第二十五章 残された選択
防衛隊の会議室に、数枚の現場写真が並べられていた。
写真に写っているのは、郊外の研究施設跡地だった。
建物自体は十年以上前に閉鎖されており、現在は管理会社によって敷地が管理されている。
「昨日の夜、管理会社から通報があった。敷地内の設備が破損しているらしい」
隊長が説明を始めた。
「侵入者ですか?」
「最初はそう考えられていた。だが、監視映像には人間らしい姿が映っていない」
画面が切り替わる。
暗い建物の内部に、何かが動いていた。
人間のような輪郭にも見えるが、身体の境界がはっきりしない。
その影が通り過ぎた後、壁面の一部に黒い跡が残っていた。
「特殊生命体の可能性がありますか?」
「可能性はある。ただし、映像だけでは判断できない」
隊長は写真を指した。
「今回の目的は、施設内の安全確認と、対象が残っている場合の位置確認だ。無理に接触する必要はない」
「了解しました」
湊たちは装備を確認し、現場へ向かった。
*
研究施設跡地は、周囲を高いフェンスで囲まれていた。
入口の鍵は管理会社によって開けられ、建物の電源は一部だけ復旧している。
「この施設では何を研究していたんですか?」
湊が管理会社の担当者に尋ねた。
「詳しいことは知りません。以前は民間の研究機関が使用していたと聞いています。閉鎖されてからは、ほとんど人が入っていません」
「研究内容の資料は?」
「管理会社にはありません」
隊長が周囲を確認する。
「まず建物の外周を調べる。内部に入るのは、その後だ」
隊員たちは二手に分かれた。
湊は建物の裏側へ回る。
窓の一部が割れていた。
その周囲には、ガラスの破片が散らばっている。
ただし、破損した時期は分からない。
「こちら、窓に破損があります」
無線で報告する。
『了解。内部に人影はあるか?』
「今のところ確認できません」
湊は割れた窓から内部を覗いた。
廊下の奥に、何かが立っている。
人間ほどの高さ。
しかし、身体の輪郭が不自然に揺れていた。
「……誰かいますか?」
湊が声をかける。
影は動かなかった。
もう一度呼びかけようとしたとき、影の一部が壁に触れた。
黒い跡が広がる。
次の瞬間、跡はゆっくりと消えていった。
湊は無線を手に取った。
「建物内部に人型の影を確認。壁面に接触した後、表面に変化が発生しました」
『距離を保て。ほかの隊員が合流するまで待機しろ』
「了解」
湊は窓から離れた。
影はまだ廊下に立っていた。
こちらを見ているのかどうかも分からない。
やがて、影は廊下の奥へ移動した。
その姿が見えなくなると、建物の内部から小さな音が聞こえた。
何かが落ちたような音だった。
*
隊長たちが合流し、建物内部の確認が始まった。
入口から慎重に進む。
廊下には古い机や棚が残されていた。
壁には、以前取り付けられていた機器の跡がある。
「ここも変化しています」
隊員が壁を指した。
表面に黒い線が残っていた。
湊は近づきすぎないように注意しながら確認する。
「さっき見たものと同じでしょうか」
「まだ分からない。記録を取れ」
別の部屋では、床に置かれていた金属製の箱が横倒しになっていた。
中身は空だった。
隊員たちは周囲を調べたが、箱が倒れた原因は見つからなかった。
「対象はどこへ行ったんでしょう」
「外へ出た可能性もある。無理に奥へ進む必要はない」
隊長はそう言った。
そのとき、廊下の先で再び影が現れた。
今度は少しだけ輪郭がはっきりしている。
頭部らしき部分がこちらを向いた。
隊員たちが一斉に警戒する。
しかし、影は近づいてこなかった。
壁に手を伸ばす。
黒い線が生まれ、壁面がわずかに歪んだ。
それから、影は手を離した。
変化は数秒後に消えた。
「何をしているんだ……」
隊員の一人が呟く。
湊は影を見ていた。
攻撃しているようには見えない。
だが、危険がないとも言えない。
「こちらの存在を認識しているんでしょうか」
「分からない。刺激するな」
隊長の指示があった。
影はしばらくその場にとどまっていたが、やがて壁の向こうへ消えるように見えなくなった。
隊員たちは追わなかった。
建物の安全性にも不安がある。
全員が外へ出た後、施設内部の追加調査は管理会社と協議して行うことになった。
*
防衛隊の分析室では、撮影した映像の確認が進められていた。
「対象の輪郭が不安定です。通常の人型個体とは異なる可能性があります」
「壁面の変化は?」
「局所的な表面変化が確認されています。ただし、構造そのものが変化したのか、表面に何らかの物質が付着したのかは分かりません」
「対象が消えたように見える場面は?」
「映像上では確認できません。廊下の奥へ移動したのか、撮影範囲から外れただけなのか、判断できない状態です」
隊長は報告書を閉じた。
「現時点で分かることは少ないな」
「はい」
「ただし、施設内に危険が残っている可能性はある。管理会社には立ち入り制限を続けてもらおう」
湊は映像を見直した。
影は、こちらに向かってこなかった。
それでも、何をしていたのかは分からない。
分からないことを、危険ではないという理由にはできない。
同時に、危険だと決めつける根拠にもならなかった。
*
その夜、灯里は父親の旧資料を整理していた。
研究施設の名前を検索していると、古い施設一覧の中に、今回防衛隊が調査した建物の名称があった。
灯里は画面を拡大した。
そこには、十年以上前の研究施設として登録された記録が残っている。
しかし、研究内容の詳細は記載されていない。
「この施設も……」
灯里は父親の資料を開いた。
関連する研究記録があるか確認する。
いくつかの資料には、同じ施設番号が記されていた。
ただし、肝心の実験内容は削除されている。
灯里は別の記録を開いた。
そこには、父親が残した短い文章があった。
『観察する側が理解できない反応を、異常として処理してはならない』
灯里はその文章を読み返した。
父親が何を見て、何を問題にしていたのか。
今の彼女には、まだ分からない。
ただ、十年前の研究が現在の異常とつながっている可能性は、以前より高くなっていた。
灯里は施設番号を記録し、別の資料との照合を始めた。
*
財閥系研究施設。
防衛隊が調査した研究施設跡地の映像が、別の端末にも表示されていた。
「この施設番号は、旧研究区画のものですね」
「そうだ」
「現在の管理記録には、研究内容が残っていません」
「残っていないのではない。閲覧できないようにされている」
責任者は画面を閉じた。
「防衛隊には、施設の詳細を伝えないのですか?」
「現段階では必要ない」
「しかし、今回の個体が旧研究区画と関係しているなら――」
「関係しているかどうかも、まだ確定していない」
責任者は淡々と答えた。
「現場の記録を回収し、対象の反応を分析する。それだけでいい」
研究員はそれ以上尋ねなかった。
施設の記録には、現在の研究部門が管理していない情報も含まれている。
その中に何が残されているのか。
研究員自身も知らなかった。
*
深夜。
森から離れた山間部で、一つの人影が古い建物の前に立っていた。
建物は長く使われていないようだった。
人影は壁に手を伸ばす。
指先が触れた部分に、わずかな変化が生じた。
しかし、すぐに元へ戻る。
人影は手を離した。
建物の中へ入ることもなく、しばらくその場に立っていた。
やがて、ゆっくりと振り返る。
遠くに街の明かりが見える。
人影はそちらを見つめた後、暗い林の中へ歩いていった。
その場所に何を求めていたのか。
そして、なぜ古い建物に触れたのか。
まだ誰にも分からなかった。




