第十二章 名前のない約束
特殊緊急防衛隊の施設では、ここ数日の目撃情報がまとめられていた。
山林、工業地域、住宅地、商業施設。
発見された個体の姿や行動には共通点もあるが、同一個体だと判断できるものは少なかった。
「現時点で確認できている個体数は?」
隊長が資料をめくりながら尋ねた。
「映像や現場の記録から、少なくとも複数いることは間違いありません。ただ、同じ個体が別の場所に現れている可能性もあります」
「個体の識別方法はまだないのか」
「外見だけでは難しいですね。身体の特徴も変化する可能性があります」
技術担当者は別の資料を開いた。
「研究部門では、採取した組織や現場に残された物質から個体を識別できないか調べています。ただし、現段階では確実な方法はありません」
「分かった。現場では個体ごとの特徴を記録しておけ。確定できない情報は、確定したように扱うな」
隊長はそう指示した。
湊は資料に目を落とした。
自分がこれまでに出会った個体も、まだ名前が分からないものばかりだった。
同じ姿をしているように見えても、別の個体かもしれない。
反対に、身体の形が変わっていても、以前会った相手かもしれない。
今の自分たちには、それを確かめる方法がなかった。
*
その日の午後、湊は住宅地に近い公園の周辺を巡回していた。
以前、森で出会った小型の人型個体と再会した場所だった。
公園には子供たちの声が響いている。
湊は遊具の近くを確認しながら歩いていた。
すると、公園の端にある自動販売機の前に、小さな人影が立っていた。
見覚えのある姿だった。
「こんにちは」
湊が声を掛ける。
個体は振り返った。
「春日湊」
「覚えてくれていたんだ」
「覚えている」
個体は自動販売機を見た。
以前と同じように、飲み物を選んでいる。
「また飲み物を買うの?」
「水」
「水が欲しいんだね」
「喉が渇く」
個体は以前よりも自然な動作で飲み物を選んだ。
硬貨を入れ、ボタンを押す。
商品が落ちてくると、それを取り出した。
湊は少し笑った。
「もう買い方は覚えたね」
「覚えた」
「人間の生活にも慣れてきた?」
個体は少し考えた。
「慣れる?」
「最初に会ったときは、飲み物の使い方も分からなかったでしょう」
「今は分かる」
「それなら、少しは慣れたのかもしれないね」
個体は容器の蓋を開け、水を飲んだ。
その様子を見ていた湊は、ふと気になっていたことを尋ねた。
「そういえば、君は名前を持っていないの?」
「名前?」
「俺のことは春日湊って呼んでいるでしょう。人間には、それぞれ名前があるんだ」
「名前がなければ、呼べない?」
「呼ぶことはできるよ。でも、名前があると相手を区別しやすい」
個体は自分の身体を見下ろした。
「私は?」
「まだ決まっていないの?」
「分からない」
「自分で決めてもいいと思うよ」
個体は答えなかった。
しばらく飲み物を手にしたまま、考えているようだった。
「名前は、誰かが決めるもの?」
「誰かが付けてくれることもあるし、自分で決める人もいるよ」
「春日湊は?」
「俺は生まれたときに家族が付けてくれた」
「自分で選んでいない?」
「そうだね。でも、今は自分の名前として使っているよ」
個体はその言葉を聞き、もう一度湊を見た。
「自分で選んだものではなくても、自分のものになる?」
「うん。そういうこともあると思う」
個体は少しだけ視線を下げた。
そのとき、公園の向こうから子供たちが走ってきた。
一人が遊具の近くで転び、手を地面についた。
「痛い!」
近くにいた友達が足を止める。
湊もそちらへ目を向けた。
転んだ子供は手のひらを押さえていたが、大きな怪我ではなさそうだった。
保護者らしい女性が駆け寄り、子供の手を確認する。
個体はその様子をじっと見ていた。
「人間は、よく転ぶ?」
「子供は特にね」
「痛いのに、また走る?」
「怪我がひどくなければ、また遊ぶんじゃないかな」
「なぜ?」
「楽しいからじゃない?」
個体は子供たちを見つめた。
転んだ子供は母親に手を拭いてもらい、少しすると友達のところへ戻っていった。
個体はその様子をしばらく見ていた。
「楽しい、というのは何?」
「うまく説明するのは難しいな。何かをしていて、またやりたいと思ったり、続けたいと思ったりすることかな」
「それは、生きるために必要?」
「必ずしもそうじゃないと思うよ」
個体は考え込んだ。
そのとき、湊の無線が鳴った。
『春日、巡回状況を報告しろ』
「こちら春日。現在、公園周辺を確認中です。異常はありません」
『了解。次の地点へ移動してくれ』
「分かりました」
湊は無線を戻した。
「ごめん。仕事に戻らないと」
「行くの?」
「うん。また会うかもしれないね」
個体は湊を見た。
「春日湊」
「何?」
「また会う?」
「会うこともあると思うよ」
湊は笑って答えた。
「そのときは、また話そう」
個体はしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「分かった」
湊が歩き出す。
個体はその背中を見送った。
手に持った飲み物は、まだ半分ほど残っていた。
*
一方、久世灯里は父親の研究資料を確認するため、保管されていた記録媒体の閲覧申請を行っていた。
以前見つけた「種群全体の活動停止」に関する資料。
その周辺には、複数の記録番号が残されていた。
しかし、閲覧できるのは一部だけだった。
灯里は申請画面に表示された理由を確認する。
該当資料は十年前の事故に関連する機密記録として、現在も閲覧制限が設けられている。
「まだ、ここから先は見られないのね」
彼女は画面を閉じた。
別の資料を開く。
そこには、父親が個体の観察を続けていた頃の記録が残っていた。
――個体が自分の意思で選んだ行動は、観察者にとって理解しにくい場合がある。
――理解できないことを理由に、選択そのものを否定してはならない。
灯里はその文章を読み、静かに息を吐いた。
父親は、何を守ろうとしていたのだろう。
彼女はまだ答えを知らない。
ただ、父親が残した資料を読み進めるほど、今の研究機関が彼らをどう扱っているのかという疑問が強くなっていた。
*
夜。
公園を離れた個体は、住宅地の外れにある高台へ移動していた。
街の明かりが見える。
昼間に出会った人間の言葉を思い返す。
名前。
自分で選ぶもの。
誰かから与えられるもの。
そして、楽しいという感覚。
個体はまだ、それらを理解できていなかった。
自分が何を求めているのかも分からない。
しかし、春日湊という人間と、また会うという言葉は覚えていた。
それが約束と呼ばれるものなのかどうかも、まだ知らなかった。




