第一章 最初の異常
午前六時四十分。
春日湊は、目覚まし時計が鳴る三秒前に目を覚ました。
「……あと五分くらい寝たかったな」
枕元に置いていた携帯電話を手に取り、時間を確認する。
六時四十分。
いつもと変わらない朝だった。
窓の外では、通勤する人々が駅へ向かい、道路には少しずつ車が増え始めている。遠くから聞こえる工事の音と、近所の店が開店準備をする物音。
特別なことなど何もない。
湊はベッドから起き上がると、洗面所で顔を洗い、簡単に朝食を済ませた。
今日も仕事がある。
それだけだった。
彼が所属しているのは、特殊緊急防衛隊と呼ばれる組織だった。
最近になって各地で発生し始めた正体不明の異常事件に対応するため、財閥系企業の資金援助と警察組織の協力によって設立された部隊である。
もっとも、湊自身はその組織の特殊性をあまり意識していなかった。
採用試験を受け、訓練を受け、配属された。
それだけのことだ。
特殊な能力を持っているわけでもなければ、特別な家系に生まれたわけでもない。
本人に言わせれば、少し人より好奇心が強いだけの普通の青年だった。
*
午前八時十五分。
防衛隊の施設に到着すると、湊は入口で同僚の隊員と顔を合わせた。
「おはようございます!」
「おう。今日は早いな」
「いや、いつもと同じですよ」
「それを早いって言ってるんだよ」
そんな会話を交わしながら、二人は更衣室へ向かった。
制服に着替え、装備を確認する。
通信機器、携帯型ライト、防護手袋、応急処置用具。
そして、通常の警察部隊でも使用される装備品。
特殊生命体に関する事件が増えているとはいえ、現場に出る隊員が最初から特別な武器を持たされているわけではなかった。
現時点では、未知の対象に対する基本的な対応方法すら確立されていない。
それが現在の防衛隊の実情だった。
「春日、今日の現場は聞いたか?」
「まだです」
「市街地の外れだ。昨日から山の近くで妙な反応が出ているらしい」
「妙な反応?」
「詳しいことは知らん。監視カメラにも何か映っていたらしい」
「動物とかじゃないんですか?」
「それが分からないから俺たちが行くんだろ」
隊員は苦笑した。
湊も笑いながら装備を肩に掛ける。
「まあ、行けば分かりますよ」
「お前はいつも気楽だな」
「分からないことを考えても仕方ないですからね」
そう言って、湊は出動車両へ向かった。
*
午前九時二十分。
現場は市街地から少し離れた山林だった。
周辺には住宅が数軒あり、近くには小さな農道も通っている。
すでに警察車両が到着しており、周辺住民への聞き取りと立ち入り規制が始まっていた。
「こちら防衛隊第一班。現場に到着しました」
『了解。警察からの情報では、今朝六時頃から山林付近で複数回の異常反応が確認されている。現在、対象の位置は不明だ』
「了解しました」
湊は通信を切り、周囲を見渡した。
特別な痕跡は見当たらない。
ただ、現場付近の地面には、何かが通過したような跡が残っていた。
「これ、何でしょうね」
しゃがみ込んで地面を確認する。
土が大きくえぐれている。
動物の足跡にしては不自然だった。
「重量物が通った跡か?」
「でも、車両が入れる場所じゃないですよ」
隊員たちが周囲を確認していると、少し離れた場所から警察官の声が聞こえた。
「おい! こちらに来てくれ!」
全員が声の方向へ向かう。
そこには、一本の大木が倒れていた。
幹の中央部分が不自然に折れている。
しかし、倒木の周囲には衝突したような跡がない。
「自然に倒れたものではなさそうだな」
隊員の一人が呟いた。
そのときだった。
森の奥から、乾いた音が響いた。
バキッ。
全員が動きを止める。
続いて、もう一度。
バキッ。
木の枝が折れる音だった。
「対象を確認した。全員、警戒態勢!」
隊長の指示に従い、隊員たちは武器を構えた。
湊も周囲を確認しながら、ゆっくりと森の奥へ視線を向ける。
木々の隙間に、何かがいた。
最初は大きな動物のように見えた。
しかし、次の瞬間、その姿が動いた。
四本の脚で地面を踏みしめているように見える一方、背中から伸びた複数の突起が周囲の木々に絡みついている。
体表は暗い色をしており、表面の一部が濡れた石のように光っていた。
「……何だ、あれ」
誰かが呟いた。
それは動物にも、植物にも見えなかった。
生物であることは分かる。
だが、人間が知っているどの生物とも一致しない。
「警告する! こちらは防衛隊だ! その場で動きを止めろ!」
隊長が拡声器を使って呼びかけた。
反応はない。
対象はしばらく動かなかった。
そして、ゆっくりと頭部らしき部分をこちらへ向けた。
次の瞬間。
地面が揺れた。
「伏せろ!」
対象が一気に距離を詰めてきた。
隊員たちは左右に散開する。
その巨体が通過した場所で、地面の土が大きく跳ね上がった。
「撃て!」
銃声が森に響く。
弾丸は対象の身体に当たった。
しかし、ほとんど効果がない。
対象は一度だけ身体を揺らし、再び前進を始めた。
「効いていないのか!?」
「距離を取れ! 住民側に行かせるな!」
隊長の声が飛ぶ。
湊は倒れた隊員のもとへ走った。
「大丈夫ですか!」
「脚をやられた……」
「今、移動させます!」
隊員の腕を肩に回し、後方へ運ぶ。
その途中、湊は森の中に別の影を見つけた。
最初の対象よりも小さい。
木の根元に身を隠し、こちらの様子を見ている。
湊は足を止めた。
その影には、明らかに顔に相当する部分があった。
そして、その目がこちらを見ていた。
敵意があるのかどうかは分からない。
ただ、逃げようとしているようにも見えなかった。
「おい、春日! 何をしている!」
隊員の声で我に返る。
「すみません!」
湊は負傷者を連れて後退した。
*
それから約二十分後。
対象は森の奥へ移動し、警察と防衛隊による追跡が始まった。
しかし、途中で痕跡が途絶えた。
地面には大きな足跡が残っている。
ところが、その先には何もなかった。
「消えた……?」
隊員が周囲を確認する。
木々の間にも、地面にも、対象の姿はない。
「上か?」
誰かが空を見上げた。
だが、そこにも何も見当たらない。
通信機から本部の声が聞こえた。
『対象の反応が消失した。各班、警戒を維持しながら撤収準備に入れ』
「了解」
湊は息を吐いた。
負傷者は救急車で搬送されることになった。
幸い、命に別状はないという。
しかし、あの生物が何だったのかは分からないままだった。
「なあ、春日」
「はい?」
「さっき森の中で何か見たか?」
「ええ。もう一体いたような気がします」
「もう一体?」
「小さいやつです。木の陰からこっちを見ていました」
「本部には報告したのか?」
「これからです」
湊は記録用端末を取り出した。
そのとき、森の奥で何かが動いた。
全員が振り返る。
そこには、何もいなかった。
ただ、倒れた木の根元に、小さな黒い塊が落ちていた。
湊はそれを見つめた。
「……何だろう」
近づこうとしたところで、隊長に止められた。
「触るな。回収班に任せろ」
「分かりました」
湊は一歩下がった。
その黒い塊は、まるで生きているかのように、わずかに動いたように見えた。
*
同じ日の午後。
市街地から離れた場所にある研究施設。
一般には公開されていない地下区画で、一人の研究員がモニターを見つめていた。
画面には、今朝の山林で撮影された映像が映し出されている。
対象の姿。
防衛隊の行動。
そして、現場に残された黒い物質。
研究員は映像を何度も確認した。
「……間違いない」
隣に立っていた職員が尋ねる。
「何がですか?」
「活動反応が確認された。しかも、想定していた場所とは違う」
「では、ほかの個体も?」
「まだ分からない。だが、これで計画を見直す必要が出てきた」
研究員は別の画面を開いた。
そこには、複数の識別番号が並んでいた。
01。
02。
03。
04。
その下にも、番号が続いている。
そして、一番上には他とは異なる表示があった。
00 ―― ZERO
研究員はその表示をしばらく見つめた。
「十年か……」
小さく呟く。
「本当に、目を覚まし始めたんだな」
施設の奥では、複数の生命維持装置が稼働していた。
そのうちの一つだけが、わずかに数値を変化させていた。
しかし、まだ誰もその変化には気づいていなかった。
*
その頃。
別の研究施設では、一人の女性が古い資料を机の上に広げていた。
久世灯里。
彼女は十年前に亡くなった父親の研究記録を調べていた。
何度も閲覧を申請してきた資料だったが、その大部分はいまだに公開されていない。
それでも、断片的に残された記録から、彼女は少しずつ父親の研究内容を理解し始めていた。
生命活動の再現。
細胞構造の再構築。
意識情報の保存。
そして、通常の生物学では説明できない特殊な進化反応。
「お父さんは……何を研究していたの?」
灯里は古い写真を手に取った。
写真には、研究施設の前で複数の研究員が並んでいる姿が写っていた。
その中に父親の姿もある。
裏側には、日付と短い文字が記されていた。
十年前。
彼女の父親が亡くなる少し前の日付だった。
灯里は写真を机に戻し、次の資料を開いた。
そこには、一つの番号が記載されていた。
00
その横には、父親の筆跡と思われる短い文章が残されていた。
――この個体には、まだ未来がある。
灯里はその文章を見つめた。
「零号……?」
その名前を口にした瞬間、彼女は初めて、父親の死と現在の異常事件が無関係ではない可能性を考えた。
十年前に何が起きたのか。
父親は何を守ろうとしていたのか。
そして、この番号を与えられた生命は、今どこにいるのか。
答えはまだ何も分からない。
ただ、彼女の手元にある資料には、もう一つの記録が残されていた。
特殊生命体登録数:100
灯里はその数字を見つめ続けた。
人類が知らない生命が、かつてこの地球に存在していた。
そして今、その生命が再び動き始めている。
十年間止まっていた何かが、少しずつ動き始めていた。




