第九話 帰る場所
火は、まだ生きていた。
崩れた木箱の隙間で赤く舌を揺らし、風に煽られるたび、港町・潮継の空気を焼いていく。煙は低く垂れこめ、怒鳴り声と泣き声が通りのあちこちでぶつかっていた。
逃げ遅れた者を呼ぶ声。
荷車をどかせと怒鳴る声。
水を寄越せ、道を空けろ、倉が燃える――。
戦いは終わったはずなのに、町はまだ戦場の真ん中にいた。
「……バルスター」
先に見つけたのは布武だった。
煙の向こう、港の通りを挟んだ先で、バルスターが避難を捌いている。怒鳴っているのに、声は荒いだけじゃない。聞いた者から順に動き出していく、芯の通った声だった。
「まずは、あっち」
短い。
けれど、その目はもう先を見ている。
法原。
座標は掴んだ。
なら、一秒だって無駄にしたくない。そういう目だった。
「言われなくても」
無双は地を蹴った。
肺が熱い。脚も重い。腕も痺れている。けれど、それで止まる理由にはならない。
通りへ飛び込んだ瞬間、男が一人、荷車の脇で半狂乱に喚いていた。
「ふざけるな! あの倉が燃えたら終わりなんだぞ!」
「命が先だ、下がれ!」
バルスターが怒鳴る。だが男は聞かない。振り払うように前へ出る。その先では、燃え移った火が木壁を這い、屋根の端を舐め始めていた。
無双は迷わず踏み込んだ。
男の腕を掴み、そのまま力づくで後ろへ引き戻す。
「離せ!」
「離したら死ぬぞ!」
怒鳴り返すと、男が一瞬だけ止まった。
「荷はまた運べる! でも、お前が焼けたら終わりだろうが!」
その一拍の隙に、布武が横を抜ける。
両手に白炎が灯る。
圧が増す。夜気が張る。
合掌。白炎がすっと消える。
直後、壁際を舐めていた炎が軌道を歪められた。火の流れが押し上げられ、夜空へ逃がされる。
「水だ! 回せ! 使える奴は手伝え!」
バルスターの声が飛ぶ。
「井戸から引け! 水気の奴はこっちだ! 延焼を止めろ!」
その声で、止まっていた人の流れが一気に戻る。
桶を抱えて走る者。
転んだ子を抱えて下がる者。
両手に白炎を灯し、合掌して水を叩きつける者。
火が弾け、蒸気が上がり、熱に押し返されながらも、町が少しずつ息を吹き返し始める。
無双はようやくバルスターの近くまで辿り着いた。
「無事か!」
「そっちこそ――いや、無事って顔じゃないな」
バルスターの目が、無双と布武を順に見た。
布武は何も言わない。火の向こうを見据えたまま、肩で息をしているのに、それを認める気がない背中だった。
「町中こんな感じか?」
「火は抑え始めてる。だが、人の方がまずい」
言う通りだった。
学府会だ、化け物だ、鬼だ、誰が敵だ。見た者も見ていない者も、恐怖だけを膨らませて喚き始めている。誰かが怒り、誰かが疑い、誰かが勝手に正義を始めようとしていた。
無双は舌打ちした。
「まだ終わってねぇってことかよ」
「こういう時の方が厄介だ」
バルスターが言った、その直後だった。
「騒ぐなァァッ!!」
轟音みたいな声だった。
通りを埋めていた喧騒が、叩き潰されたように止まる。
誰かが振り返る。つられるように視線が揃い、ばらばらだった空気が一つの場所へ引き寄せられた。
そこに立っていたのは、ひとりの大男だった。
でかい。
その一言で済ませるには、存在が重すぎた。
無造作に羽織った外套。岩みたいな肩。丸太みたいな腕。年を重ねているはずなのに、身体の芯にくたびれたところがひとつもない。戦場を何度も踏み越えて、それでも折れなかった者だけが持つ重みがあった。
男は通りの真ん中まで進むと、周囲を見渡した。
「火は消せ! 怪我人は運べ! 動ける奴ァ動けねぇ奴を支えろ! 今ここで喚いてる暇があるなら、手を動かせ!!」
命令だった。
だが、それ以上に――逆らうより先に従いたくなる声だった。
荒くれが口を閉ざす。
商人が震えながら頷く。
泣いていた子どもが息を呑み、親が背を押されるように動き出す。
「水だ! もっと引け! 水気術を使える奴は前に出ろ! 倉を守りてぇなら腰を抜かすな! 今ここで止めろ!!」
「お、おう!!」
「井戸から回せ!」
「こっち三人、ついて来い!」
混乱が、統率へ変わっていく。
無双は思わず目を見開いた。
「……なんだ、あいつ」
隣で、バルスターが小さく息を吐く。
「来たか、オヤジ」
「オヤジ?」
「竹田の里の里長。グランツ・バンブフィールド」
その名に、周囲の顔がまた変わった。
強い奴が来た、じゃない。
この人が来たなら、まだ立て直せる。
そう信じる顔だった。
バンブフィールドは数人に指を差す。
「お前は井戸! お前は通りの確保! そっちの水気術、壁沿いを抑えろ! 火を逃がすな!」
速い。
具体的だ。
迷いがない。
見た瞬間に、誰が何をできるか決めている。
「……すげぇ」
無双の口から、自然に零れた。
「だから里長なんだよ」
バルスターが苦笑する。
その時だった。
バンブーの視線が、まっすぐこちらを射抜いた。
太い杭みたいな目だった。
無双は一瞬、背筋の奥に熱が走るのを感じた。
男はずかずかと歩いてくる。
人が自然に道を空けた。
「バルスター」
「はいよ、オヤジ」
「こっちは掴めた。残りはお前が回せ」
「相変わらず雑だな」
「細けぇのは得意だろ」
そう言ってから、バンブーは無双と布武の前で止まった。
近くで見ると、本当にでかい。
見上げるだけで首が疲れそうだった。
「おう。てめぇらが、今回の騒ぎのど真ん中にいたガキどもか」
「ガキ言うな」
反射で返す。
すると男は、口の端をぐいと吊り上げた。
「元気は残ってるじゃねぇか」
笑ったまま、次に布武を見る。
そこで、ほんの一拍だけ空気が沈んだ。
無双には理由まではわからない。
けれど、わかったことが一つだけある。
この男は、ただ豪快なだけじゃない。
布武を見た瞬間、戦場の底に沈めていた何かを引きずり上げた顔だった。
布武はその視線を真正面から受け止める。
逸らさない。揺れない。けれど、その静けさの奥で何かを測っている。
しばらくして、バンブーは鼻を鳴らした。
「……面白ぇ面ァしてる」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
布武が返す。
いつもの柔らかい声だ。だが、温度は少し低い。
「褒めてるさ」
バンブーはそれ以上は言わなかった。
「ここじゃ話しにくい。来い」
「今か?」
無双が眉をひそめる。
「今だ。耳も目も多すぎる」
有無を言わせない声だった。
布武は一瞬だけ黙り、それから踵を返す。無双もその後を追った。
喧騒から少し離れた石壁の影。火の音はまだ遠くで暴れているが、人声は薄い。
バンブーは振り返り、腕を組んだ。
「まずは礼だ。潮継を助けてくれてありがとよ。ここは竹田の里の縄張りだ。燃やされて黙ってられるほど、俺ァ丸くねぇ」
「礼ならバルスターにも言ってやって」
布武が言う。
「言わなくても、あいつはわかってる」
バンブーはそう返し、今度は無双を見る。
「お前もだ、坊主。見た目のわりに、よく前へ出る」
「見た目のわりには余計だ」
「褒めてんだよ」
軽口。
だが、その目は軽くない。
無双を見て、その奥を測る。
布武へ流れ、そこでまた止まる。
無双は、そこで確信した。
この男は、何かに気づいている。
けれど、バンブーは踏み込まなかった。
「聞きてぇことは山ほどある」
低く言う。
「だが、今は聞かねぇ。お前らが何かを隠してるのもわかる。けどな、助けてもらったのは本当だ。それで十分だ」
そして、豪快に笑った。
「だから来い。竹田の里に」
「悪いけど、急いでる」
布武が即答する。
迷いがない。
法原へ向かう。そのためだけに身体を前へ倒している声だった。
「行き先はわかってるんだろ?」
バンブーが言う。
「わかってる」
布武が短く返す。
「なら、話は早ぇ。なおさら里に来い」
布武の目が細くなる。
「だからこそ行くのよ」
声が、さらに低くなった。
「今を逃したくない。あいつに辿り着ける道が見えた。だったら、止まるわけにはいかない」
いつもの柔らかさは、ほとんど残っていなかった。
バンブーはその声を真正面から受ける。
「だったら、削れたまま突っ込むのか」
布武が黙る。
バンブーの目が、二人を一度で見抜く。
煤。傷。呼吸。立ち方。足の運び。全部だ。
「……惜しいのは時間だけじゃねぇだろ」
低い声だった。
「てめぇら、かなり削れてる」
「問題ない」
布武が言う。
「ある」
即答だった。
「まだ動ける」
「気ィ張ってる間だけだ。そういう時に突っ込むと、次の一手で死ぬ」
その言葉に、布武の目がわずかに細くなる。
図星だった。
バンブーは腕を組んだまま続ける。
「法原って奴んとこに行くんだろ」
布武の空気が、ほんの少しだけ揺れた。
バンブーは口の端を吊り上げた。
「図星か。ならなおさらだ。焦って会いに行く相手ほど、万全でぶん殴れ」
「物騒だな」
無双が言う。
「違ぇのか?」
返せなかった。
沈黙が落ちる。
無双だって、止まりたくはない。
法原に繋がる道が見えた以上、ここで足踏みするのは癪だった。
けれど身体の芯に溜まった重さは、もう誤魔化しきれなかった。
それを見て、バンブーは大きく頷いた。
「よし。決まりだ」
「決まってない」
「決まった」
「人の話を聞――」
最後まで言わせなかった。
ぬっと伸びた腕が、次の瞬間には無双の身体を持ち上げていた。
「は!?」
片腕で無双を担ぎ上げ、そのままほとんど間を置かず、もう片方で布武まで掬い上げる。
「ちょ、おい!」
「降ろして」
「駄目だ!」
即答だった。
大男は子ども二人を荷物みたいに担いだまま、ずかずか歩き出す。
「てめぇら、今は休め! 竹田まで俺が運ぶ!」
「寝れるか!!」
無双が暴れる。だがびくともしない。肩が岩だ。背中が壁だ。意味がわからない。
布武もさすがに少し崩れた。
「ほんとに強引だね、君……」
「里長だからな!」
「意味わかんねぇよ!」
後ろから、バルスターの声が飛ぶ。
「オヤジ! そっちは任せた!」
「おう! こっちは連れてく!」
「雑!」
「細けぇことはお前がやれ!」
担がれたまま、無双は振り返った。
潮継はまだ煙を上げている。
けれど、さっきまでとは違う。人が動いている。声が通っている。混乱が、ちゃんと町を守る動きに変わり始めていた。
その真ん中に、バルスターが立っている。
無双は前を向いた。
夜道が伸びている。
竹田の里。
法原を追う前に、そこへ連れていかれる。
「……勝手すぎんだろ、この里長」
頭上で、バンブーが豪快に笑った。
「気に入ったか!」
「気に入るか!!」
「そうか! なら着く頃には気に入らせてやる!」
笑い声が夜道に響く。
布武はそのまま何も言わなかった。
ただ一度だけ、後ろを振り返る。
燃え残る潮継。
掴んだ座標。
まだ遠い法原。
それでも今は、進み急ぐ足より先に――
帰る場所が、二人を捕まえていた。
(第九話・終)




