第二十七章 境界の向こう
朝、防衛隊本部に一件の報告が届いた。
山間部にある道路の脇で、複数の動物が不自然な行動をしているという。
最初の通報者は、近くで作業していた道路管理会社の職員だった。
動物たちは道路の同じ場所に集まり、何かを避けるように周囲を移動していたらしい。
その後、道路脇の斜面で土砂が崩れ、通行が一時的に困難になった。
「自然災害の可能性もあるんですよね?」
湊が資料を確認しながら尋ねた。
「そうだ。現時点では特殊生命体との関係は分かっていない。ただ、現場付近で人型の影を見たという証言がある」
「目撃者は?」
「道路管理会社の職員が二人。どちらも同じ時間帯に見たと言っている」
隊長は地図を表示した。
「今回は現場の安全確認と、周辺の調査が目的だ。斜面が不安定な可能性がある。無理に近づくな」
「了解しました」
*
現場へ向かう途中、車内では土砂崩れの状況が共有された。
崩れた範囲は広くないが、道路の一部が土砂で覆われている。
道路管理会社はすでに通行止めの措置を取っていた。
「動物が集まっていたという話ですが、何か原因があるんでしょうか」
隊員の一人が言った。
「餌を求めていた可能性もある。地面の振動や匂いに反応した可能性もある」
隊長が答える。
「特殊生命体が近くにいたとしても、動物の行動と直接関係があるとは限らない」
湊は窓の外を見た。
山の木々が道路の両側に広がっている。
これまでにも、山間部では複数の個体が確認されていた。
しかし、同じ場所に現れたからといって、互いに関係があるとは限らない。
*
現場に到着すると、道路脇には新しい土砂が広がっていた。
大きな岩が一つ、道路の端に転がっている。
隊員たちはまず周辺の安全を確認した。
「斜面の上に崩れた跡があります」
「追加の崩落に注意しろ」
湊は道路の外側を確認していた。
そのとき、斜面の向こうで大きな影が動いた。
木々の間から、硬い外皮に覆われた生物が姿を現す。
背中には不規則な突起が並んでいた。
以前、山間部で確認された大型の個体に似ている。
「対象を確認」
隊員が小声で報告した。
大型の個体は道路脇に立ち、こちらを見ていた。
すぐには近づいてこない。
湊たちも距離を保った。
そのとき、別の方向から人型の影が現れた。
細身の身体。
表面には暗い模様が見える。
その個体は大型の個体に近づいたが、接触はしなかった。
二つの個体は、互いに一定の距離を保っていた。
「また一緒にいるな」
隊員の一人が呟く。
「同じ場所にいるだけかもしれない。まだ判断するな」
隊長が答えた。
人型の個体は地面に手を伸ばした。
その指先が岩に触れる。
岩の表面に細かな亀裂が広がった。
やがて、小さな破片がいくつか落ちた。
しかし、大きな岩そのものは動かなかった。
「岩の表面が変化しています」
隊員が記録を取る。
人型の個体は手を離した。
しばらく岩を見つめた後、別の場所へ移動する。
大型の個体は、その様子を見ていた。
だが、助けることも、攻撃することもなかった。
やがて大型の個体も反対方向へ歩き出した。
二つの姿は、別々の木々の間へ消えていった。
*
「追跡しますか?」
隊員が尋ねた。
「いや。斜面の状態が分からない。まずは現場を確認する」
隊長はそう指示した。
湊は岩の表面に残った亀裂を撮影した。
その近くには、自然にできたような細かな割れ目もあった。
今回の土砂崩れと、個体が岩に触れた行動との関係は分からない。
また、二つの個体が同じ場所にいた理由も不明だった。
「大型の個体は、こちらを攻撃しませんでしたね」
湊が言った。
「今回はそうだった。それだけだ」
「はい」
「次も同じとは限らない」
隊長は斜面を見上げた。
「こちらが判断するのは、目の前で起きたことと、確認できた危険についてだ」
隊員たちは引き続き現場の調査を行った。
追加の崩落は確認されなかったが、道路の復旧には時間が必要だった。
*
同じ日の午後、財閥の研究部門に現場映像が送られた。
「大型個体と人型個体が同じ場所に確認されています」
「以前にもあったな」
「はい。ただし、今回も明確な協同行動は確認されていません」
研究員は映像を再生した。
大型個体が立ち止まっている。
その少し離れた場所で、人型個体が岩に触れている。
「人型個体の能力は、地表の構造に作用しているように見えます」
「岩全体を動かせるわけではないのか?」
「今回の映像では、表面の変化しか確認できません。対象の能力の範囲や限界は不明です」
「大型個体との関係は?」
「判断できません。互いに攻撃していないことは確認できますが、それ以上の情報はありません」
責任者は映像を止めた。
「引き続き観察する。現段階では、同じ個体群として扱うな」
「了解しました」
*
一方、灯里は父親の古い資料と、現在の目撃記録を照合していた。
今回の大型個体に似た身体構造は、過去の記録にも残されている。
しかし、同じ特徴を持つ個体が複数存在する可能性もある。
個体を外見だけで特定することはできない。
灯里は画面を切り替え、父親の手書き記録を開いた。
そこには、短い一文が残されていた。
『個体間の距離は、必ずしも関係の深さを示さない』
灯里はその文章を読んだ。
以前から父親は、個体同士の行動を単純な分類に当てはめることを避けていた。
協力しているように見えても、目的が同じとは限らない。
敵対していないからといって、互いを信頼しているとも限らない。
灯里は現場映像をもう一度確認した。
大型個体と人型個体は、同じ場所にいた。
ただ、それだけだった。
*
夕方、湊は本部へ戻る途中で、道路脇の小さな売店に立ち寄った。
飲み物を買い、外のベンチに座る。
スマートフォンには、現場で撮影した映像が残っていた。
大型の個体。
人型の個体。
そして、岩の表面に広がった亀裂。
どれも、まだ分からないことばかりだった。
湊は飲み物を一口飲み、端末を閉じた。
人間同士でも、相手の考えをすべて理解できるわけではない。
同じ場所にいる理由も、同じ行動を取る理由も、それぞれ違う。
まして、今まで知らなかった生命なら、なおさらだろう。
ただし、理解できないことと、何も確かめなくていいことは違う。
湊は立ち上がり、再び本部へ向かった。
*
その夜、山間部の別の場所で、人型の個体が地面に手を触れていた。
指先の下で、土がわずかに動く。
個体は手を離し、変化した地面を見つめた。
しばらくすると、少し離れた場所から大きな足音が聞こえた。
個体はそちらを向いた。
木々の間に、大型の影が見える。
大型の個体は立ち止まり、しばらくこちらを見ていた。
人型の個体は何も言わなかった。
大型の個体も動かなかった。
やがて、人型の個体は地面から手を離し、別の方向へ歩き出した。
大型の個体は反対側へ進んでいく。
二つの姿は、再び別々の場所へ消えていった。
そこに約束があったのか。
目的があったのか。
あるいは、ただ同じ場所に居合わせただけなのか。
それを知る者はいなかった。




