第十七章 選ばれた場所
郊外の住宅地で、建物の一部が破損する事故が発生した。
最初の通報では、車両が建物に衝突した可能性が疑われていた。
しかし、現場に到着した警察官が確認したところ、道路にも建物の周辺にも衝突した車両は見つからなかった。
破損したのは、住宅の外壁だった。
壁の一部が内側へ押し込まれたようにへこんでいる。
周辺には、細かな破片が散らばっていた。
「特殊生命体による被害の可能性がある、ということですね」
防衛隊の車両の中で、湊が確認した。
「あくまで可能性だ。現時点では原因不明の物損事故として扱われている」
隊長は現場の写真を表示した。
「住民にけが人はいない。ただし、近隣で似たような目撃情報が複数ある」
「個体が近くにいる可能性も?」
「ある。周辺を確認するぞ」
*
現場周辺は住宅が密集していた。
防衛隊は警察と連携し、建物の外側と路地を確認した。
湊は破損した壁の前で足を止めた。
壁の表面には、円形に近いくぼみが残っている。
以前の商業施設で見つかったものと似ていた。
「これ、前にもありましたよね」
湊が隊員に尋ねた。
「似ているな。ただ、同じ原因とは限らない」
「壁の内側から壊れたようにも見えます」
「そうだな。周辺の構造も確認しておこう」
隊員が建物の所有者から話を聞いている間、湊は路地の奥を確認した。
すると、向かい側の建物の屋根に人影があった。
身体を低くして、こちらを見ている。
以前、住宅地の屋根や壁を移動していた個体に似ていた。
「隊長、屋根の上にいます」
隊長が視線を向ける。
人影は屋根の端に立ち上がった。
「対象を確認。刺激しないように接近する」
隊員たちが位置を変える。
湊は路地の中央に出た。
「こんにちは!」
人影は動かなかった。
「この前、壁を登っていた個体?」
返事はない。
湊は少し距離を残したまま続けた。
「ここで何をしているの?」
個体は屋根から壁へ移動した。
そのまま垂直な壁面に立っている。
「見ている」
「何を?」
「人間」
「人間を見ているの?」
「動いている」
以前と同じ言葉だった。
湊は周囲を見た。
警察官が住民に事情を聞いている。
隊員たちは破損した壁を調べている。
近くの住宅からは、住民がこちらの様子をうかがっていた。
「人間が動いているのを見るのが好きなの?」
「好き?」
個体は首を傾けた。
「そういう意味ではないのか」
「分からない」
「じゃあ、どうして見ているの?」
「違うから」
「何が?」
「同じ場所にいる。違うことをする」
湊は少し考えた。
「同じ場所に住んでいても、それぞれ違うことをするから?」
「そう」
個体は路地を見下ろした。
「ここにいる者は、なぜ離れない?」
「家があるからかな」
「家?」
「寝たり、食べたり、休んだりする場所だよ」
「ここでなければならない?」
「人によると思う。別の場所に住む人もいるし、今の場所が好きで住み続ける人もいる」
個体は壁に手を触れた。
「選ぶ?」
「うん。住む場所も、どこへ行くかも、自分で選ぶ人がいる」
そのとき、個体の手が壁の表面に沿って動いた。
壁の一部がわずかに変形する。
「待って」
湊が声を掛けた。
個体の手が止まる。
「それ、さっき壊れていた壁と関係がある?」
「分からない」
「君が触ったところも変わっている」
「戻る」
個体が手を離すと、変形していた部分はゆっくり元の形に戻った。
湊はその様子を見ていた。
以前の商業施設で確認された現象と似ている。
しかし、今回の破損まで同じ個体が起こしたものなのかは分からない。
「その壁は、人間の家の一部だから、勝手に変えない方がいいよ」
「人間のもの?」
「そう。ここで暮らしている人が使っている」
個体は壁から手を離した。
「分かった」
それ以上、壁に触れようとはしなかった。
*
「対象に攻撃的な行動は見られない」
隊長が無線で報告した。
しかし、周辺で発生した破損事故との関係は確認できていない。
「対象の移動経路を確認する。無理な捕獲は行わない」
その指示を聞いた湊は、再び壁の上を見た。
個体はまだそこにいた。
「君は、これからどこへ行くの?」
「分からない」
「行きたい場所は?」
「見る」
「また人間を?」
「そう」
「じゃあ、また会うかもしれないね」
個体は少しだけ首を傾けた。
「また?」
「前にも会っただろう?」
「会った」
「だから、また会うかもしれない」
個体は湊を見たまま、しばらく動かなかった。
やがて壁を移動し、建物の裏側へ消えていった。
「追跡しますか?」
隊員が尋ねる。
「いや。周辺の安全確認を優先する」
隊長の指示に従い、隊員たちは現場の調査を続けた。
破損した壁の原因は、結局その場では特定できなかった。
*
その日の夕方。
財閥の研究施設では、現場から送られてきた映像が分析されていた。
「壁面の変形が確認できます」
「対象が触れた部分だけか?」
「はい。接触部分の構造が一時的に変化しています。ただし、材質そのものが変わったのか、外部から力を加えて変形させたのかは判断できません」
「元に戻るまでの時間は?」
「数秒です」
研究員は映像を繰り返し再生した。
「能力の応用範囲は広いかもしれません」
「まだ能力の全容は分からない。現段階で用途を決めるな」
責任者は別の資料を開いた。
そこには、これまで確認された個体の能力と行動が並んでいた。
金属を動かす個体。
身体の一部を硬化させる個体。
水中で活動する個体。
そして、壁面の構造を変化させる個体。
それぞれ異なる特徴を持っている。
「共通する仕組みがあるのか、それとも個体ごとに異なるのか」
研究員は答えなかった。
まだ、判断できるだけの情報がない。
*
夜。
久世灯里は、現場から送られた映像を確認していた。
画面には、壁に手を触れる人影が映っている。
彼女は父親の古い資料を取り出した。
過去の研究記録には、身体の一部を周囲の環境に適応させる個体についての記述があった。
ただし、今回の現象と直接結びつけることはできない。
灯里は映像を停止した。
「何のために、壁を変えたの……?」
個体は湊に対して「見ている」と答えていた。
人間の行動を観察することと、壁に触れること。
その二つが同じ目的から生じたのかどうかも分からない。
彼女は映像の記録を保存した。
父親の資料だけでは、今目の前にいる個体の意思までは分からない。
そのことを、灯里は少しずつ理解し始めていた。
*
同じ夜。
住宅地から離れた場所で、壁面を移動する個体は建物の外側に立っていた。
遠くから人間の声が聞こえる。
何人かが集まり、何かを話している。
個体はその様子を眺めた。
人間は同じ場所に集まる。
しかし、全員が同じことを考えているわけではない。
それぞれが違う方向を見ている。
個体は壁に手を触れた。
表面がわずかに変化する。
手を離すと、元の形に戻った。
その動きをしばらく繰り返したあと、個体は再び人間のいる方向を見た。
まだ、見ていないものがある。
そう考えたように、個体は建物の上へ移動していった。




