第六話 港の番号
潮の匂いは、熱じゃなく湿りだった。
濡れた縄の臭み、魚の脂、油の焦げ。木箱の甘いカビと、錆びた鎖の金属臭が混ざって、鼻の奥に残る。
滑車が鳴り、鎖が擦れ、号令が飛ぶ。
荷車が何列も流れ、帆柱の影がいくつも重なる。視界の端から端まで、港が動いている。
無双が思わず言った。
「この港……大きな!」
声に、ほんの少しだけ弾むものが混じる。
すぐに咳払いして、無双は倉庫の列へ視線を戻した。
布武は周囲を見回し、落ち着いた声で言う。
「うん。たぶん、一般的な港よりずっと大きいと思うわ」
大きい――それだけで、隠れる場所も、紛れる列も、嘘の混ぜ方も増える。
無双の背中だけが妙に静かだった。見えない視線が貼りついている。振り返っても、いるのは荷を運ぶ人間ばかりだ。それでも“見られている”感じだけが消えない。
布武が小さく息を吐いて、前を指した。
「23ポートを探すわよ」
無双は頷く。
「……念のため。どこまで踏み込む?」
「踏み込むのは“情報”だけ。ボムスンが言ってた取引場所――“23ポート”を押さえる。
次の出荷が今夜。その前に明るい時に、場所と流れを掴む」
「了解」
布武は倉庫区画を示した。柱の黒い数字、掲示板の符号、荷札の束。港の流れ。
「今は幻成学府会に繋がる情報を、少しでも手に入れたいわ」
「そうだな」
無双が倉庫区画へ踏み込もうとした瞬間――
「無双」
布武の声が落ちた。
さっきまでの弾んだ温度が、すっと引く。
「……後ろ。見ないで」
無双は足を止める代わりに、歩幅だけを変えた。
振り返りたい衝動を喉の奥へ押し込む。
「……何がいる」
「わからない。けど距離を縮めてきている」
布武は淡々と言う。説明じゃない。判断だけ。
無双は布武を横目で見た。
その口調が、さっきまでと別物だ。
「……布武」
「なに?」
「喋り方。雰囲気が急に変わるよな」
布武が一瞬だけきょとんとする。
自分の声を、今そこで初めて意識したみたいに。
「そう?」
「さっきまでと違う。……カーヴァンの時は、もう少し軽かった」
無双は言いながら、自分でも雑だと思う。
布武のことを全部思い出しているわけじゃない。
でも、あの町で聞いた調子と今の落差だけは分かる。
布武は歩きながら、ほんの少しだけ考えてから言った。
「自覚ないなぁ。……でも、危ないって思うと、こうなるのかも」
次の瞬間、布武は無双の袖を軽く引いた。
無双の進路が、倉庫の柱の影へ滑る。荷車の列に溶ける角度。視線を切る角度。
鎖の音が一拍遅れた。
――誰かの足が止まって、また動いた。
「追ってるのは港の人じゃない。歩幅が違う」
「じゃあ、誰だ」
「まだ分からない。……でも今は振り返らない方がいい」
布武の声は淡々のまま、無双の背中を押した。
港の案内板が見えた。
桟橋の番号がずらりと並ぶ。倉庫区画図もある。
無双は視線だけで数字を拾う。十九、二十、二十一、二十二――
二十二までしか、ない。
そこで終わっている。次の欄は空白じゃない。最初から枠がない。
「布武。本当に23ポートで間違いはないか」
「間違いないわ」
無双はもう一度、下の注記まで目を走らせた。
臨時の荷捌き場、夜間の特設桟橋、工事中の区画。どこにも“二十三”の文字は出てこない。
港の案内に、そもそも「23」が存在しない。
――つまり、ここで言う「23」は、港の表の番号じゃない。
遠くで短い笛が鳴った。
港のどこにでもある合図のはずなのに、音が鋭かった。
布武の声が落ちる。
「……気配が消えた」
「確かに」
前方の倉庫の影から、低い声が混じった。
「23は“場所”じゃねぇ。探しても無駄だ」
倉庫の影が、短く手を振る。
長居しない合図。港の合図。
布武が一歩、そちらへ寄る。
無双も足を止めず、距離を詰めた。
「……こっちだ」
低い声。若い。
日に焼けた肌、硬い手、荒れた指先。荷を扱う体だ。
男は無双を一度だけ見て、すぐ布武へ視線を移した。
「二度目だな、布武」
布武の表情がふっと柔らかくなる。
「うん。3日ぶりね、バルスター」
「立ち止まるな。歩きながら話す」
男――バルスターは言い捨て、倉庫の陰を顎で示した。
そこに数人の影が固まっていた。
大人と子ども、顔を伏せた女。翼のある子もいる。
複数の種族が混在していた。目だけが同じだ。
帰る場所を無くした者の目だ。
バルスターは声を張らず、でも迷いなく指示を飛ばした。
「二列。小さいのは真ん中。荷車の外側に出るな。――目は上げろ。下見て歩くと遅い」
荒い言い方なのに手は雑じゃない。
泣きそうな子の肩を一度押して列へ戻す。慰めない。止めない。だが、その手は優しかった。
バルスターが無双を見る。
「そっちは誰だ」
無双は一拍だけ迷い、短く答えた。
「無双」
「……そうか」
それだけ。余計な愛想はない。
布武が無双の横で、声を少しだけ落として言った。
「3日前にね。ボムスンに捕まっていた人たちを逃がしたあと、彼にあとを託したの」
無双は視線だけで布武を見る。
「……よく初対面の相手にまかせたな」
布武は小さく頷いた。
「竹田の里の運び屋、バルスターは有名よ」
「有名?」
「うん。――“帰る場所を無くした者”を運ぶ人。ギルドで名前が通ってる」
言い切ったあと、布武の声の余計な色が少しだけ落ちた。
「だから、任せた。……任せるしかない場面だったから」
バルスターは倉庫の柱の番号を見る。指先で汚れを払う。
次に掲示板へ目を走らせる。船の出入り、短い符号、荷の欄。
――倉庫番号と船の符号を照らし合わせて、今夜どの線が動くかを当てている。
23に繋がる“合図”が出るなら、必ずどこかの番号に癖が残る。
説明はない。
無双も視線を追った。倉庫番号。船番号。積み荷番号。
数字はばらばらに見えるのに、並び方に規則がある。増え方、間隔、転記の癖。
その中に、ひとつだけ“揃いすぎた”並びが混ざっていた。港の雑さがない。誰かの癖で整えられた数字。
布武が目だけで拾って、声を落とす。
「……これ、港の書き方じゃない。整いすぎてる」
バルスターが小さく舌打ちした。
「まだ、奴らの取引場所が掴めねぇ」
「奴らって、学府会のことか?」
無双が聞くと、バルスターは倉庫の影へ視線を投げた。誰もいない場所を見ている。
「名前を知ってるなら話が早い。……ただし、来る保証はねぇ」
「なんで」
「ボムスンが捕まった。港まで話が降りてきてる」
無双は一拍、言葉が出なかった。
「……捕まった?」
無双は、布武を見る。
「ごめん。あの状況じゃ捕まっててもおかしくないわよね」
悪びれた感じじゃない。
“今それ言う?”の軽さだけが、逆に布武らしかった。
バルスターが言った。
「だから今夜、奴らは“止まる”か、“形を変える”。慎重になる。厄介なのが混じってるならな」
無双は、その言い方に引っかかった。
“だから今夜”。まるで、今夜取引があることを知っている口ぶりだ。
「……なんでそこまで分かる」
バルスターは倉庫の陰――固まっている影に目をやった。
大人と子ども。顔を伏せた女。さっきから彼らは、港の音の中で息を殺している。
「今夜の取引されるはずだった商品ってのが――こいつ等だ」
無双の眉がわずかに動く。
「……商品」
言い直したかった。人だ、と。
でも言い直した瞬間、正しさで目の前の現実を少しだけ誤魔化す気がして、無双は黙った。
バルスターは淡々と続ける。
「ボムスンは商品を集めるルートを複数持ってた。ひとつ潰れても、別で集める。港に流す線も、一本じゃねぇ」
布武が、短く息を吐いた。
同情でも怒りでもなく、状況を飲み込む呼吸。
「だから、ボムスンが落ちても“今夜”が残る。可能性は半々ってところね」
布武の声は落ち着いている。
バルスターは頷いた。
「そういうことだ。……で、ここを警備してた連中は片づけた」
無双は思わず目を細める。
「片づけた、って……殺したのか」
バルスターは一瞬だけ無双を見る。
そして、肩をすくめるほどでもなく答えた。
「動けなくした。港で血は出せねぇ。――騒げば、里にまで迷惑をかける」
“里”。
無双はその単語を口の中で転がす。
竹田の里。帰る場所を無くした者が戻れる場所。バルスターの優先順位は、そこにある。
布武が無双の横で、軽く言った。
「バルスター。私たちを付けてきてたのって……もしかして、あなたの仲間?」
バルスターが答える前に、背後から声が割り込んだ。
「よく気づいたな! この私の尾行に!!」
無双は振り返らない。
けれど、今の声は“港の雑音に紛れる音”じゃなかった。雑に目立つ。
布武が肩越しに、ちらりと見る。
そこに立っていたのは、無双たちとそう年齢の変わらない少女だった。
髪は短く、目がやけに元気で、胸を張っている。隠す気がない。
「朱里。静かにしろ」
バルスターが低い声で言った。
叱るというより、刃物みたいに短い。
「えへへ。すみません、アニキ!」
朱里――と呼ばれた少女は、勢いよく頭を下げてから、すぐ顔を上げる。
「こいつら、ボムスンの館で暴れたあと、一直線に港に向かってたんです! 怪しいと思って付けてました! まさか、アニキの知り合いだったとは!」
無双は、拍子抜けしたように目を細めた。
「……お前だったのか。へたくそ過ぎて、逆に罠かと思ったぞ」
「なんだとお前!! 表に出るのだ!! 私の力を思い知らせてやる!!」
「……うるさい」
バルスターがもう一度だけ言う。
それだけで朱里の口が、ぴたりと止まった。
布武が、どこか面白がるように言った。
「元気だね」
「元気です!」
朱里は即答してから、急に真面目な顔になる。
「アニキ、命令は?」
バルスターは荷車を見る。
「朱里。こいつらを一度、里に連れて帰れ。先に戻って、受け皿を整えろ」
「りょーかいです! アニキ!」
朱里は駆け足で荷車の前へ回る。
そして、息をひとつ吸って――身体の輪郭が変わった。
人の形は残したまま、肩から腕にかけて毛並みが走り、指先が爪へ変わる。
足が地面を噛む。獣の気配が、少女の中からせり上がってくる。
人獣族。
無双はその変化を見て、言葉にしないまま理解した。
朱里は荷車の持ち手を掴み、無双たちへ振り向く。
「無事に里まで送り届けますので、安心して下さい! ではアニキ! 先に里で帰りをお待ちしています!」
荷車が動く。
港の流れに溶けるように、朱里はあっという間に人混みへ紛れた。
――騒がしい尾行は消えた。
けれど、無双の背中の“静かな視線”は、まだ残っている。
それは最初から、別の高さにあった。
無双はそれを、言わない。
布武も、同じことを分かっている顔で、いつもより淡々と息を吐いた。
「……本命は、別ね」
バルスターは頷き、倉庫の奥――港の影へ視線を投げた。
「くそみたいな取引。里に近づけさせない」
「けど、23ポートがどこだか分からないんだよな」
無双が呟くと、バルスターは鼻で息を吐いた。
「分からないのが正しい。――23は“場所”じゃねぇ」
その時、遠くで笛が鳴った。
さっきより短い。鋭い。
荷車の列が、同じ角度で一瞬だけ揃う。
バルスターが、港の流れを見たまま言う。
「今夜、あの合図が鳴った場所が“23”になる」
無双の喉が鳴った。
「……じゃあ、俺たちが待つ場所は」
「“場所”じゃない。“合図”だ」
バルスターは一枚の紙を出した。
そこには数字じゃなく、笛の長さと回数が殴り書きされている。
「今夜は長くなる。――合図の癖を読むぞ」
その瞬間、背中の静かな視線が、もう一段だけ近づいた。
(第六話・終)




