はそう判断した。
隊員たちは検査室の状態を記録し、施設の設備担当とともに電源系統を確認することになった。
*
調査の結果、検査機器の内部に明確な故障は見つからなかった。
しかし、作動記録には通常とは異なる数値が残っていた。
「外部からの信号によるものではないんですか?」
湊が施設の技術担当者に尋ねた。
「その可能性も調べています。ただ、通常の制御信号とは一致しません」
「機器そのものが壊れたわけではない?」
「現時点では、そう判断しています」
隊長は記録を受け取った。
「原因が分かるまで、検査室の使用は再開しない方がいいでしょう」
「分かりました」
施設の責任者は頷いた。
防衛隊は周辺の安全を確認し、その日の調査を終了した。
*
同じ頃、財閥系研究部門では、現場映像の分析が始まっていた。
「今回の個体は、これまでの壁面変化を起こした個体と同一でしょうか」
「まだ判断できない。身体の輪郭も不鮮明だ」
「機器への接触については?」
「外部から信号を送った形跡はありません。機器内部の数値が変化したことは確認されています」
「つまり、機器の動作に何らかの影響を与えた可能性があると」
「そう考えられます。ただし、能力の仕組みは不明です」
研究員は映像を繰り返し再生した。
影は機器に触れ、しばらくその場にとどまっていた。
攻撃するような動きはない。
しかし、何を目的としていたのかは分からない。
「対象が何を確認していたのか、調べる必要があります」
「まずは過去の目撃記録との照合を進めてください」
責任者は別の資料を開いた。
「それと、防衛隊の新型装備の使用状況は?」
「引き続き記録しています。身体への負担については、個人差が確認されています」
「試薬との併用試験は?」
「まだ実施していません」
「準備を進めてください」
研究員は返事をしたが、すぐには端末を操作しなかった。
「対象となる隊員への説明について、もう一度確認したいことがあります」
「何だ?」
「試薬の影響は、装備の使用記録だけでは分かりません。人体への適用を考えるなら、本人の理解と同意が必要です」
責任者は研究員を見た。
「安全性を確認するための手順は、別途検討する」
「それでは、説明が後回しになる可能性があります」
「今は研究を進める段階だ。手順を急いで決める必要はない」
研究員は口を閉じた。
だが、疑問は消えなかった。
*
灯里は自宅で、父親の資料を整理していた。
医療施設の名称を聞いたとき、古い記録の中に同じ施設名があったことを思い出したためだ。
端末で過去の資料を検索する。
該当する記録は見つかった。
ただし、内容はほとんど残されていない。
十年前の研究施設一覧に、その医療施設と同じ管理番号が記されていた。
灯里は画面を見つめた。
「どうして、ここが……」
父親の資料には、医療施設での研究について詳しい説明はなかった。
ただ、ある記録の末尾に、短い文章が残されていた。
『生命を理解するためには、生命が何を見ているのかを考える必要がある』
灯里はその文章を読み返した。
今回の個体は、検査機器に触れていた。
何かを調べていたのかもしれない。
しかし、それは人間の研究者が考える「検査」と同じ意味なのだろうか。
灯里にはまだ分からなかった。
*
夜。
森の近くにある小さな公園で、湊は一人の人影を見つけた。
小柄な人型の個体だった。
ベンチの近くに立ち、街灯を見上げている。
「こんばんは」
湊が声をかけると、個体は振り返った。
「春日湊」
「覚えてくれていたんですね」
「覚えている」
個体は街灯を指した。
「これは何だ?」
「街灯です。夜に周りを明るくするためのものですよ」
「明るくする」
「暗いと、人間は歩きにくいですから」
個体は街灯の下に立った。
自分の影が地面に伸びる。
その影を見つめている。
「これは、お前のものか?」
「影ですか?」
「そうだ」
「自分の身体が光を遮ると、地面に影ができます」
個体は自分の手を動かした。
地面の影も動く。
「同じように動く」
「そうですね」
個体はしばらく手を動かしていた。
「人間は、これを必要とするのか?」
「影そのものは必要ありません。でも、光があると影ができます」
「必要ではないものも、あるのか」
「ありますよ」
個体は街灯を見上げた。
「では、なぜ置いてある?」
「夜でも歩けるようにするためです」
「人間は、暗い場所を嫌うのか?」
「人によりますね。暗い場所が好きな人もいます」
個体は答えなかった。
湊は時計を確認した。
「そろそろ帰ります。あなたも気をつけてくださいね」
「帰る?」
「自分のいる場所に戻ることです」
「お前にも、戻る場所があるのか」
「ありますよ」
個体は少しだけ考えた。
「人間は、戻る場所を持っている」
「全員がそうとは限りませんけどね」
個体は街灯の下に残った。
湊は軽く手を振り、その場を離れた。
個体はしばらく彼の背中を見ていた。
それから、もう一度、自分の足元に伸びる影を見つめた。
光があるから、影ができる。
その影は、身体と一緒に動いていた。
個体はゆっくりと手を下ろした。
街灯の明かりは、変わらず公園を照らしていた。




