第三章 知らない世界の住人
午前八時。
春日湊が防衛隊の施設に到着すると、すでに数人の隊員が装備の準備を進めていた。
「おはようございます」
「おう、春日。昨日は遅かったな」
「帰りにちょっと寄り道していたんですよ」
「寄り道?」
「自動販売機の前で、変わった人に会いまして」
湊は何気なく答えた。
「変わった人?」
「はい。飲み物の買い方が分からないみたいだったんです」
「なんだそれ。外国人か?」
「いや、そういう感じでもなかったんですけどね」
湊は昨日の出来事を思い出した。
あの人物は、飲み物を手に取ることすら知らなかった。
しかし、言葉は通じていた。
質問に対する反応も、単純な動物とは明らかに違っていた。
「まあ、今度会ったら聞いてみます」
「お前は本当に誰とでも話そうとするな」
「話せるなら、話してみたいじゃないですか」
同僚は呆れたように笑った。
そのとき、施設内の放送が鳴った。
『第一班、第二班は会議室に集合してください』
湊たちは会話を切り上げ、会議室へ向かった。
*
会議室の正面には、昨日の山林で撮影された映像が表示されていた。
説明を担当する職員は、映像を一時停止した。
「昨日、確認された人型の対象について、新しい情報が入った」
画面には、森の中に立つ小柄な姿が映っている。
「対象は人間に近い外見をしているが、身体構造は通常の人類とは異なる可能性が高い。現場で採取された組織の分析結果も、一般的な生物とは一致しなかった」
「意思疎通は可能なんですか?」
隊員の一人が尋ねた。
「現場の記録では、言語に似た音声を発している。意味を理解しているかどうかは、まだ判断できない」
「それなら、接触を試みるべきでは?」
「接触の判断は現場責任者が行う。ただし、対象が危険な行動を取った場合は、周囲の安全を最優先すること」
職員は画面を切り替えた。
今度は、巨大な生物の映像が表示される。
「こちらは昨日の大型個体だ。通常弾薬による攻撃では、明確な損傷を確認できなかった。現在、研究部門が対応装備の開発を検討している」
「開発って、すぐに使えるものができるんですか?」
「まだ分からない。現段階では研究用の試作品も存在しない」
隊員たちの間に小さなざわめきが起きた。
未知の生物に対して、既存の装備だけで対応しなければならない。
それは現場で活動する隊員にとって、決して軽い問題ではなかった。
「今日の任務は、昨日の現場周辺での捜索と住民の安全確認だ。対象を発見した場合は、可能な限り距離を保って観察すること」
説明が終わる。
湊は資料を閉じた。
今日もまた、何が起こるのか分からない現場へ向かうことになる。
*
午前十時。
山林に到着した隊員たちは、警察と協力して周辺の確認を始めた。
昨日の足跡は、夜間の雨によって一部が消えていた。
しかし、森の奥には新しい痕跡が残っている。
「こちらに移動した形跡があります」
隊員の報告を受け、湊は地面を確認した。
小さな足跡。
昨日見つけたものと似ている。
「この辺りにいたんでしょうか」
「そうかもしれないな。だが、今は姿が見えない」
湊は周囲を見渡した。
木々の間から日光が差し込んでいる。
鳥の鳴き声も聞こえる。
昨日の騒ぎが嘘だったかのように、森は静かだった。
そのとき、少し離れた場所から声が聞こえた。
「……これ」
湊は振り返った。
木の陰に、昨日の人影が立っていた。
「あっ」
思わず声が出る。
相手も湊に気づいたようだった。
逃げようとはしない。
ただ、じっとこちらを見ている。
「春日、どうした?」
「昨日の対象です」
隊員たちが警戒態勢に入る。
しかし、湊はすぐに武器を向けなかった。
「昨日、会ったよね?」
相手は答えない。
「飲み物、飲めた?」
少し間があった。
「……飲んだ」
「そっか。よかった」
湊は笑った。
相手はその表情を不思議そうに見つめている。
「どうして笑う?」
「どうしてって……飲めたならよかったと思ったから」
「よかった?」
「うん」
相手はしばらく黙っていた。
やがて、自分の胸元に手を当てた。
「私は……」
そこで言葉が止まる。
何かを思い出そうとしているようだった。
「私は、何?」
「名前?」
湊が尋ねる。
相手は小さく頷いた。
「名前は、ある?」
「分からない」
「そっか」
湊は少し考えた。
「じゃあ、無理に思い出さなくてもいいんじゃないかな」
相手は首を傾けた。
「名前がなくてもいい?」
「少なくとも、今すぐ困ることはないと思うよ」
その言葉を聞いて、相手は再び黙った。
隊員の一人が小声で尋ねてくる。
「春日、本当に大丈夫なのか?」
「今のところ、攻撃する様子はありません」
「だが、正体は分からない」
「それはそうですね」
湊は相手から視線を外さずに答えた。
警戒を解いたわけではない。
ただ、相手が何を考えているのか、もう少し知りたかった。
*
そのときだった。
森の奥から、低い振動音が聞こえた。
相手の身体がわずかに強張る。
湊も音の方向を確認した。
地面に小さな振動が伝わってくる。
「また来たのか……」
隊員が武器を構える。
木々の間から、昨日の大型個体とは別の生物が姿を現した。
身体は比較的小さい。
しかし、背中には硬い突起が並び、前脚は地面を掘り進むためのような形状をしていた。
生物は周囲を確認しながら、ゆっくりと移動している。
「対象確認。全員、警戒!」
隊長が指示を出す。
その声を聞いた人型の個体は、湊たちの後ろへ移動した。
だが、完全に隠れるわけではない。
生物の動きをじっと見ている。
「知っている相手なのか?」
湊が尋ねた。
人型の個体は答えなかった。
ただ、視線をそらさない。
やがて、地面を掘っていた生物が顔を上げた。
その視線が、人型の個体に向けられる。
次の瞬間、生物は急に方向を変えた。
湊たちではない。
人型の個体へ向かって進み始めた。
「危ない!」
湊が叫ぶ。
人型の個体は動かなかった。
生物が接近する。
湊は反射的に前へ出た。
「こっちだ!」
腕を広げ、相手の注意を引こうとする。
しかし、生物は湊を無視した。
そのまま人型の個体へ突進する。
衝突する直前、人型の個体の身体が変化した。
腕の表面が黒く広がり、硬質な構造へと変わる。
生物の突進を受け止めた瞬間、周囲の土が大きく跳ねた。
湊は目を見開いた。
人間の身体ではない。
しかし、相手は確かに人間のような姿から、その身体を変化させた。
「今の……」
人型の個体は生物を押し返した。
それ以上攻撃することはなく、距離を取る。
生物も再び地面へ身体を低くした。
「撃つな!」
隊長が叫ぶ。
隊員たちは武器を構えたまま、状況を見守った。
しばらくして、生物は森の奥へと移動していった。
人型の個体は変化した腕を見つめていた。
黒い構造は、ゆっくりと元の形に戻っていく。
「大丈夫?」
湊が声を掛ける。
「……分からない」
「痛い?」
「痛くない」
「そっか」
湊は相手の身体を確認した。
外傷は見当たらない。
ただ、本人は自分に何が起きたのか理解できていないようだった。
「今のは、あなたの力?」
人型の個体は首を横に振った。
「分からない」
「そっか。じゃあ、無理に聞かないよ」
湊はそう言って、少し距離を取った。
相手が自分の身体について理解していないのなら、今ここで質問を重ねても答えは出ないだろう。
それよりも、先ほどの生物が再び戻ってくる可能性を考える必要があった。
*
午後一時。
現場から戻った湊たちは、撮影した映像と採取資料を研究部門へ提出した。
その日の報告には、重要な情報がいくつか含まれていた。
人型の個体が言語による意思疎通を行ったこと。
身体構造を一時的に変化させたこと。
別の特殊生命体との間で、何らかの関係性が存在する可能性があること。
研究部門は、これらの情報を受けて追加調査を開始した。
そして、その報告書は財閥の研究責任者にも送られた。
*
同日午後三時。
財閥が管理する研究施設。
一人の研究責任者が、提出された映像を確認していた。
「人間形態への移行が確認されたのか」
「はい。完全な人間ではありませんが、身体構造の一部が人類に近づいています」
「興味深いな」
研究責任者は映像を一時停止した。
画面には、黒い構造へ変化した腕が映っている。
「この個体を優先的に追跡しろ」
「捕獲しますか?」
「まだだ。まずは進化の過程を記録する。どのような条件で形態が変化するのか、確認する必要がある」
「了解しました」
「それから、今回の映像は防衛隊側にも共有されているのか?」
「はい。現場の隊員には通常の報告として送られています」
「構わない。彼らには現場の安全を確保してもらえばいい」
研究責任者は別の資料を開いた。
そこには、特殊生命体の能力を応用した新型装備の研究計画が記載されていた。
まだ実用化には至っていない。
だが、今回の映像は研究を進めるうえで重要な資料になる可能性があった。
「ようやく、次の段階に進めそうだな」
研究責任者は画面を閉じた。
*
夕方。
久世灯里は、父親の古い研究記録を整理していた。
その中に、これまで見たことのない一枚の図があった。
複数の生命体を示すような記号が描かれ、それぞれに異なる形状が記されている。
その中央には、一つの番号があった。
00。
その周囲には、ほかの個体を示す番号が並んでいる。
灯里は資料の裏側を確認した。
そこには、父親の筆跡で短い文章が書かれていた。
――彼らは同じ種族であっても、同じ存在ではない。
灯里はその文章を読み返した。
「同じ種族でも……違う存在?」
さらにページをめくる。
そこには、個体ごとの進化について記されていた。
同じ生命構造を持っていても、個体によって身体の変化や能力の方向が異なる可能性がある。
その違いは、単純な遺伝的特徴だけでは説明できない。
灯里は端末に記録を入力した。
父親は、この生命体たちを単なる研究対象として扱っていなかった。
少なくとも、最後までそうしようとしていたことが分かる。
彼らを一つの分類に押し込めるのではなく、それぞれの個体を独立した存在として見ていたのだろう。
灯里は資料を閉じた。
まだ父親の死の真相には届いていない。
しかし、調べるべきことは少しずつ見えてきていた。
*
夜。
湊は自宅で夕食を食べていた。
テレビでは、山林付近で発生した異常事件について報道されている。
『警察は、現場周辺で確認された正体不明の生物について、住民への注意を呼びかけています。現在までに、周辺地域で大きな被害は確認されていません』
画面には、規制線の張られた道路が映っていた。
湊は箸を止めた。
「正体不明の生物、か」
昼間に出会った人型の個体を思い出す。
あの個体は、自分の身体について何も知らなかった。
名前も分からない。
飲み物の意味も知らない。
それでも、こちらの言葉を理解しようとしていた。
湊は食事を再開した。
明日も任務がある。
その個体に再び会えるかどうかは分からない。
ただ、一つ気になっていることがあった。
あの個体は、どうして一人で森の中にいたのだろう。
そして、あの大型生物とは、どのような関係だったのだろう。
答えはまだ分からない。
同じ頃、街から離れた森の中では、昼間に湊と出会った人型の個体が、一人で夜空を見上げていた。
空には月が浮かんでいる。
その個体は、しばらく月を見つめていた。
「……知らない」
小さく呟く。
自分がどこから来たのか。
なぜ目を覚ましたのか。
なぜ身体が変化するのか。
何も分からない。
ただ、今日出会った人間の言葉だけは、少しずつ頭の中に残り始めていた。
生きるため。
その言葉が何を意味するのか、まだ理解できていなかった。




