第十章 選ばれなかった道
特殊緊急防衛隊の本部に、新たな出動要請が入ったのは午前十時過ぎだった。
場所は市街地から少し離れた住宅地。
住民から、夜間に道路脇で奇妙な生物を見たという通報が複数寄せられていた。
目撃されたのは、人間に近い姿をした個体だった。
ただし、通報内容には違いがあった。
ある住民は、道路の上を歩いていたと話した。
別の住民は、建物の壁に張り付いていたと証言した。
さらに一人は、近づいてきた個体が突然姿を消したと話していた。
「同じ対象とは限らないな」
隊長が報告を確認する。
「目撃された時間も場所も少しずつ違います」
「周辺の映像は?」
「現在、警察が確認しています。ただ、夜間の映像は鮮明ではありません」
隊長は地図を広げた。
「周辺住民の安全を優先する。対象を発見した場合も、先に行動を観察しろ。攻撃してくると判断できない限り、こちらから刺激するな」
「了解しました」
湊たちは装備を整え、現場へ向かった。
*
住宅地の道路は、昼間ということもあり、普段どおりの様子だった。
通学中の子供や買い物に出る住民が行き交っている。
防衛隊の車両を見て、不安そうに様子をうかがう人もいた。
「最近、この辺りでも目撃が増えているんですか?」
湊が近くの警察官に尋ねた。
「ここ数日はな。直接被害が出たわけじゃないが、夜に外へ出るのを控えている住民もいる」
「何か壊されたりは?」
「今のところ確認されていない」
湊は周囲を見回した。
道路沿いの建物には、特に異常は見られない。
ただ、電柱の近くに置かれたゴミ袋が破れていた。
「これは?」
「昨夜からあるらしい。中身が散らばっていたそうだ」
湊はしゃがみ込み、周囲を確認した。
袋の中には食べ物の容器が残っている。
動物が荒らした可能性もある。
「対象がやったと決まったわけじゃないですね」
「そうだ。だから、現場の確認を続ける」
そのとき、少し離れた場所から子供の声が聞こえた。
「あそこ!」
道路の向こう側を指さしている。
湊が顔を上げると、建物の屋上に人影があった。
人間の姿に近い。
しかし、その身体は周囲の建物の色に溶け込むように見えた。
「対象を確認!」
隊員が無線で報告する。
人影は屋上の端に立ち、こちらを見下ろしていた。
「動くな!」
警察官が声を上げる。
対象は少しだけ首を傾けた。
次の瞬間、屋上から姿が消えた。
「どこへ行った?」
隊員たちは周囲を警戒する。
湊は建物の側面を見た。
その壁に、何かが動いている。
「右側です!」
人影は壁面を横に移動していた。
まるで地面を歩くのと変わらない動きだった。
隊員の一人が銃を構えた。
「待ってください!」
湊が声を上げる。
対象は壁から飛び降り、道路脇の建物の陰へ着地した。
そのまま走り去ることもなく、こちらを見ている。
「何をしている?」
隊員が問いかける。
対象は答えなかった。
湊は少し距離を保ったまま、ゆっくりと近づいた。
「怪我はない?」
対象の視線が湊へ向く。
「ない」
短い返答だった。
「ここに何をしに来たの?」
「見ている」
「何を?」
「人間」
湊は周囲を確認した。
「人間を見ていたの?」
「動いている」
「それはそうだね」
対象は道路を歩く人々を見た。
「同じ場所にいる。違う方向へ行く。戻る者もいる」
「それぞれ行きたい場所があるからね」
「行きたい場所?」
「仕事に行く人もいるし、家に帰る人もいる。誰かに会いに行く人もいるよ」
対象は少し黙った。
「なぜ?」
「それぞれ理由があるんじゃないかな」
「理由がなければ、動かない?」
「そういう人もいると思う。でも、理由がなくても歩くことはあるよ」
対象は湊を見た。
「お前も?」
「俺?」
「なぜ、ここにいる」
湊は少し考えた。
「仕事だから、というのもあるけど……」
彼は防衛隊の隊員たちを見た。
「ここで何か起きたら、困る人がいるからかな」
「人間を守る?」
「うん」
「なぜ?」
「守りたいと思うから」
対象は理解できないというように、しばらく湊を見つめていた。
やがて、道路の反対側へ視線を移した。
そこでは、買い物袋を持った女性が子供と一緒に歩いている。
「守られる側は、何をする?」
「普通に生活するんじゃないかな」
「何も返さない?」
「返す人もいるだろうし、返さない人もいると思うよ」
対象は再び湊を見た。
「それでも守る?」
「うん」
湊は特別なことを言っているつもりはなかった。
ただ、自分が考えていることをそのまま答えただけだった。
対象は少しだけ身体を動かした。
「分からない」
「そうだね。すぐに分からなくてもいいと思う」
そのとき、警察官が無線で周辺の状況を確認した。
対象はその声に反応し、建物の壁へ手を伸ばした。
身体の表面がわずかに変化する。
「待って。逃げるの?」
「ここにいる理由はなくなった」
「そうか」
湊は無理に引き止めなかった。
対象は壁を登り、屋上へ移動した。
そのまま隣の建物へ渡り、視界から消えていった。
「追跡しますか?」
隊員が尋ねる。
隊長は周囲の状況を確認した。
「住民への被害は確認されていない。無理に追う必要はない。目撃地点を記録しておけ」
「了解しました」
湊は対象が消えた屋上を見上げていた。
あの個体は、戦うために来たわけではなさそうだった。
ただ、人間を見ていた。
それが何のためなのかは、まだ分からない。
*
同じ日の午後。
久世灯里は、父親の研究資料を別の角度から調べていた。
これまで彼女が確認してきた資料には、能力や身体の変化に関する記録が多かった。
しかし、個体の行動について書かれた記録も残されている。
灯里は古い観察記録の中から、一つの文章を見つけた。
――個体が何を求めているのかを、能力の外側から判断することはできない。
その下には、別の記述があった。
――同じ環境に置かれても、同じ行動を選ぶとは限らない。
灯里は資料を閉じた。
父親は、個体を単なる研究対象として扱うことに慎重だった。
それは、研究者としての姿勢だけではなかったのかもしれない。
彼女は端末に残された番号一覧を確認した。
00から99まで。
そのうち、現在の活動が確認されている番号はまだ限られている。
個体ごとの記録も断片的だった。
灯里は新たに確認された目撃情報を開いた。
住宅地で人間を観察していた個体。
工業地域で金属部品を集めていた個体。
森で人間の生活に興味を示していた個体。
それぞれの行動に共通する目的があるのかどうかは分からない。
彼女は一つずつ記録を整理した。
父親の資料だけでは、答えは出ない。
現実に活動している個体を理解する必要があった。
*
夕方。
住宅地から少し離れた建物の屋上に、昼間の個体が座っていた。
下では人間が行き交っている。
誰かが立ち止まり、誰かが走り、誰かが別の人間と話している。
同じ場所にいても、同じ行動をする者はいない。
個体はその様子を見ていた。
しばらくして、一人の人間が道に落ちた荷物を拾い、持ち主に渡した。
受け取った人間は何度も頭を下げた。
渡した人間は、そのまま歩いていった。
個体はその行動を目で追った。
「守る……」
昼間に聞いた言葉を、小さく繰り返す。
その意味は、まだ理解できない。
ただ、人間が何を理由に動いているのか。
それをもう少し見てみたいと思った。
個体は屋上から立ち上がった。
今度は、別の場所へ向かうことにした。




