第二章 森に残されたもの
午前十時三十分。
特殊緊急防衛隊の施設では、前日の山林で発生した異常事件について、簡単な報告会が開かれていた。
会議室の正面には、現場で撮影された映像が表示されている。
大木を折りながら移動する巨大な生物。
通常の銃弾を受けても、ほとんど動きを止めない身体。
そして、突然姿を消した対象。
「現在、警察と合同で周辺の捜索を続けている。対象の正体については、まだ確定した情報がない」
説明を担当する職員が資料を切り替えた。
「現場から採取された物質についても、通常の動物組織とは異なる反応が確認されている。詳しい分析結果は研究部門から届き次第、共有する」
「質問があります」
隊員の一人が手を挙げた。
「昨日の対象に対して、今後も通常弾薬を使用するんですか?」
「現時点では、代替装備が配備されていない。対象の性質が判明するまでは、既存の装備を基本とする」
「それでは、また負傷者が出る可能性があります」
「その可能性は理解している。だからといって、現場で使用できる装備がない以上、現在の装備で対応するしかない」
会議室に短い沈黙が流れた。
湊は資料を見ながら、昨日の出来事を思い返していた。
あの生物は、確かに危険だった。
しかし、もう一体いた小さな影はどうだっただろう。
こちらを見ていたが、襲ってくる様子はなかった。
「春日」
「はい?」
「何か気になることでもあるのか?」
「昨日、もう一体いたように見えたんです」
「小さい個体か?」
「はい。あれも同じ生物だったんでしょうか」
「今の段階では分からない。映像にもはっきりとは残っていないからな」
湊は頷いた。
「分かりました」
会議はそのまま終了した。
*
午後一時。
湊たちは再び山林付近へ向かうことになった。
昨日の対象が移動した経路を確認し、周辺住民への聞き取りを行うためだった。
現場に到着すると、警察の捜索班がすでに活動を始めていた。
「お疲れさまです」
「おう。昨日の件、何か覚えていることはあるか?」
警察官に尋ねられ、湊は少し考えた。
「大きい個体のほかに、小さい個体を見ました。木の陰に隠れて、こちらを観察しているようでした」
「観察?」
「少なくとも、逃げようとしているようには見えませんでした」
「人間を警戒していなかった可能性もあるな」
「そうかもしれません」
警察官は記録を取りながら、周囲を確認した。
そのとき、少し離れた場所から声が聞こえた。
「こちらに来てください!」
湊たちは声の方向へ向かった。
そこには、昨日のものとは違う痕跡が残っていた。
地面に小さな足跡がいくつもある。
しかし、足跡の形状は人間のものに近かった。
「これ……人間の足跡ですか?」
「大きさは子供くらいだな」
警察官がしゃがみ込む。
足跡は森の奥から農道の方向へ続いていた。
その途中には、草が踏み倒された跡もある。
「昨日の小さい個体でしょうか」
湊が尋ねた。
「可能性はある。ただし、まだ断定できない」
警察官は無線で情報を共有した。
捜索班が足跡を追うことになり、湊たちも一定の距離を保ちながら進む。
しばらく進んだところで、湊は前方に人影を見つけた。
木の陰に、一人の子供のような姿が立っている。
遠くからでは性別も年齢も分からない。
服は着ていなかった。
身体の一部には、黒っぽい模様が浮かんでいる。
「止まってください!」
警察官が呼びかける。
人影は動かなかった。
「あなたは誰ですか?」
返事はない。
湊は武器を構えたまま、相手の様子を観察した。
昨日の小さな影と同じなのかもしれない。
しかし、今度ははっきりと人間に近い形をしている。
「怪我をしているのか?」
湊が声を掛けた。
人影の視線が動く。
その目は、湊の顔を見ていた。
しばらくして、人影は自分の手を見下ろした。
そして、ゆっくりと指を動かした。
まるで、自分の身体がどのようなものなのか、確かめているようだった。
「……手」
小さな声が聞こえた。
湊は目を見開いた。
「今、何か言いましたか?」
「手……」
人影はもう一度、自分の手を見つめた。
「これは……何?」
警察官が無線を手に取る。
「対象を確認。人間に近い外見をしている。意思疎通の可能性あり」
しかし、その直後だった。
人影の背後にある木が、大きく揺れた。
何かが近づいている。
「全員、警戒!」
森の奥から、昨日と同じ巨大な生物が姿を現した。
人影はそちらを振り返った。
そして、初めて表情を変えた。
恐怖だった。
「逃げろ!」
湊は思わず叫んだ。
人影は一瞬だけこちらを見た。
次の瞬間、森の奥へ走り出した。
「追うな! まず大型個体を警戒しろ!」
隊長の指示が飛ぶ。
巨大な生物は、人影を追いかけるように移動した。
湊たちは住民側へ進まないよう、周辺の警戒を続ける。
しかし、数分後。
森の奥から大きな音が響いた。
そして、再び静寂が訪れた。
*
午後四時。
防衛隊の施設に戻った湊は、現場報告書を作成していた。
人間に近い姿をした個体。
言葉を発したこと。
自分の身体について疑問を持っていたこと。
そして、巨大な個体を見た際に恐怖を示したこと。
湊は一つずつ記録していく。
「春日、報告書は終わったか?」
「あと少しです」
「今日の個体について、研究部門から問い合わせが来ている。映像と記録を送っておいてくれ」
「分かりました」
湊は端末を操作した。
画面には、現場で撮影された人影の映像が表示されている。
その姿は、確かに人間に近かった。
だが、手足の動きにはわずかな違和感があった。
人間の身体を初めて使う者が、動かし方を確かめているようにも見える。
「……不思議な生き物だな」
湊は呟いた。
*
同じ頃。
久世灯里は、研究施設の資料室で古い実験記録を調べていた。
前日に見つけた「00」という番号。
その記録を手掛かりに、関連する資料を探していた。
しかし、閲覧できる資料は限られている。
十年前の実験に関する記録は、一部が削除されているか、閲覧制限が設けられていた。
「どうして、ここまで隠す必要があるの……」
灯里は端末に表示された資料を見つめた。
研究計画の概要には、100体の特殊生命体を生成したことが記されている。
しかし、個体ごとの詳細な記録は見当たらない。
その代わり、何度も登場する言葉があった。
生命活動の安定化。
進化反応の観察。
意識情報の保存。
そして、種群全体の活動停止。
「活動停止……?」
灯里はその項目を開こうとした。
しかし、閲覧権限がないという表示が出た。
彼女は少し考えた後、父親の個人的な研究記録を取り出した。
その中には、研究計画の公式資料にはない記述が残されている。
――個体の意思を無視した進化は、生命の成長とは呼べない。
灯里はその文章を何度も読み返した。
父親は何かを危惧していた。
それが何だったのか、今の彼女にはまだ分からない。
ただ、父親が残した記録の最後には、別の文章もあった。
――彼らには、それぞれの未来がある。
灯里は資料を閉じた。
父親が何を守ろうとしていたのか。
その答えを知るためには、まだ調べなければならないことが多かった。
*
午後七時。
防衛隊の施設を出た湊は、帰り道の途中にあるコンビニへ立ち寄った。
飲み物と軽食を購入し、店の外へ出る。
そのとき、道路の向こう側に人影が見えた。
小柄な人物だった。
薄暗い街灯の下で、じっと自動販売機を見つめている。
湊は一瞬、足を止めた。
昼間に森で見た人影と、どこか似ていた。
服は着ている。
しかし、靴は履いていなかった。
その人物は自動販売機の前に立ち、商品の並んだボタンを見つめていた。
そして、手を伸ばす。
ボタンを押した。
商品が落ちる音がする。
人物は取り出し口を覗き込んだ。
だが、商品を手に取った後、どうすればいいのか分からないようだった。
湊は少し迷った。
昼間の出来事を考えれば、声を掛けるべきではないのかもしれない。
しかし、相手は一人で困っているように見えた。
「こんばんは」
湊が声を掛ける。
人物が振り返った。
その顔には、昼間の森で見たものと同じ特徴があった。
湊は驚きを表に出さないようにした。
「それ、飲み物だよ」
「……飲み物?」
「そう。喉が渇いたときに飲むもの」
人物は手元の商品を見つめた。
「どうして、これを飲む?」
「どうしてって……喉が渇くからかな」
「喉が渇く?」
「うん」
人物はしばらく黙っていた。
そして、手に持っていた飲み物を見つめながら、もう一度尋ねた。
「あなたたちは、どうしてこれを必要とする?」
湊は少し考えた。
「生きていくため、かな」
人物はその言葉を聞いて、ゆっくりと顔を上げた。
「生きるため……」
その声には、まだ理解できないものを確かめようとする響きがあった。
湊は相手の様子を見ながら、無理に質問を続けないことにした。
「名前は?」
人物は答えなかった。
そもそも、質問の意味が分からないようだった。
湊は困ったように笑った。
「まあ、今すぐ答えなくてもいいよ」
そのとき、湊の携帯電話が鳴った。
防衛隊からの連絡だった。
『春日、今どこにいる?』
「自宅へ帰る途中ですが」
『今日の現場で確認された人型の対象について、追加情報が入った。明日、出動準備をしておいてくれ』
「分かりました」
通話を終えた湊は、再び道路の向こうを見た。
しかし、そこにはもう誰もいなかった。
自動販売機の下には、空になった容器だけが残されていた。
湊はしばらくその場所を見つめていた。
「……帰っちゃったか」
そう呟いて、帰路についた。
彼はまだ知らなかった。
自分が今日出会った存在が、人間の研究によって現代に再び現れた、かつて地球に存在していた生命種族の一員であることを。
そして、その生命体もまた、初めて出会った人間の言葉を、少しずつ理解し始めていた。




