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互いの傷

 ふわ。

 ふわり。

 白いドレスが泳ぐ。


 柔らかに、優雅に、質素ながら繊細なラインを描く美しいドレープが、ひらひらと舞う。酷く幻想的で美しい光景なのに、胸を締め付けられて仕方がないのは、それが誰のものなのかを知っているからだ。


 あれは、姉さんのドレス。


 私の、年の離れた姉のドレスだ。

 恋をして、変性を果たしたことを祝う宴の晩に姉が身に着けていたドレスだ。優美な曲線を描く女性ならではのラインを、どこまでも美しく見せることだけに拘った、質素ながら可憐なドレスだった。

 すごく、綺麗だった。

 美しいドレスを纏い、恋に頬を染めて笑う姉は、世界で一番綺麗な少女だった。

 そして、いつかは私もああなるのだと、そう思っていた。

 姉さんのようになれるのだと。



「ええそうよ。次はあなたの番」



 耳に蘇る、姉の声。

 やわらかに、幸福に満ちた笑みを私に向けて彼女はそう言った。

 大好きだった。ずっと、憧れてた。

 村の中の誰よりも美しい自慢の姉。

 年頃になり、恋をして変性を迎え。

 そして、恋をした誰かと質素ながら幸せな家庭を築く。

 姉こそが雛姫の人生の手本であり、姉のようになりたかった。

 姉のように、生きたかった。


 ああ。

 

 

 

 

  

           『姉のように生きたかった』






 それが過去形になってしまったことの意味を、痛いほどに知っている。

 これはもう何度となく見た悪夢だ。

 何度も、何度も、何度も繰り返し、見た。


 めら、り。


 私の憧れの純白のドレスが紅蓮に包まれ、黒煙に蝕まれるようにして捩れる。

 焔の中、煤で汚れてもなお、姉さんは綺麗だった。

 ドレスではなく、煤けた普段着でしかなかったとしても、それでも彼女は美しかった。


「母さんをお願いね」


 それが、姉さんの最期の言葉になった。

 姉さんはまだ小さかった私にそう言い残して、焔の中を踊るように駆け抜けていった。


 めら。

 めらり。


 純白のドレスが燃える。

 それは私が見ることのなかった姉の最期を象徴する光景だ。

 姉さんは、それきり戻ってはこなかった。

 誰よりも美しく、どんな人ごみの中にあっても一際目立ったであろう姉さんを、私は見つけられなかった。

 

 

 逃げ遅れた村人たちは、皆そろって焼け落ちた村の中で真っ黒になってしまっていたから。

 

 

 あんなに大好きだった姉のことすら、私は見分けることが出来なかった。

 私は、姉さんを見つけてあげられなかった。

 何が起こったのかすらわからなかった、悪夢のような一夜。

 後から、襲われたのだと知った。

 私たちの村は、密猟者たちに襲われたのだ。

 彼らの狙いは、まだ変性を迎える前の若い子供たち。

 そう、私のような子供だった。

 美しいだけの大人よりも、変性という一大イベントを控えた子供の方が高値で取引されると密猟者たちは知っている。

 姉さんは、子供たちを守るために走った。

 密猟者たちの目の前を駆けぬけ、その美貌で引きつけ、変性前の子供のふりをしては惑わせた。

 そうして姉は、命と引き換えにして私を守った。



 姉さん。

 あなただって、まだ子供だったのに。



 ユーゲロイドはもともと、有事の際には子供を守ろうとする種族だ。

 すでに数を減らしていることもあってか、大人たちは皆自分たちの種族を未来に繋げるために子供を大事にする。



 けれど、それはもう子供を産んだ大人のすることなんだよ、姉さん。



 まだ結婚もせず、子供も産んでいなかった姉は、立場的にはまだ守られる側だったはずなのだ。それなのに、彼女は幼い妹を……、私を守るために命を賭した。

 私は、姉さんに守られて、姉さんを犠牲にして生き延びた。

 それなのに……、私はそんな姉さんの最期の言いつけすら聞けなかった。

 姉さんの最期の言葉。



「母さんをお願いね」



 私は姉さんに母さんを託されたはずなのに。

 その願いすら、叶えることができなかった。

 母さんは、姉さんが死んでしまったという現実に耐えられなかった。

 私が姉さんを見つけられなかったのが良くなかった。

 最初は、姉さんは生き延びたのではないかと母さんは希望を持って待ち続けた。

 待って、待って、待ち続けて――…、母さんは心を病んだ。

 私が生まれてすぐに夫である父を事故で亡くし、彼女の心はこれ以上家族を失うことに耐えられなかったのだろう。

 ある日、私が家に戻ったら、母さんは私を姉さんの名前で呼んだ。

 姉さんの名前で、私を姉さんだと思って家へと迎え入れた。

 

 

 そして、母さんは私のことを忘れた。

 

 

 最初から、姉さんと二人だけの家族だったかのように、私を姉さんの名前で呼んで、二人きりでの新しい生活が始まった。

 ……名前を呼んで貰えなくなったのは、確かにすごく哀しかった。

 けれど、それでも母さんはまた笑ってくれるようになった。

 周囲は痛ましそうに私を見たけれど、それでもきっといつか母さんが現実を受け入れてくれると思っていた。

 母さんはただ、受けた心の傷を癒すのに、時間がかかっているだけなのだと。

 時間はいくらでもあると思っていた。

 けれど、そうじゃなかったのだ。

 タイムリミットは、予想外なところから迫ってきた。


 やけに月が大きく見える、綺麗な月夜の晩。

 私ががそろそろ変性を迎えてもおかしくない年齢になった頃。

 母さんは、私を縊り殺そうとした。

 細く頼りない優しい指先が、ギリギリと喉に絡みついて締め上げた。

 ぽたぽた、と私の頬に落ちたのは、母親の涙だった。



「大人になんてならないで、いなくならないで、お願いよ。

子を守ろうだなんて思わないで、女になってしまわないで」



 そう泣きながら、母親は私のこれ以上の成長を――、いや、姉さんが大人になることを止めようとした。もう二度と彼女が、大人としての義務感に駆られ、子供を守るために命を賭してしまったりなどしないように。

 心を病んでしまった母さんは、成長を止めるなんて方法で繰り返しの惨劇を避けようとしたのだ。


 かあさん。


 私を産み、育て、そして守るために殺そうとしたひと。

 姉さんの代わりに、死んだのが自分だったのなら、母親は心を病まずに済んだのだろうか。

 今でもよくそう考える。


 かあさん。


 私が死んでも、同じように泣いてくれただろうか。


 私は、死ななかった。

 私は、死ねなかった。

 

 ずっと一緒にいてくれた幼馴染の青年が、様子がおかしいことに気付いて駆けつけて助けてくれたから。

 そして、次に私が気づいたときには、もう全てが終わっていた。

 母さんは、皆が私を蘇生騒動でてんやわんやしているうちに、ふらりといなくなってしまったのだそうだ。翌日、母さんは父さんが事故で死んだのと同じ崖の下から遺体で見つかったと、私は聞かされた。私が目を覚ました時には、母親の葬儀は終わっていた。


 母さんは、父さんと姉さんを追って逝ってしまったのだ。

 私は――……、やっぱり、姉さんのようにはなれなかった。

 私だけ、おいて逝かれてしまった。











★☆★











「――……」


 つぅ、と熱い雫がこめかみへと滑る感覚に引きずられるようにして、私はそっと目を開けた。

 悪い夢を、見たような気がする。

 いや、悪い夢だと言えたのなら、もっと良かったのかもしれない。

 とっておきの悪夢でありながら、同時に懐かしく愛しい家族の夢だ。

 

 忘れたい。

 忘れたくない。


 相反する二つの気持ちに、ただただため息をつくしかない。

 体の中で渦を巻く熱を一緒に吐き出して、私は瞼を持ち上げ……。


「……?」


 ここはどこだろう。

 ぼんやりと瞬いた先、視界に映る天井に見覚えがない。

 辺りはすっかり暗く、見渡した薄暗い室内にはすでに夜の気配が色濃く漂っている。どれくらい自分は眠ってしまっていたのだろう。

 今が何時なのかだとか、自分がどこにいるのか、だとか、自分の置かれている状況がまるっきりわからない。

 

 庭で倒れたはず、なのだけれど。

 

 旦那様が帰ってくるのを見て。

 立ち上がった瞬間に、くらりと来たのだ。

 状況を確認すべくベッドの上に身を起こす。その拍子にぼとりと何かが落ちた。


「タオル……?」


 どうやら、眠っている私の額にはタオルが乗せられていたらしい。まだそんなに熱を持たない、冷えたタオル。冷たい水にくぐらせて、固く絞ってある。


「…………」


 すん、と鼻を鳴らしてみると、甘さと苦みの混じった、紅茶の匂いが残り香のように漂った。

 

 ……まさか。


 一つ、思いついてしまったことを脳内で否定しながら、私はもう一度周囲を見渡す。部屋の内装に見覚えはない。それがますます嫌な予感を煽る。

 私はこの家にきて最初に大掃除をした。この家のことならば、入ることを許されている範囲に限れば旦那様と同程度には知っているつもりだ。

 そんな私の知らない部屋。

 それはすなわち。


 ここってまさか――……だ、旦那様の寝室、だったり……?


 そうとしか考えられない。


「え。ええええ。ええええー?」


 思わずそんな声が出た。

 ここが旦那様の寝室であるのならば、こうして私の看病をしてくれたのも築有志郎その人ということになってしまう。


 と、とんでもないことに……。


 一瞬、いっそ目覚めなければよかった、なんて考えてしまった。

 何を言われるかと思えば、今すぐ全力で逃げ出したくなってくる。


「…………」


 思うだけでなく、つい視線が逃げ場を求めてドアを見てしまった。

 いやいやいやいや、ドアは駄目だ。

 書斎には旦那様がいる可能性が高いし、そうなると窓から逃げるしかなくなる。

 そんなとりとめのないことを、わりと本気で考えてしまった。

 ……と。

 まるで私の思考を読みでもしたようなタイミングで、がちゃりと音がして扉が開いた。


「…………」

「…………」


 旦那様は、ベッドの上に身を起こしている私に、一瞬驚いたように足を止める。


「…………」


 旦那様は何故か、一瞬「しまった」とでも言いたげな顔をした。

 が、すぐにそんな表情を取り繕って、すたすたとベッドサイドまで歩み寄ってくる。その手には、洗面器。

 

 もしかして……、水を取り替えてきてくれた……?


 それはもしかしなくとも、やはり私が倒れてから、ずっと傍で看病していてくれたのは旦那様、ということなのだろう。そして、出来ればそのことを私に知られたくはなかったと思っている。どことなく気まずげな仏頂面で、旦那様はベッドサイドにあった椅子を引き寄せて腰掛ける。


「――…気分はどうだ」


 ぶっきらぼうながら、優しい声音だった。

 無愛想なのに、どこかそのそっけない声音には照れ隠しめいた色が潜んでいる。旦那様が現れるまでは、旦那様に何を言われるかと怯えていただけに、彼の見せる予想外の優しさに、うまく答えることが出来ずにぼんやりと瞬いてしまう。


 ……怒ってないのか、な?


 ちょろりと視線を持ち上げ、旦那様の様子を伺ってみる。


「…………」


 視線を伏せがちにしている旦那様は、あまり怒っているようには見えなかった。

 そのことにほっと息を吐き出して、一拍置いてから、私は口を開いた。


「もう、大丈夫です。ありがとうございました」


 倒れるまでの、あのぐらぐらと脳みそが煮詰まるような鈍痛はもうどこかに行ってしまっている。


「迷惑をかけてしまって、すいませんですいた」

「…………」


 怒っている、というわけではないようなのだが、旦那様のリアクションは薄い。

 私の謝罪に対しても、無言のままだ。


「…………」

「…………」


 な、何か言ってくれないかな。

 沈黙が居たたまれない。

 ちら、と伺った旦那様の眉間には、深々とした皺がくっきりと寄せられている。

 何か難しいことでも考えてるのだろうか。

 それならば、邪魔せずにそっと抜け出してしまった方がお互いの心の平穏のためにもいいような気がしてきた。


「えっと、俺、部屋に戻って休みますね。明日はちゃんと仕事しますから…って、え?」


 もそりと布団から抜け出そうと身じろいだ私の肩を、旦那様が指先だけでトンと押しこんできた。未だ力の入らぬ体は、たったそれだけの圧に負けてぺふん、と再びベッドに沈んだ。その意味は、まだ寝てろ、というあたりだろうか。


 ええええええ。

 無言なのが怖い。超怖い。


 怯えつつも、旦那様の無言の指示には逆らいきれず、それ以上ベッドから起き上がろうとはしないまま、おとなしくする。

 そっと、私の肩を押した旦那様の掌が、今度は額の上に乗った。


「……っ」


 素肌の接触に、びくりと体が跳ねる。

 

 び、びっくりした。


 こういう接触を嫌う人だとばかり思っていたのだ。

 先ほどから旦那様の予想外の態度や行動に驚かされてばかりだ。


「……熱はだいぶ下がったな」

「俺……、熱もあったんですか?」

「結構な」


 会話の合間に、旦那様がベッドの上に落ちていたタオルを拾いあげると、そこに用意されていた洗面器の中へと潜らせる。キツく絞られた冷たいタオルが、再び私の額の上に乗せられた。


 ……あ、きもちい。


 特に熱があるなんて意識していなかったはずなのに、こうして冷たいタオルを乗せられると酷く気持ちがいい。状況的には緊張しているものの、そのひんやりとした感触の心地よさに口元が緩んでしまう。そんな私の様子に何か思うところがあったのか、旦那様の眉間にますます深く、ぎゅぅと皺が寄り。


「…………」


 私には聞こえない程度に抑えた声音で、何やら低く毒づいたようだった。

 ひい。


「この――…、阿呆が」


 罵られてしまった。


「あのえっとその旦那様……?」

「煩い、黙ってろ」

「…………」


 怒っているのかいないのか、これはどっちなんだ。

 状況はわからないが、とりあえず命令厳守で黙っておく。

 寝かしつけてくれたり、額に冷えたタオルを乗せてくれたりと、していることは優しいのだが……なにぶん顔が怖い。


 そして発言が怖い。


 お邪魔なら部屋に戻ります……、って言いたいところなのだけれど。

 黙れと言われてしまっているので、その代わりのようそっと旦那様の様子を伺った。旦那様がこんな近くにいるのは、初めてかもしれない。

 いつもは、書斎のデスク越しに顔を合わせるだけだ。


「…………」


 迫力あるし、凄むし、怖いが、基本的に顔は悪くない。

 身にまとう空気こそ凶悪なれど、元が悪いわけでは決してないのだ。

 むしろ、綺麗な男である。

 

 私の視線に気づいているのかいないのか、旦那様はしばらく悩むように眉間に皺を寄せたまま黙りこんでいたが……。やがて旦那様自身の中で、何やら決着がついたのか、深々とした溜息を一つ吐き出した。


「……はあ」


 そして。

 伸びてきた腕が、何故か私の頭に乗った。


 な? ななな? 何事?


 よくわからないまま、ぐしゃぐしゃと頭を撫でたくられた。


「お前、北の人間か」

「……へ?」

「髪、染めているだろう。本来はもっと色素の薄い色をしてるんじゃないのか」

「え」


 図星だ。

 本来の髪色は、淡い銀灰色。

 それを、村を出てからこの色に染めた。


「どうしてわかったんですか?」

「お前は目の色が明るいからな。髪だけ色素が濃いってことも……、まあないと言わないが珍しいだろう」

「……確かに」

「北の人間は色素が薄い分、俺らよりも日光への耐性もないからな。それに……」


 そこで一度、旦那様は言葉を切った。

 言うべきか言わないでおくべきかを迷うよう、一度深い息を吐き出して。

結 局は言うことに決めたのか、ひそやかに呟く。


「……北はまだ、荒れてるんだろう」


 ……ああ。

 その言葉に、気づいてしまった。

 きっと私は、魘されて何か口にしてしまったのだろう。

 夢の中で、泣いた気がしている。


 花夜国の北にある大国では、未だ戦乱が止まぬという。

 色素が薄く、陽に弱い、何かわけありの私を北の人間だと考えるのは、もっともな推理だ。実際、変性という特殊な生態を除けば、北の人間とユーゲロイドはとてもよく似た特徴を持っている。


「金に困っているのは、仕送りのせいか」


 旦那様はどうやら私のことを戦争孤児か何かだと見当をつけているようだった。


「…………」


 旦那様に、本当のことを言うわけにはいかない。


 それはわかっている。

 私がユーゲロイドであるということを、告げるわけにはいかないのだ。

 けれど、それと同時に嘘をつきたくないとも思ってしまった。

 だからせめて、どうしても隠さないといけないこと以外は嘘とつかないでおこうと思った。


「俺には……、姉がいたんです。

俺の暮らしてた村では、重要な役割を持つ姉だった」


 とつとつと、語る。


「だけど、姉は死にました。村が襲われたときに、俺を守って死んだんです」

「…………」


 旦那様は、口を挟まずに静かに聞いていた。

 けれど、しっかりと私を見つめる深い色を浮かべた双眸が、話を聞いてくれているのだと告げていた。


「俺は姉の代わりをしようと思ったけど……、俺は女じゃないから、姉の代わりにはなれなかった」


 なれたはずだった。

 ならなければ、いけなかった。

 だというのに、私は変性できなかった。


「だから、姉とは違う方法で村を助けようと思ったんです」

「……それで、出稼ぎか」

「……はい」

「家族は」

「いません。姉が死んだ後に、母親は姉の後を追ってしまったんです。

 俺とは比べものにならないぐらい、良くできた姉でしたから。

 母親は俺も一緒に連れて逝こうとはしたみたいなんですけど……。

 ……俺だけ、生き残っちゃいました」


 へにゃり、と私は眉尻を下げて笑う。


「……そうか」


 相槌は短かった。

 同情するでもなく、ただあるがままを受け入れるというような、短い声だった。


「同じだな」

「え……?」

「俺も家族はいない。ガキの頃にまとめて事故で死んだ」

「……っ!」


 そっけなく、まるで何でもないことを言うかのような口調で旦那様は言う。


「その日は早く帰って来いと言われていたんだがな。遊び呆けて、俺は帰らなかった。俺を待ちきれず、出かけた先で事故にあって――…、そのまま誰も帰ってこなかった」

「――…」


 胸が、痛い。

 いつも通りの家。

 家族さえ帰ってきたならば、何も変わらず「家」であったであろう場所で、旦那様は帰らぬ家族を待っていたのだろう。

 

 彼はいつ気づいたのだろう。


 いくら待っても、家族はもう二度と帰ってくることがないということに、彼はいつ気づいてしまったのだろう。


「この家は――、母親の家だ。母親がずっと、子供みたいにこんな家に住みたい、って言い続けてた家だ」


 ……ああ、だから。


「お前も、俺には似合わない家だと思ってただろう」

「…………」

「借り物の、家だ」

「……っ」


 呼気が震える。

 かつて母親が住んでみたいと夢見た、可愛らしい家。

 旦那様は大人になり、富を手に入れて、その母親の夢を叶えた。


 昔、お母さんが住んでみたいと言ったから、あなたはこの家を買ったんですか?


 築有志郎という男には不似合いな、可愛らしい小さなおうち。

 拘って手に入れたのだろう、と思わせる作りの家なのに、無関心とばかりに放置されている家の中。唯一手を入れられているのは、彼が自らの部屋と定めた書斎と寝室だけで。それ以外の部屋は、いつか彼の母親が夢見た状態で、放っておかれていた。


 それとも――……、あなたはいなくなった家族が戻ってくることを、ちらっとでも夢見てこの家を……?


 帰るはずのない家族のために、いつかその家族が住んでみたいと口にした夢の家を手に入れたのだろうか。


「あなたが……、旦那様が家に帰って来ないのは、俺のせいですか……?」


 私が……、家に手を入れてしまったから?

 変わり行く家を、見たくないと思ったから彼は家に戻らなくなってしまったのだろうか。

 

 考えてみれば、それはとても正当な理由であるような気がした。

 かつて母親が憧れたその家は、旦那様にとっては形見のようなものでもあるはずだ。

 私という執事に、その家の管理を任せると決めたのも旦那様だが、その結果実際に起こった屋敷の変化を、認めることが出来なかったのかもしれない。


「俺は――……、邪魔ですか?」


 ぽつり、とそんな疑問が口をついて出た。


 どうして、だろう。


 私はもともと好きでこの家にやってきたわけではないし、自ら志願して築有志郎という男の執事になったわけでもない。

 それなのに、不思議とこの人に、厭われたくないと、そんな風に思った。

 きっと、互いの傷が共鳴しているから、なのだろう。

 私と旦那様は、どちらも幼い頃に家族を失った。

 私は失われたそれを想い、今でもそれに焦がれながらも、代わりを得る術すら持たない。

 旦那様は、失ったものを愛おしむが故に、代わりを得ようとすら思わない。


 もし、邪魔だってはっきり言われたらどうしようか。


 旦那様の嫌がることをしたくない、とは思う。

 けれどそれとは別に、私は四海堂の命令に逆らうことも出来ないのだ。

 私は手をぎゅ、と握りしめて旦那様の返事を待つ。

 旦那様は言葉を飾るようなことはしない男だ。

 邪魔ならば邪魔だと、はっきりと言うだろう。


「邪魔だな」

「……っ!」


 はっきりと言われた言葉に、肩が震えた。


「主人の目の前で卒倒する執事なんぞ、屑だな。阿呆だな。まったくもって救いようがない」


 これ以上ない、というほどにはっきりきっぱりと屑だの阿呆だの救いようがないなど、ボロクソに言われてしまった。


 だけれども。


「旦那様……?」


 伸ばされた腕が、あんまりにも優しく私の頭を撫でるもので。

 すっかり嘆くタイミングをなくしてしまった。

 素性を隠すために、色を変え、今は黒く染まる私の髪を、旦那様の手指が柔らかに梳きとかす。


 辛辣な言葉と、優しい所作と。

 一体どちらが旦那様の真意なのだろう。


 ちょろ、と視線を持ち上げてみる。

 私の頭を撫でる手の向こう、っと窺った旦那様は、私が拍子抜けしてしまうほどに穏やかだった。普段は「へ」の字か、嫌味っぽい笑みに吊り上っている唇が、今は優しげな笑みを浮かべている。が、旦那様は私が自分を見ていることに気づくと、すぐにニィっと口角を吊り上げていつものように意地悪く笑った。


「なので――…、まァ、ペットだと思えばなんとか」

「ちょ」


 執事からペットとは、とんでもない降格である。


「それはちょっとさすがに……っ」

「寝てろと言ってる」

「だっ」


 苦情を言いかけてがばりと体を起こしかけたものの、頭を撫でてくれていたはずの大きな手に半ばアイアンクロー気味に頭を鷲掴まれてばふんと枕に沈められた。

 わりと酷い。


「お前みたいな阿呆はペットぐらいで丁度いい。

お前、なんで倒れたかわかってンのか」

「えーと……、日射病、ですか?」

「それもあるが、一番の原因は貧血だ、貧血」

「……あー」


 思わず納得の声をあげてしまった。

 何せいくら色素が薄く、日光に強くないとはいっても、数時間の草むしり程度で倒れるほどではなかったはずなのだ。

 しばらくの節制生活、もとい極貧生活が祟ったらしい。

 貧乏暮らしの間に、すっかり血が薄くなってしまっていたのだろう。


 って、そういえば。


「あの、旦那様。俺が抜いてた雑草ってどうなりました?」

「捨てた」

「うああああああ」


 いともあっさりと言い切られて、すでにベッドの住人ながら、私はしおしおと崩折れた。

 あれだけあれば、しばらくは食い繋げたのに。

 いろいろと調理法を考えながら草抜きをしていた分、それが全てパーになったと思うとしょんぼりしてしまう。


「…………」


 旦那様はそんな私の様子を気持ち悪そうに見ていたわけだが……。


「おい、まさか」


 途中で何かに気づいたようだった。

 日ごろからただでさえよろしくない人相が、三割り増しぐらいでさらなる凶相へとレベルアップしている。子供が見たら絶対泣く。私は子供じゃないが、目があったら仕留められそうで泣きそうだ。


「おい」

「はい」


 低く、呪詛めいた恫喝には、思わず素直に返事をしてしまった。


「お前――…アレを喰う気だったのか。

っていうか喰ってたのか」

「……!!」


 これはもしや、一番恐れてた横領容疑だろうか。


「庭の雑草なら食べても怒られないんじゃないかなとか思ったのは今日が初めてでこれまではちゃんと超節約してました! 業務上横領的なことは一切してないです! ちゃんと旦那様の食費等全部記録してあって収支あいますから……!!」


 必死。私、超必死。

 庭の草も、一応旦那様の所有物である。それを勝手に食べようとしていたのだから、正確にはそれもまた横領になってしまう。だが未遂だ。庭の草だし未遂だし是非とも見逃していただきたい。

 だというのに、旦那様は、一生懸命な私の弁解を聞くにつれ、どんどん表情が胡乱になっていく。


 ひ、ひい。

 

 悪鬼のような顔をしてらっしゃる。

 そして最終的に。


「もうお前しねばいいのに」

「!!」


 なんだかとんでもないことを言われた。

 が、暴言を吐いた旦那様の方がよっぽど悲壮な空気を漂わせている。

 なんだか私の方が、よっぽど悪いことをしてしまったかのようである。

 

「えとその……、旦那様?」


 そっと呼びかけてみる。


「…………」


 ゆらり、と旦那様の顔が持ち上がった。

 幽鬼じみている。


 こわい。

 旦那様、超こわい。


「いいか。飯を食え。

今度妙な遠慮をしてみろ、口の中に漏斗突っ込んで食材直接胃にぶち込むぞ」


 それっていわゆるフォアグラなのでは。


「普通住み込みの使用人に渡す必要経費には、そいつの生活費も含まれてるもんじゃないのか」

「だって俺、月に50万も貰っておいて、生活費まで出してもらうなんて貰いすぎだと思って」

「それを判断するのは俺の仕事だ」

「……はい」


 せめて、給料の前借が出来るかどうかはもうちょっと早く相談すべきだったのかもしれない。そうしたら、旦那様だって私がどういう状態にあるのかをもっと早く把握することが出来たはずだ。こんな風に、目の前で倒れて看病されてしまう、なんてことにはならなかったはずなのだ。


「……まあ、家にいなかったのは俺だしな」

「え?」

「……お前が相談しようにも、俺は家を空けてることの方が多かった」

「……あ、あの」


 勇気を振り絞るのなら、今だ。

 今なら……、言える。


「……なんだ」

「俺もごはん、ちゃんと食べますから。

旦那様も――…、一緒に食べてくれますか?」


 別に旦那様が頷いてくれなくたって、それでいい。

 私が一緒に食事がしたいと思っていること、作ったものを食べて欲しいと思っていることが伝わったのならば、それで。


「――……」


 旦那様は、私の問いに面食らったようだった。

 黙ったまま、数度の瞬きを挟んで。

 そして、諦めたように旦那様は深々と息を吐き出した。


「……わかった。帰るときには連絡する」

「……! ありがとうございます!」


 それは決して、一緒に食事をとるという確約ではなかったけれど。

 気まぐれで、必要最低限以外の予定で己を縛ることすら厭う旦那様にしては最大の譲歩だ。これで少しは自分の作った食事を旦那様に食べてもらえるようになるだろうか。

 そう思うと、どうしたって表情が緩んでしまう。


「……そんなに喜ぶな、阿呆」


 今まで私をスルーし続けてきたことに、ほんの少しの良心の呵責を覚えたのか、旦那様の視線がうろりとさ迷う。ぺち、と軽く額に乗ったタオルの上から旦那様に軽く小突かれるものの、そんな仕草にすら嬉しくなってしまった。


「……嬉しいです」

「…………」


 小突かれても笑みを隠せない私に、旦那様はやっぱり諦めたようにため息を深く吐き出して。


「……寝ろ」


わしゃわしゃと頭を撫でる手に、そのまま寝かしつけられてしまった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

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