第二十一章 届かない距離
特殊緊急防衛隊の本部に、早朝から複数の報告が集まっていた。
ここ数日、各地で特殊生命体の目撃情報が続いている。
山間部、工業地帯、河川敷、住宅地。
場所も行動も異なっていた。
その一方で、直接的な被害が確認されない事例も増えている。
「今回の報告を整理すると、対象の行動はかなりばらばらですね」
隊員の一人が資料を表示した。
「人間から離れる個体もいれば、自分から接触してくる個体もいる。攻撃する個体も確認されている」
隊長がうなずく。
「現段階で、すべての個体を同じ基準で扱うことはできない。ただし、現場での安全確保は徹底する」
湊は資料を見ていた。
以前、森で会った小さな人型の個体。
金属を集めている長い腕の個体。
水の中を移動する個体。
壁を登り、人間を観察している個体。
それぞれ、違うものを見ているように思えた。
「春日」
「はい?」
「お前が以前接触した個体について、追加の報告はないか?」
「今のところありません。森で会った個体も、最近は見ていません」
「分かった。新しい情報があればすぐに報告しろ」
「はい」
*
その日の午後、湊たちは市街地から離れた公園へ向かった。
公園の遊歩道付近で、人影の目撃情報があったためだ。
警察によると、目撃者は人影が木々の間を移動しているのを見たという。
湊は周囲を確認しながら歩いていた。
そのとき、木の枝の上に小さな影が見えた。
人間の子供くらいの大きさだった。
湊は足を止める。
「……あ」
影もこちらを見ていた。
森で初めて会った個体だった。
「久しぶり」
湊が声を掛ける。
個体は枝から降り、少し離れた場所に立った。
「春日湊」
「そう。覚えていてくれたんだね」
「覚えている」
「元気だった?」
「元気?」
「体に問題がないか、という意味だよ」
個体は自分の身体を見た。
「問題はない」
「それならよかった」
湊は周囲を確認した。
隊員たちは少し離れた場所で警戒している。
「今日は何をしているの?」
「見ている」
「また人間を?」
「違う」
個体は公園の奥を指した。
そこには、子供たちが遊んでいる場所があった。
「動くもの」
「子供たち?」
「そう」
湊はそちらを見た。
子供たちはボールを追いかけたり、遊具の周りを走ったりしている。
「何をしているのか分からない?」
「分からない」
「遊んでいるんだよ」
「遊ぶ」
「そう。楽しいからやっているんだと思う」
個体はしばらく子供たちを見ていた。
「生きるため?」
「それだけじゃないよ」
湊は笑った。
「前にも話しただろう。人間は、生きるために必要なこと以外にも、やりたいことがあるんだ」
「必要ではないことをする?」
「そうだね。必要ではないけど、やりたいことだからする」
個体は子供たちの方へ視線を戻した。
「なぜ?」
「楽しいからかな」
「楽しい」
「うん」
個体はその言葉を繰り返した。
*
しばらくして、子供の一人がボールを遠くへ飛ばした。
ボールは遊具の脇を通り、公園の端へ転がっていった。
近くにいた子供が追いかける。
しかし、ボールは植え込みの奥へ入り込んでしまった。
「取れない!」
子供が声を上げる。
湊はそちらへ歩き出そうとした。
その前に、森の個体が動いた。
植え込みの前に立ち、手を伸ばす。
枝の隙間からボールを取り出した。
子供は驚いて後ずさる。
個体はボールを見つめた。
「それ、返してあげて」
湊が言う。
個体は子供の方を見た。
「これ?」
「そう。あの子が使っていたものだよ」
個体はボールを差し出した。
子供は少し警戒しながらも、ボールを受け取った。
「ありがとう」
子供はそう言って、友達のところへ戻っていった。
個体はその後ろ姿を見ていた。
「今のは?」
「ボールを返してあげたんだよ」
「なぜ?」
「その子が困っていたから」
「困る」
「自分だけではできないことがあって、どうすればいいか分からなくなることだよ」
個体は子供たちを見つめた。
「人間は、助ける?」
「うん。助けることもある」
「なぜ?」
「理由は人によって違うと思う。困っている人を放っておけない人もいるし、助けてもらったことがあるから助ける人もいる」
「助ける必要がある?」
「必ずしもそうじゃないよ。でも、助けたいと思う人がいるんだ」
個体は湊を見た。
「お前も?」
「うん。俺もそういうことがある」
「なぜ?」
「困っている人を見て、何もしないまま離れるのが嫌だからかな」
個体はしばらく考えていた。
「分からない」
「すぐに分からなくてもいいよ」
*
そのとき、隊員から無線が入った。
『隊長、周辺の確認が終了しました。新たな異常はありません』
「了解した。こちらも対象との接触を終了する」
湊は個体へ向き直った。
「俺たちはそろそろ行くよ」
「行く」
「うん。仕事だからね」
「仕事」
「人間が生活するためにすることの一つだよ」
個体は湊を見た。
「また会う?」
湊は少し驚いた。
以前、自分が言った言葉だった。
「そうだね。また会うかもしれない」
「約束?」
湊は少し考えた。
「必ず会えるとは言えないけど、また会えたら話そう」
個体はその言葉を聞いて、ゆっくりとうなずいた。
「分かった」
湊は隊員たちの方へ戻った。
個体は追いかけなかった。
ただ、その場に立って湊の背中を見ていた。
*
防衛隊本部へ戻った湊は、今回の接触について報告した。
「対象は以前と同じ個体だと思います」
「根拠は?」
「外見と、こちらの名前を覚えていたことです。それに、以前話した内容も覚えているようでした」
「人間の行動に関心を持っているのか」
「はい。ただ、何に関心があるのかは、まだ分かりません」
隊長は報告書に目を通した。
「接触時に危険な行動は?」
「ありませんでした。子供が落としたボールを拾って返していました」
「そうか」
隊長は少し考えた。
「それも記録しておけ。攻撃がなかったというだけでなく、具体的にどんな行動を取ったのかが重要だ」
「分かりました」
*
夜。
久世灯里は、今回の報告を読んでいた。
森で確認された個体は、人間との接触を繰り返している。
以前より言葉を理解し、湊の名前も覚えている。
そして今回は、子供が落としたボールを拾って返したという。
灯里は記録を閉じた。
その行動を、人間に近づいた証拠と判断することはできない。
ただ、個体が自分で状況を見て、行動を選んだことは確かだった。
彼女は父親の資料を開いた。
古い記録の一つに、短い文章があった。
――他者との関係は、能力によって決まるものではない。
灯里はその文章を読み返した。
個体が人間と関わる理由は、まだ分からない。
人間と同じ感情を持っているのかも分からない。
それでも、彼らがそれぞれの意思で行動していることだけは、少しずつ明らかになっていた。
*
公園から離れた場所。
森の個体は、木の枝に座っていた。
遠くから子供たちの声が聞こえる。
さっき、ボールを返した。
子供は礼を言った。
湊は、それを助けたと言った。
「助ける……」
個体は小さくつぶやいた。
なぜ、自分はボールを返したのか。
言われたからなのか。
子供が困っていたからなのか。
自分でも、まだ分からなかった。
ただ、あの子供がボールを受け取ったあと、再び友達のところへ戻っていったことは覚えていた。
個体はしばらくその場所を眺めていた。
そして、木の枝から降りると、森の奥へ歩き出した。




