第二十章 目覚める場所
午前四時十二分。
山間部にある古いトンネルの監視カメラが、異常な映像を記録した。
トンネルの壁面に、複数の影が映っていた。
しかし、撮影された映像を確認しても、そこに実際の生物がいたのかは分からなかった。
影は一度消え、数分後に別の場所へ現れた。
その後、監視カメラの映像は正常に戻った。
通報を受けた警察は、設備の故障を疑った。
だが、同じ時間帯に周辺の道路でも複数の目撃情報が寄せられていた。
特殊緊急防衛隊に出動要請が入ったのは、朝になってからだった。
*
「トンネル内部の映像が不自然ですね」
車内で湊が報告資料を確認していた。
「ああ。映像の乱れなのか、何らかの現象なのかは分からない」
隊長は地図を表示した。
「トンネルは現在通行止めだ。警察が入口を管理している。内部の安全を確認する」
「対象が中にいる可能性は?」
「否定できない。暗所での行動を想定して準備しろ」
湊は装備を確認した。
先日の出動で使用した新型装備は、今回は持ち込まれていない。
まだ試験段階であり、すべての任務に使用できるものではなかった。
*
トンネルの入口には、警察車両が停まっていた。
周辺に人影はない。
隊員たちは照明器具を準備し、内部へ進んだ。
トンネルの壁には、古い補修跡がいくつも残っている。
床には水が溜まり、天井からは時折、雫が落ちていた。
「異常はありません」
先頭の隊員が報告する。
湊はライトを壁面に向けた。
そのとき、光の端に何かが映った。
「待ってください」
全員が足を止める。
「どうした?」
「壁に何かあります」
湊は光を戻した。
そこには、人間の手のような形をした跡が残っていた。
ただし、表面が削られた様子はない。
壁の一部が、周囲とは異なる形に変化しているように見えた。
「以前の商業施設で確認された現象と似ています」
隊員が記録を取る。
「同じ個体か?」
「分かりません」
湊は壁に近づきすぎないよう注意しながら、跡を観察した。
すると、トンネルの奥から小さな音が聞こえた。
金属が床を擦るような音だった。
「奥に何かいます」
隊長が手を上げた。
「全員、警戒」
照明を前方へ向ける。
暗闇の中に、細長い影が立っていた。
人間に近い形をしている。
だが、身体の輪郭が一定ではない。
影は壁に手を触れていた。
「特殊生命体か……」
隊員が小さくつぶやく。
湊は一歩前へ出た。
「こんにちは!」
影がこちらを向いた。
顔の部分には、目や口のような形が確認できない。
「ここにいたの?」
湊が尋ねる。
影は答えなかった。
壁に触れていた手を離す。
すると、変化していた壁面がゆっくり元の形へ戻った。
「何をしていたんだ?」
隊長が声を掛ける。
影はトンネルの奥を見た。
その直後、足元の水が揺れた。
「下がれ!」
隊長の声と同時に、トンネルの床がわずかに振動した。
天井から砂粒が落ちてくる。
湊は頭上を確認した。
トンネルの一部に、細い亀裂が走っている。
「構造に異常が発生しています!」
「全員、入口まで後退!」
隊員たちはすぐに移動を開始した。
湊は最後尾から影を確認する。
個体は攻撃していない。
しかし、壁面の変化が振動と関係しているのか、それとも別の原因なのかは分からなかった。
そのとき、個体の身体がわずかに揺れた。
次の瞬間、姿が見えなくなった。
「対象を見失いました!」
「追うな! まず全員を外へ出す!」
湊たちはトンネルの外へ退避した。
*
入口の外で、隊長は人数を確認した。
全員が無事だった。
警察に連絡し、トンネルの構造確認を依頼する。
「今回の振動は、対象が起こしたものなのでしょうか」
湊が尋ねた。
「まだ分からない。壁面の変化が確認されたことと、振動が発生したことは記録しておけ」
「はい」
「原因が分からない以上、対象が意図的に危険を起こしたとも、無関係だったとも言えない」
湊はトンネルを振り返った。
あの個体は、何をしていたのだろう。
壁に触れていた理由も、姿を消した理由も分からない。
ただ、今回の現象によってトンネルの安全が確認できなくなったことは事実だった。
*
午後。
財閥の研究施設に、トンネル内部の映像が送られてきた。
「壁面の変化が確認されています」
「以前の個体と同じ能力か?」
「可能性はあります。ただ、映像だけでは断定できません」
「振動との関係は?」
「不明です。構造物の劣化によるものか、対象の能力によるものか、調査が必要です」
責任者は映像を何度か再生した。
「今回の個体も、これまでの個体と同じように人間の形を取っているのか」
「現時点では、そう見えます」
「行動の目的は?」
「分かりません」
責任者は画面を閉じた。
「引き続き情報を集めろ。確認できていないことを、確認済みの事実として扱うな」
*
久世灯里は、トンネルの映像を見ながら、十年前の資料を調べていた。
今回の個体に関する情報は少ない。
しかし、壁面の変化については、過去の研究記録に似た記述があった。
灯里は資料を読み進めた。
そこには、個体の身体と周囲の環境との関係についての記録が残されていた。
――周囲の環境に適応する変化は、必ずしも生存競争や攻撃のために生じるものではない。
灯里はその一文に目を留めた。
「環境に適応する……」
今回の個体が何を求めているのかは分からない。
トンネルの壁を変化させた理由も不明だ。
ただ、父親の記録には、個体の行動を能力の用途だけで判断しないようにという考えが繰り返し残されていた。
灯里は別の資料を開いた。
十年前の実験記録。
その中に、番号00に関する記録があった。
しかし、重要な部分は黒く塗りつぶされている。
閲覧できるのは、断片的な文章だけだった。
――他個体への影響。
――活動状態の変化。
――長期的な観察が必要。
灯里は画面を見つめた。
なぜ父親は、この個体について何度も記録を残していたのか。
そして、なぜその記録は今も封じられているのか。
*
深夜。
人のいないトンネルの奥で、壁面の一部がわずかに動いた。
そこには、先ほどの個体がいた。
身体の輪郭は暗闇に溶け込むように曖昧だった。
個体は壁に手を触れた。
表面が変化する。
しばらくすると、手を離した。
変化はゆっくりと元に戻っていく。
個体はその様子を見つめていた。
やがて、トンネルの奥へ歩き始める。
その先に何があるのか。
何を探しているのか。
まだ、誰にも分からなかった。




