第十話 竹田の里
肩に腹を押しつけられたまま揺られ続けるのは、思っていた以上にきつかった。
無双は何度目かの上下動で舌を噛みそうになり、顔をしかめる。視界は逆さに近い角度で揺れ、夜道が流れていく。草を裂く音。土を蹴る重い足音。風を押しのける、太い呼吸。
担いでいる男は、二人分の重さなど最初から勘定に入っていないみたいに、速度を落とさない。
「……っ、おい、本当にこのまま里まで行くのかよ!」
返事の代わりに、足音が一段深くなった。
前へ走るというより、道そのものを踏みしめて縮めていくような走りだった。大木が、そのまま人の形で突っ込んでいるみたいだ、と無双は思う。
その途中で、ふと気づいた。
もう一方の肩に担がれている布武が、やけに静かだ。
「……まさか」
首をひねって見ると、布武は本当に寝ていた。長い黒髪が腕からさらりと垂れ、呼吸まで穏やかだ。さっきまで法原の座標を得たことで、今にも飛び出していきそうな空気をまとっていたのに、今は欠片も見えない。
「いや寝るなよ!」
思わず叫ぶと、布武の片目がうっすら開いた。
「……なに?」
「なに、じゃないだろ。なんで寝られるんだよ、この状態で」
布武は半分夢の中みたいな顔で、少しだけ口元を緩めた。
「休める時に休む訓練をしたから」
「訓練でどうにかなる範囲、絶対超えてるだろそれ」
「戦場だと、眠れるかどうかで死ぬから」
さらりと言って、また目を閉じる。
軽い調子なのに、その一言だけが妙に重く残った。無双は口を開きかけ、結局閉じる。
「……俺も寝ようとはしたんだよ。したけど無理なんだよ。揺れるし、腹痛ぇし、景色ずっとおかしいし」
「向いてないのね」
「何にだよ!」
「担がれ睡眠に」
「そんな分野あってたまるか!」
布武の肩が、くす、と少しだけ揺れた気がした。
前から低い笑いが落ちてくる。
「元気だな、坊主」
「元気じゃねぇよ!」
「じゃあ寝ろ」
「寝られねぇって言ってんだろ!」
「布武は寝てるぞ」
「比較対象がおかしいんだよ!」
夜道に笑いが一回だけ弾けた。短い。それだけで、潮継に残してきた火の匂いが少し遠くなる。
それでも、胸の奥の熱までは引かない。
法原。
座標。
今を逃したくないという布武の焦り。
無双自身も、止まる気はないはずだった。なのにこうして、理屈ではなく身体ごと連れていかれている。その落ち着かなさを抱えたまま揺られているうち、やがて前方に灯りが見えた。
ひとつやふたつではない。夜の底に散る火種みたいに、いくつも、いくつも重なっている。
「……里、って」
無双は息を呑んだ。
もっと閉じた集落を想像していた。山の奥にひっそり隠れた村。だが近づくほど見えてきたのは、夜に息づく町並みだった。道があり、石垣があり、重なる屋根があり、灯りが点ではなく線で繋がっている。里というより、城下町だ。
「でかいな……」
「里って名に騙されるな」
バンブーが門をくぐりながら言った。
里と呼ぶのは昔の名残で、今の見た目はもう町だ。
左右に石垣が伸びている。その高さに目を見張った無双は、自然と口をついて出る。
「城はどこだ?」
バンブーの歩みは止まらない。
「昔の戦で失くなった」
あっさりした言い方だった。
だがその一言で、そこにあったはずの時間の重さが逆に浮かび上がる。燃えたもの。崩れたもの。戻らなかったもの。石垣だけが残り、肝心の城だけがない。その不在が、やけに大きかった。
バンブーは鼻を鳴らす。
「城なんぞに住んだら町の様子がわからねえ」
上から見下ろす者の言い分ではなかった。人の中で息をしてきた長の声だった。
門を抜けると、空気が変わった。
炊いた穀物の匂い。焼けた肉の脂。濡れた木の匂い。鉄を打つ音。桶の鳴る音。赤ん坊の泣き声。怒鳴り声。笑い声。
夜なのに、町が死んでいない。
眠れる者は眠り、眠れぬ者は眠れぬまま、それでも誰かの生活が続いている音だった。
人影も多い。人族だけじゃない。耳の長い者、角のある者、毛に覆われた腕で荷を担ぐ者、古傷だらけの男、義手の女。荒くれの顔もいれば、元兵らしい立ち方の者もいる。なのに誰も浮いていない。全部まとめて、この町の空気になっていた。
そんな中、バンブーが子ども二人を肩に担いで現れたというのに、悲鳴は上がらない。代わりに飛んできたのは、こんな声だった。
「オヤジ、おかえり!」
「また拾ってきたのかよ!」
「今度は子ども二人!?」
「怪我してんの? 湯、沸かす?」
「ちっせぇのに血の匂いすんな」
「おい、そういう言い方すんなって!」
心配と野次と笑いが半分ずつ混ざっている。
バンブーは片手をひらりと振った。
「拾ったんじゃねえ。攫ってきた」
「悪化してんじゃねえか!」
「ちゃんと飯食わせろよ、オヤジ!」
「言われなくても食わせる」
「じゃあ私は湯!」
「俺は医者呼ぶ!」
「お前この前も呼びに行って途中で寝てただろ!」
「今日は寝ねぇ!」
どっと笑いが起きた。
まとまりきっていない。口も悪い。誰かが誰かをどつき、別の誰かが止める。だが崩れてはいない。騒がしいまま、ちゃんと回っている。
無双にもわかった。この男は恐れられているんじゃない。信じられているのだ。
やがて着いたのは、城ではなく大きな古民家だった。
門構えは立派だが、威圧感はない。太い柱。広い土間。縁側。何度も直されてきた木の色。大きいのに、ちゃんと人が住んでいる匂いが濃い。
戸を開ける前から、もう中が騒がしかった。
「オヤジ!」
「遅かったじゃん!」
「港、どうだった!?」
「医者呼ぶ!?」
「うわ、ほんとに寝てる!」
「寝顔かわい――って痛ぁっ!」
「今そういうこと言うな!」
大人から子どもまで、どっと人が出てくる。鍋を持ったままの女、手ぬぐいを肩にかけた男、眠そうな子どもまでいる。全員がバンブーに遠慮なく声をかけ、そのついでのように無双たちを見る。
バンブーは二人をようやく下ろした。
地面に足がついた瞬間、無双は少しふらつく。布武は、下ろされたところでようやく両目を開けた。
「よく寝た」
「寝たんだな、やっぱり!」
何人かが吹き出す。
無双はむっとして言い返しかけ――やめた。
笑い声が、嫌じゃなかった。
誰かが湯を持ってきて、誰かが手ぬぐいを差し出し、誰かが「腹減ってるだろ」と勝手に決める。その雑さが妙に自然で、善意を押しつけられている感じがしない。ここではそれが、いつものことなのだ。
その空気を見て、無双は気づけば少し笑っていた。
ほんの少し。けれど、自分でもわかるくらい力の抜けた顔だった。
「へえ」
横から声がした。
振り向くと、朱里がいた。潮継で見た人獣族の少女だ。相変わらず、じっとしているようでしていない目をしている。
「そんな顔できたんだ、無双」
「どういう意味だよ」
「潮継じゃ、ずっと噛みつきそうな顔してたから」
「誰のせいだと思ってんだ」
「だいたい、みんなのせい」
「否定しねえのかよ」
朱里はけらけら笑い、次の瞬間にはもうバンブーへ向いていた。
「港の方、火はだいぶ抑えたって。バルスターのアニキが残って回してる。荷の流れも荒城の月が押さえた」
「そうか」
短い返事。だが無双の中で、ひとつ繋がった。
「……お前、潮継のこと伝えたのか」
朱里が胸を張る。
「うん。港の空気、変だったし。アニキも嫌な顔してたから、先に飛ばした」
「そしたらオヤジが勝手に出てった。嫌な匂いがする、とか言って」
「勘っていうか、長年の鼻じゃねえか?」
「オヤジ、危ねえ匂いすると勝手に来るもんな」
「大体当たるから困るんだよな」
偶然ではなかった。
人が見て、人が伝え、人が動く。里の中で情報が流れている。その中心にバンブーがいる。
無双は改めて周囲を見回した。
土間では若い男が壊れた籠を編み直している。奥では角のある大柄な女が鍋を混ぜ、その隣で小柄な老人が帳面に何かを書きつけていた。縁側では腕を吊った男が子どもに木刀の持ち方を教え、その向こうでは耳の尖った娘が洗濯物を取り込んでいる。部屋の隅では、元兵らしい厳つい男が黙って刃こぼれした包丁を研いでいた。
休んでいる者も、働いている者も、同じようにそこにいる。
「……ここ、なんなんだ」
口からこぼれたのは、感想半分、問い半分だった。
近くにいた中年の男が、肩をすくめる。
「なんだって、町だよ」
「あ?」
「飯食う奴がいて、寝る奴がいて、働く奴がいる。怪我したら治して、無くしたら代わりを探す。帰る場所が無いなら、とりあえずここに置いとく。そういう町だ」
「置いとくって……」
「最初はみんな、そんなもんだ」
別の女が手ぬぐいを畳みながら口を挟む。
「そのうち勝手に居つくか、勝手に出てくか、勝手に誰かの面倒見る側になる」
「衣食住と仕事、ってやつだな」
「それっぽく言うとね」
言葉は軽い。だがその軽さの裏に、長く続いてきた仕組みが見える。
バンブーが腕を組んだ。
「ここは、帰る場所を失くした奴を呑み込む場所だ。食わせる。寝かせる。動けるようになったら働かせる。働けねえなら、働ける形を探す」
「里、っていうより……」
「町だろ。里と言ってんの昔の名残だから気にすんな」
さっきと同じ答えが返る。
今度は、その意味が少しわかった。
隠れ里ではない。選ばれた者の場所でもない。綺麗な避難所でもない。削れた者、溢れた者、行き場を失くした者を、雑にでも受け止めて生かしている場所。
「潮継も、ここの縄張りなの」
布武が確認するように言う。
「ああ」
答えたのは朱里だった。
「潮継だけじゃないよ。黒帳に近いとことか、荒れやすい町とか、見捨てられやすいとこ。荒城の月がそれぞれ受け持ってる」
「荒城の月……ギルドの名か」
「大きく言えばな」
入口の柱にもたれていた男が答える。
「運び屋もいりゃ、用心棒もいる。見張りも火消しも、揉め事の仲裁もする。縄張りごとに顔は違うが、繋がってる」
「見捨てられる場所ほど、こっちで抱えるしかねえからな」
ぼそりと落ちた一言に、無双は眉を寄せた。
「……なんで、そこまでやるんだ?」
潮継を思い出す。火の匂い。削れた空気。余裕のない人の顔。放っておいた方が、絶対に楽だ。
「放っといた方が楽だろ」
「楽かどうかで言や、そりゃ放っとく方が楽だ」
柱にもたれていた男が鼻を鳴らす。
「でも、放っとくと後で余計に厄介になる」
「黒帳に近い町ほど荒れやすいからね」
鍋の女が、混ぜる手を止めずに言った。
その単語に、無双の中で何かが動いた。
黒帳。
その言葉は、頭の中で黒い布のように広がった。何かを覆い、侵し、奪っていくもの。ちゃんと説明できるほどではない。けれど、嫌なものだという感覚だけは先にあった。
「……黒帳の近くって、そこまでひどくなるのか?」
その一言で、空気がふっと止まった。
帳面をめくっていた老人が顔を上げる。包丁を研いでいた男が手を止める。子どもに木刀を教えていた男まで、ちらりとこっちを見る。
「無双は記憶を失ってるの。ところどころ、常識が抜けてるだけ」
誰かが言いかけるより早く、布武が口を開いた。
「知らないわけじゃないの。ただ、曖昧なのよ」
「ああ……そういうことか」
「悪ぃ」
「いや、いいのよ」
空気が少しゆるむ。
無双はわずかに視線を落としたが、バンブーが低く言った。
「別に悪かねえ。曖昧なら聞けばいい」
責めるでも、諭すでもない。そこで生きてきた者の声だった。
少し離れたところで、鍋の女が湯気を払う。
「黒帳に近い土地は、水がまずくなるのよ」
「まずくなるっていうか、腐りやすくなるし、腹も壊しやすい」
帳面の老人が続ける。
「土も痩せる。作物も育ちにくくなる。年によっちゃ、見た目は育ってても中身がすかすかだ」
「気術も乱れやすいしな」
柱の男が肩をすくめた。
「合掌の感覚が妙にずれる日がある。使えなくなるわけじゃねえが、ああいうのは地味に嫌だ」
「昨日まで平気だった場所が、急に嫌な感じになることもある」
「井戸水が変な匂いになることもあるし」
「家畜が妙に怯えたりな」
ぽつり、ぽつりと返ってくる言葉は、どれも生活の話だった。
学者の講義じゃない。そこで食ってきた者の言葉だ。
無双の中で、潮継の景色が少しずつ繋がっていく。火の匂い。荒れた空気。張りついた警戒。町全体にこびりついていた、あの余裕のなさ。
「……だから、人が逃げるのか」
「逃げる。逃げたあとの町は、残ったもんだけで回さなきゃならねえ」
包丁を研いでいた男が、ようやく口を開いた。
「回らなくなりゃ、盗みも揉め事も増える。公の連中は、そういうとこほど後回しだ」
「だから荒れるの」
朱里が言う。
「黒帳に近い町ほどね」
「潮継みたいに?」
無双が聞くと、朱里は頷いた。
「潮継はまだマシな方。あそこは港があるから、人も物も流れるし、踏ん張れる。もっと酷いとこは、ほんとに沈むよ」
「だから守るのよ」
鍋の女が当然みたいに言った。
「放ってたら、荒れた町がひとつ増えるだけじゃ済まないもの」
「近場が崩れりゃ、どうせこっちも巻き込まれるしな」
柱の男が肩を鳴らす。
「見捨てられる場所を拾って、食える形に戻す。うちはそれを縄張りごと抱えてる」
「荒城の月が動く」
「火消しも運びも仲裁もやる」
「正義の味方ってほど綺麗なもんでもねえがな」
「でも誰かがやらなきゃ、もっと酷くなる」
誰かのぼそりとした一言に、場が静かに同意した。
そこで、バンブーが鼻を鳴らす。
「誰も守らねえ場所を、誰かが拾わなきゃならねえ。それをうちがやってるだけだ」
それだけだった。
立派な旗も、綺麗な理屈もない。だがその言い方が、いちばん強かった。
帳面を持った老人が、ぽんと膝を叩く。
「竹田の里は、黒帳から少し離れてる。だからまだ、水も土も持つ。流れてきた奴を受けるには都合がいい」
「寝床と飯を渡して、動けるようになったら働かせる」
「働けねえなら、別の役目を探す」
「それでまた、次の町を支える手になる」
会話は短い。だがその短さの中で、里の仕組みが見えてくる。
黒帳は秘密でも伝説でもない。
ここで生きる者にとっては、今日の飯や明日の寝床と地続きの話なのだ。
無双は小さく息を吐いた。
「……そういう世界で、ずっと生きてきたのか。みんな」
布武が静かに言う。
「そういう世界で、ずっと生きてきたのよ」
その言い方はやわらかいのに、妙に胸に残った。
バンブーが無双を見る。
「だから、黒帳に近い町は見捨てられやすい。荒れやすい。壊れやすい」
ひとつずつ、杭を打つように言う。
「竹田の里は、そういう場所を引き受ける」
無双は黙ったまま、土間の向こうを見た。
湯気の立つ鍋。働く手。傷のある顔。眠そうな子ども。笑う声。怒鳴る声。生き延びた者たちの音。
ここは、ただ賑やかな町じゃない。
崩れやすい世界の中で、崩れきらなかった場所なのだと、少しだけわかった。
その時、腹の鳴る音がした。
静まり返るほど大きくはなかったが、近くにいた連中には充分聞こえたらしい。
一拍の沈黙の後、家の中がどっと笑う。
「まず飯だな!」
「話はそれからだ!」
「坊主、顔真っ赤!」
「真っ赤じゃねえ!」
「飯の匂い嗅いだらそりゃ鳴るだろ」
「それを今言うな!」
むきになる無双の肩に、太い手が落ちた。
バンブーだった。
「いい面だ」
「は?」
「腹が鳴るってのは、生きる気がある証拠だ」
そう言って、顎で奥をしゃくる。
「食って、湯浴びて、寝ろ」
命令口調なのに、不思議と反発しきれない。
布武が口を開く。
「でも、法原の――」
「逃げねえよ」
バンブーは即答した。
「座標が出たなら、なおさらだ。お前らみてえな顔のまま行かせる方が、よっぽど取り逃がす」
その一言で、布武の言葉は止まった。
責めているわけじゃない。止めるために止めているのでもない。行かせるために、今は休ませるのだとわかる声だった。
布武はほんのわずかに目を伏せる。
「……わかってる」
たぶん、半分しか納得していない。
それでも言い返さなかった。
食事はうまかった。
腹が減っていたせいだけじゃない。出されたのは特別な料理ではない。湯気の立つ粥、焼いた肉、塩気の効いた汁物、漬けた野菜。それだけなのに、身体の奥へ真っ直ぐ落ちていく。
無双は最初こそ遠慮しかけ、すぐに諦めた。遠慮が許される空気ではない。足りなければ足されるし、遅ければ急かされる。周りは勝手に喋り、笑い、皿を運び、布武には「寝ながら食うな」と誰かが言っていた。
「寝ながらは食べてないわ……」
「今の声、半分寝てたぞ」
「……起きてるわよ」
「もう半分寝てるじゃねえか」
無双は吹き出しそうになって、慌てて汁を飲み込んだ。
湯浴びまで済ませる頃には、身体の芯に溜まっていた疲れがようやく自覚できるくらい浮いてきた。
戦っている最中は気づかない。止められて初めて、どれだけ削れていたかがわかる。
通された客間は広い和室だった。窓を少し開けると、夜気と一緒に町の音が細く入ってくる。遠くの笑い声。桶の鳴る音。見回りの足音。完全な静寂ではない。だからこそ、人が生きている場所の夜だと思えた。
無双は窓辺に座ったまま、しばらく外を見ていた。
城はない。
でも灯りがある。
傷跡は残っている。
でも人がいる。
帰る場所。
そんな言葉が自分に関係あるとは思っていなかった。けれど今夜だけは、その輪郭に少し触れた気がした。
「……変な感じだな」
独り言のつもりだった。
「なにが?」
振り向くと、布武が布団の上に座っていた。髪を下ろし、いつもの余裕を少し取り戻した顔をしている。だが目の奥だけは、静かに冴えていた。
「いや。こういう場所」
無双は言葉を探す。
「知らねえはずなのに、知らない感じがしないっていうか……落ち着くのに、落ち着いていいのかわかんねえっていうか」
布武は少しだけ目を細めた。
「いいんじゃない?」
「そんな簡単に言うなよ」
「簡単なことよ。休める場所で休めないと、先で死ぬ」
「またそれか」
「本当だもの」
冗談みたいに言う。だがその声は、やはり戦場を通っている。
無双は窓の外へ視線を戻した。
「布武は、休めるのか」
「休んでるわ」
「心は?」
沈黙が落ちた。
夜の町の音が、細い糸みたいに部屋へ入ってくる。
布武はすぐには答えなかった。やがて、静かに言う。
「……向こうに置いたまま」
向こう。
法原のいる場所。まだ見ぬ、その先。
「でも、身体だけでも止めておく。今はその方が、早く着けるから」
焦っていないのではない。焦りが強すぎるから、逆に冷えて見えるのだ。
無双は鼻を鳴らした。
「ほんと、変なやつ」
「あなたに言われたくない」
「どこがだよ」
「担がれ睡眠ができないところ」
「そこ引っぱるな!」
布武が小さく笑う。
その笑いを聞いたとき、無双は少しだけ安心した。布武はまだ先を見ている。ここで止まるつもりはない。けれど、完全に一人で走っているわけでもない。
窓の外では、見回りらしい声がした。
遠くで「異常なし」と短く返る。
そのあと、別の場所から低い笑い声が重なる。
誰かが町を守っている音だった。
無双は布団に倒れ込む。
「……明日、行くんだろ」
「ええ」
「止められても?」
「必要なら振り切るわ」
「言うと思った」
「でも」
布武が続ける。
「たぶん、あの人は止めるだけじゃない」
あの人。バンブーのことだ。
「送り出す前に、なにかする」
無双も同じ予感がしていた。あの目は、人を寝かせるだけの目ではない。見て、量って、確かめてから放す目だ。
「面倒くさそうだな」
「ええ。たぶん、とても」
「でも、嫌じゃねえな」
言ってから、自分で少し驚いた。
布武は何も返さない。ただ、静かに頷いた。
その時だった。
廊下の向こうを、ひとつだけ重い足音が通った。
止まらない。
けれど、通り過ぎる一歩ごとに存在感だけが残る。
無双は薄く目を開ける。
「……今の」
「たぶん、あの人」
布武が小さく言う。
見回りにしては重すぎる。寝る前の足取りにしては、まっすぐすぎる。
まるで、もう明日のことを決めている足音だった。
夜は深い。
それでも、この町の夜は暗すぎなかった。
誰かの暮らしの音がして、誰かの見張る気配がして、風が屋根を撫でていく。無双の瞼は、今度は自然に重くなった。担がれたままでは一睡もできなかったのに、不思議なくらい早い。
「無双」
眠りに落ちる直前、布武の声がした。
「なに……」
「おやすみ」
それだけだった。
無双は目を閉じたまま、口の端を少し上げる。
「……おう」
竹田の里の夜が、二人を一晩だけ捕まえる。
先へ行くための足を、止めるのではなく、明日の地面へ戻すために。
そしてその明日が、ただの出発にはならないことを、まだ二人は知らない。
(第十話・終)




