序章 攻略対象、全員無職
王太子がパンを焦がし、公爵令息が皿を割り、天才魔術師が薪割りで腰を痛めていた。
その隣では、未来の騎士団長が鶏に追い回され、次期教皇になるはずだった青年が、死んだような目でジャガイモの芽を取っている。
全員、かつて私の恋愛対象だった男たちである。
いや、正確には。
乙女ゲームの攻略対象だった男たちだ。
「……どうしてこうなったの?」
私が呟くと、カウンターの向こうで帳簿をめくっていた銀髪の青年が、顔も上げずに答えた。
「旧制度が非合理的だったからだ」
ユリウス・ハルト。
男爵家の五男として生まれ、十歳で農地の輪作を普及させ、十二歳で魔術式の共通規格を作り、十四歳で貴族の脱税を暴き、十五歳で王国史上最年少の改革官になった男。
そしてこの世界が乙女ゲームだった頃には、背景の隅で書類を運んでいただけのモブキャラ。
攻略本にも名前が載っていなかった人物である。
「聞いてないわよ」
「何をだ」
「改革すると攻略対象が全滅するなんて!」
ユリウスの手が止まった。
ゆっくり顔を上げる。
冷たい灰色の瞳が、まっすぐ私を射抜いた。
「……攻略対象?」
しまった。
私は笑った。
とても自然に。
何も隠していない人間がする、実に爽やかな笑顔だったと思う。
「畑を攻略する対象、みたいな?」
「苦しすぎる」
「では鶏を攻略する対象」
「今、カイルが鶏に敗北したところだ」
「うわああああっ! こいつ、俺の剣を返せ!」
庭から元騎士団長子息の悲鳴が聞こえた。
鶏に剣は通じないと思う。
そもそも剣を持っていない。
没落した際、借金のかたとして売られたからだ。
ユリウスはしばらく私を見ていたが、やがて小さくため息をついた。
「まあいい。君に説明する手間が減った」
「何のこと?」
「君も転生者なのだろう」
今度こそ、私は笑えなかった。
ユリウスは一冊の分厚い計画書を、カウンターの上に置いた。
表紙には、無機質な文字でこう書かれていた。
> 王国西部ルーネ地方再建計画
> ならびに旧上級貴族子弟の社会復帰実証事業
「社会復帰実証事業……?」
「簡単に言えば、彼らを働かせる」
ユリウスは庭に目を向けた。
廃嫡された王子が、真っ黒になったパンを前に途方に暮れている。
家を失った公爵令息が、割った皿の破片を無表情で拾っている。
元天才魔術師は、腰を押さえたまま地面に寝転んでいる。
元騎士は鶏に負けた。
元聖職者はジャガイモを見つめながら、人生について考えていた。
惨状である。
「彼らには、教育も能力もある。だが、特権を奪われた途端、何もできなくなった。これは国家的損失だ」
「言い方」
「人材を廃棄するほど、この国には余裕がない」
「やっぱり言い方」
「だから再配置する」
「人を家具みたいに言わないで!」
ユリウスは怪訝そうに眉を寄せた。
本気で何が悪いのか分かっていない顔だ。
この男は国を救った。
作物の収穫量は増えた。税金は公平になった。平民でも試験に合格すれば官僚になれるようになった。
魔術師の名門に生まれなくても、魔術を学べるようになった。
騎士の横暴は減り、教会の不正会計も暴かれた。
改革の内容そのものは、ほとんど正しい。
ただし、この男には一つだけ、致命的に足りないものがあった。
人間の心への配慮である。
「君の能力が必要だ、リリアナ」
「私の治癒魔法?」
「違う」
ユリウスは計画書を指で叩いた。
「君は人の話を聞ける」
「……それ、能力として数えるもの?」
「少なくとも俺にはない」
自覚はあったらしい。
庭から焦げ臭い煙が漂ってきた。
「あっ、火が!」
「レオン。水をかけるな。油火災だ」
「ではどうすればいい!?」
「鍋に蓋を――」
「蓋はセドリックが皿と一緒に割った!」
「僕のせいにしないでくれ!」
「薪が爆発したぞ!」
「ノア、お前は何をした!?」
「ただ効率よく燃やそうと増幅術式を……!」
「神よ、なぜ私をまだ生かしておられるのですか」
「エリオット、祈ってないで逃げて!」
騒ぎの中、ユリウスは淡々と言った。
「三日後、ルーネ地方へ出発する」
「勝手に決めないで」
「拒否するのか」
私は答えようとして、庭を見た。
かつて画面の向こうで、完璧な笑みを浮かべていた五人。
どのルートでも、彼らは強く、美しく、主人公を守ってくれた。
けれど今の彼らには、守るべき地位も、帰る家も、明日を生きる理由さえない。
そして私は知っている。
彼らが本当は、何を得意としているのか。
レオン王子は、民衆の前で演説することができる。
セドリックは、複雑な契約と法律を誰より正確に理解している。
カイルは、どんな窮地でも仲間を見捨てない。
ノアは、百年に一人の魔術理論の天才だ。
エリオットは、弱っている人間の小さな変化に誰より早く気づく。
彼らの価値は、爵位と一緒になくなったわけではない。
ただ、本人たちがそれを信じられなくなっているだけだ。
「一つ条件があるわ」
「言ってみろ」
「元の地位には戻さない」
ユリウスが目を細めた。
「王子は王子に、公爵令息は公爵令息に戻す。それが再生だと思ってるなら、私は協力しない」
「では、君の考える再生とは?」
私は、焦げたパンを抱えて立ち尽くすレオンを見た。
「何も持っていなくても、自分には価値があるって、もう一度信じられるようになること」
しばしの沈黙のあと。
ユリウスは計画書の表紙に、一本の線を引いた。
そして「旧上級貴族子弟の社会復帰実証事業」という文字を消し、代わりに書き加える。
> 人生再建事業
「名称を変更した」
「そこから?」
「名称は重要だ。事業の目的を定義する」
相変わらず、情緒のない男である。
けれど。
「契約成立だ、リリアナ」
差し出された手を、私は握った。
こうして、乙女ゲームのヒロインである私と、ゲームそのものをぶち壊した効率厨モブによる、攻略対象たちの人生再建計画が始まった。
ちなみに宿は、その直後に半焼した。
再建すべきものが、さっそく一つ増えた。




