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第一話 元王太子は頭を下げられない

ルーネ地方。


かつては銀鉱山で栄えた王国西部の町は、私が想像していた以上にひどい有様だった。


石造りの建物は黒ずみ、窓は割れ、通りには空き家が並んでいる。


広場の噴水は枯れ、店の看板は半分以上が外されていた。


人がいないわけではない。


いる。


ただ、誰もが俯いて歩いていた。


「鉱山が閉鎖されたのは七年前だ」


馬車を降りながら、ユリウスが説明する。


「銀の採掘量が減ったにもかかわらず、領主は採掘を続行。坑道崩落で三十二名が死亡した。その後、賠償金と借金で領地財政が破綻した」


「今の領主は?」


「逃亡した」


「さらっと言うわね」


「逃亡先は把握している。横領した資金も差し押さえ済みだ」


「仕事が早い」


「当然だ」


私たちの後ろから、五人の元攻略対象が馬車を降りてくる。


全員、平民用の簡素な服を着ていた。


ただし、着慣れていないのが一目で分かる。


レオンは粗末な上着でも姿勢だけは王族のままだった。


セドリックは手袋がないことを気にして、しきりに指先を隠している。


カイルは腰に剣がないせいで落ち着かず、何度も空の鞘を探す仕草をしていた。


ノアは馬車酔いで青ざめている。


エリオットは町の様子を見て、小さく唇を噛んだ。


ゲームでは、この五人が同じ画面に揃うことは滅多になかった。


揃えばだいたいヒロインを巡って牽制し合う。


今は誰も、私を見ていない。


そんな余裕がないのだ。


「最初の仕事を説明する」


ユリウスが地図を広げた。


「町の水道設備が故障している。貯水槽の残量は三日分。修理できなければ住民を避難させる」


「どこへ?」


私が尋ねる。


「隣の町だ」


広場にいた老人が、こちらを振り返った。


「歩いて四日かかるぞ」


「荷車を用意する」


「畑はどうする」


別の女性が言った。


「家畜は? 病人は? 墓は置いていくのかい?」


ユリウスは答えなかった。


答えられないのではない。


避難に必要な数字を、頭の中で計算している顔だ。


そして計算の結果、捨てるべきものを決めようとしている。


「水道を直しましょう」


私が言うと、ユリウスは即座に反論した。


「設備は旧式だ。図面も残っていない。三日では不可能だ」


「不可能かどうか、まだ調べてもいないじゃない」


「現地の技師が半年かけても直せなかった」


「技師は何人?」


「二人だ」


私は後ろを振り返った。


「今は七人いる」


カイルが目を丸くする。


「俺たちも数に入っているのか?」


「当然でしょう」


「俺は水道技師ではないぞ」


「私は宿屋じゃないのに、あなたたちの食事を作ったわ」


「……焦げていたが」


「焦がしたのは王子よ」


全員の視線がレオンに集まった。


元王太子は、痛ましいほど堂々と胸を張った。


「私は料理人ではない」


「知ってる」


「王族は厨房に入らない」


「もう王族じゃないでしょ」


空気が凍った。


しまった、と思ったときには遅かった。


レオンの顔から表情が消えた。


彼はゆっくり私を見る。


「分かっている」


低く、静かな声だった。


「言われずとも、分かっている」


踵を返し、町の外へ向かって歩き出す。


カイルが追おうとしたが、ユリウスが腕を掴んだ。


「放っておけ」


「だが」


「使えない人員に割く時間はない」


その言葉に、今度は私が腹を立てた。


「ユリウス」


「事実だ」


「あなた、いつもそうやって切り捨てるの?」


「再建には優先順位が必要だ」


「人間にも?」


「人間だからこそだ。全員を救えると思うのは傲慢だ」


正論だった。


腹が立つほど正しい。


たぶん彼は、何千人、何万人という単位で人を見ている。


一つの制度を変えれば、何人が飢えずに済むか。


一枚の書類を減らせば、何時間の労働が削減できるか。


彼は大勢を救う。


そのためなら、目の前の一人を見捨てられる。


けれど私は、聖女だ。


少なくとも、ゲームの設定では。


「全員を救えるとは思ってない」


私はレオンの背中を追った。


「でも、まだ一度も手を伸ばしてない人を、救えないとは決めつけない」


◇


レオンは、町外れの丘にいた。


眼下には枯れた川と、動かなくなった水車が見える。


「帰れ」


彼は私に背を向けたまま言った。


「一人にしてほしい」


「それ、王子命令?」


「違う」


「なら聞かない」


隣に立つ。


レオンは露骨に嫌そうな顔をした。


ゲームでは、彼の好感度が上がると、この丘に似た場所で二人きりのイベントが起きた。


王位を継ぐ重圧を打ち明けられ、ヒロインが彼を慰める場面だ。


美しい夜景。


甘い音楽。


選択肢は三つ。


『あなたなら立派な王になれます』


『私がずっとお支えします』


『逃げてもいいんですよ』


私は一周目で三番を選び、即座にバッドエンドへ進んだ。


王太子に逃亡を勧めてはいけなかったらしい。


けれど今、彼はもう逃げたあとだ。


王位から。


家族から。


自分自身から。


「私のことを、愚かだと思っているだろう」


レオンが言った。


「料理ができなかったから?」


「違う」


「鶏に負けたから?」


「それはカイルだ」


「皿を割ったから?」


「セドリックだ」


「薪を爆発させた?」


「ノアだ。なぜ他人の失敗まで私に背負わせる」


少しだけ、声に力が戻った。


「じゃあ、何が愚かなの?」


レオンは拳を握った。


「私は、何も知らなかった」


風が吹く。


「民が納めた税が何に使われているのか。王宮の晩餐一度で、平民が何年暮らせるのか。父上が反対派をどう黙らせていたのか。何も知らず、玉座を継ぐつもりでいた」


「知らされなかったんでしょう」


「知ろうともしなかった」


それは、きっと彼の罪なのだろう。


けれど罪と価値は、同じものではない。


罪を犯した人間に価値がなくなるなら、誰も立ち直ることなどできない。


「町の人に、話を聞いてみて」


「何を?」


「水道について。昔のことを知ってる人がいるかもしれない」


レオンは自嘲するように笑った。


「私が尋ねれば、誰もが従うと思うか?」


「思わない」


「では――」


「頭を下げるのよ」


彼の顔が固まった。


予想どおりだった。


ゲームのレオンは、誰かに頭を下げたことがない。


謝罪イベントでさえ、彼は背筋を伸ばしたままだった。


それが王族の誇りであり、孤独であり、魅力でもあった。


今となっては、単なる不器用さだ。


「できない?」


「……できる」


「無理しなくても」


「できると言った!」


レオンは勢いよく歩き出した。


町の広場まで戻ると、井戸のそばに数人の住民が集まっていた。


彼らは元王太子の姿を見て、明らかに警戒した。


王家への反感があるのだろう。


無理もない。


この町の困窮を、王都は長いあいだ放置していた。


レオンは住民たちの前に立った。


口を開く。


閉じる。


また開く。


「私は……」


声が震えていた。


剣を向けられても動じなかった人が、たった一言を言えずにいる。


「私は、レオンだ」


元王太子とも、廃嫡された王子とも名乗らなかった。


ただ、自分の名前を言った。


「この町の水道を修理したい。昔の設備について知っている者がいれば、話を聞かせてほしい」


反応はない。


レオンの拳が、白くなるほど握られている。


それでも彼は逃げなかった。


ゆっくり腰を折る。


「頼む」


王になるはずだった男が、民衆に頭を下げた。


長い沈黙のあと。


杖をついた老人が、一歩前に出た。


「先代の水道長なら、北の外れに住んでる」


別の女性が言う。


「坑道の図面を持ってた人もいるよ」


「昔の水路は、鉱山の地下を通ってるはずだ」


ぽつり、ぽつりと声が増えていく。


レオンは顔を上げた。


そこにあったのは、王太子の完璧な笑顔ではなかった。


驚きと、戸惑いと、わずかな希望。


十六歳の青年の顔だった。


「ありがとう」


今度は先ほどより自然に、彼は頭を下げた。


その瞬間。


ゲームの中では一度も聞いたことのない音が、私の頭の奥で鳴った。


鐘の音に似た、柔らかな音。


視界の端で、淡い金色の光が瞬く。


レオンの胸元から細い光の糸が伸び、町の人々へつながっていく。


私は息を呑んだ。


ゲームの設定資料に、こんな能力はなかった。


「リリアナ」


背後からユリウスの声がした。


振り向くと、彼も光を見ていた。


「今のは何だ」


「あなたにも見えるの?」


「見えた。魔力反応ではない」


ユリウスがレオンと住民たちを観察する。


その目には恐れよりも、強い好奇心が浮かんでいた。


「再現条件を確認する必要がある」


「感動を台無しにするの、得意よね」


「未知の現象を放置するほうが問題だ」


「人が一歩踏み出した瞬間なのよ?」


「だから価値がある。再現できれば、多くの人間に応用できる」


やはりこの男は、目の前の奇跡すら制度にしようとする。


「効率厨」


私が呟くと、ユリウスの眉が動いた。


「その言葉を使うということは、やはり君は日本人だったな」


「……やっぱりあなたも?」


「ああ」


彼は平然と答えた。


「前世では業務改善コンサルタントだった」


最悪の職業が出てきた。


「この世界を乙女ゲームだと知ってたの?」


「十二歳のときに気づいた」


「だったら、どうして攻略対象を全員没落させたのよ!」


ユリウスは心底不思議そうに首を傾げた。


「攻略対象だったから、何だ」


「何だって……」


「王太子であるだけで有能だと保証されるのか? 公爵令息なら不正を見逃すべきか? 顔がよければ既得権益を守っていいのか?」


「それは……」


「ゲームでは、彼らの問題はヒロインとの恋愛で解決した」


ユリウスはレオンを見る。


住民たちに囲まれ、懸命に話を聞いている。


「だが現実の国は、恋愛では運営できない」


冷たい言葉だった。


けれど、その表情はほんの少しだけ寂しそうに見えた。


「俺は彼らから、地位を奪った」


ユリウスは続ける。


「君は彼らに、地位がなくても生きられる方法を教えろ」


「あなたは?」


「俺は国を立て直す」


「人は立て直さないの?」


「不得意分野だ」


「知ってる」


私たちが話していると、老人から話を聞き終えたレオンが戻ってきた。


その手には、古びた一枚の地図が握られている。


「地下水路の図面が見つかった」


彼は興奮を隠しきれない声で言った。


「鉱山の第四坑道から、町の貯水槽へ直接水を引けるらしい。崩落部分を迂回できれば、水道は復旧する」


ユリウスが地図を受け取る。


数秒で内容を読み取った。


「可能性はある。セドリックに土地台帳を確認させる。ノアは水圧用の術式を設計。カイルは作業員を集めろ。エリオットは衛生管理だ」


指示を受けた四人が、戸惑いながらも動き始める。


レオンだけが、その場に残った。


「私は?」


ユリウスは答える。


「住民との交渉を続けろ」


「私に務まるだろうか」


さっきまでの彼なら、そんなことは言わなかった。


不安を口にすることは、弱さを見せることだから。


私は笑った。


「もう一度、頭を下げられる?」


レオンは少し考えたあと、苦笑した。


「あれよりパンを焼くほうが難しい」


「じゃあ大丈夫」


こうして。


廃嫡された王太子は、初めて王族としてではなく、一人の人間として仕事を任された。


町に水が戻るまで、残り三日。


攻略対象たちの人生再建は、ようやく最初の一歩を踏み出した。


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