第五話 雷砲
門が、内側から開いた。
閂を外したのは門番じゃない。
その陰から、狼の獣人が出てくる――ルーガだ。昼の光を背負って、悠々と。
毛並みは煤けた灰。肩幅が広く、首が太い。何より――目が笑っていない。
「……ここへ来ると思って追わなかったが、まさか正面からとはな」
門の向こうは館の敷地。だが今、二人が立っているのはまだ外だ。
石畳の通り。人の足が速いカーヴァンの“表”のど真ん中。
ルーガが鼻先をわずかに上げる。空気を舐めるように吸った瞬間、顔が歪んだ。
「くせぇ」
その一言で、門番の足が止まった。
ルーガは門を背にして外へ出る。わざわざ無双の前まで歩いてくる。見下ろす形になる体格差は歴然だ。
周りの人間は、見た。
そして、巻き込まれないように。視線だけ投げて、足だけ速める。
無双は拳を握ったまま、相手の手元を見る。
武器はない。爪も牙も見せびらかさない。
――なのに、圧がある。隙を見せれば噛み殺される、と身体が先に判断してしまう。
「ボムスンに会いに来た」
無双が言うと、ルーガは笑った。喉の奥で獣の音が鳴る。
「会わせるわけねぇだろ」
ルーガは、開いたままの門を親指で示した。
「いいか、ガキ。ここの“門”は俺だ。
開けてほしけりゃ――実力を見せな」
門番が笑って、縄を撫でる。
さらに奥から複数の警備が出てきて、門の内側に並ぶ。今にも閉める気だ。外にいるうちに捕ってしまえばいい、という算段が透ける。
無双はその動きを横目で捨てて、ルーガだけを見る。
「……分かった」
そして、少しだけ肩の力を抜いた。
緊張を解いたのではない。――“余計な力”だけを落とした。
次の瞬間。
無双は一歩も中へ入らないまま、通りの石畳を踏み込んだ。
踏んだだけなのに、音が違う。空気が縮む。
ルーガが眉を動かした、その刹那――
無双の蹴りが、まっすぐ胸に刺さった。
ドガン!!
爆ぜたのは音じゃない。
ルーガの身体だ。
灰色の狼が、門よりも先に吹き飛ぶ。
背中から開いた門へ突っ込み、蝶番が悲鳴を上げ、鉄が歪む。硬いはずの門が巨大な塊ごと持ち上がり、内側へ叩き倒された。
「――っ!?」
館の中にいた警備が、反射で身をすくめる。
粉じんと火花の向こうで、ルーガが床を削りながら転がり、壁際で止まった。
沈黙が一拍。
次に聞こえたのは、笑い声だった。
「……っは。やるじゃねぇか」
ルーガは膝をつき、首を鳴らしながら立ち上がる。
頬の端から血が一筋。だが目は、むしろ楽しそうに細まっていた。
蹴り足を下ろした無双は、まだ門の外にいる。
敷地の境界――倒れた鉄扉の向こうへは、踏み込まない。
拳をほどかないまま、無双が言った。
「……通っていいか?」
ルーガの口角がさらに上がる。
「いいねぇ。……いい蹴りだ」
門番が凍りついたまま、縄を握りしめている。
誰も理解できない。子どもに見える“こいつ”が、獣人を――門ごと吹き飛ばしたことが。
ルーガは笑いながら、ゆっくりと腕を広げた。
「来いよ、ガキ。遊んでやるよ」
無双は一歩前に出る。
視線はぶれない。
――倒すのが先だ。
◇
轟音が、屋敷の奥まで届いた。
グラスの中の酒が揺れて、机の上の金貨がカチリと鳴る。
ボムスンは指輪のついた手でそれを押さえた。押さえたところで、心臓の跳ねは止まらない。
「……何だ、今の音は」
廊下の警備が顔を出す。「門の方です!」
その声が終わる前に、さらにもう一つ――金属が軋む音が重なった。鉄が悲鳴を上げる、嫌な音。
ボムスンは立ち上がった。自分で行くつもりはなかった。
なのに足が動く。動かされる。
自室の格子窓。
そこに近づくほど、空気が粉っぽくなる。外から舞い込んだ粉じんだ。
カーテンを少しだけ開けた。
門が――倒れている。
ありえない角度で歪んだ鉄扉が、屋敷の内側に転がっていた。
そして、その倒れた門の向こう。
門前の石畳で、子どもが立っている。小さい。黒髪。
ボムスンの喉が鳴った。怒りより先に、嫌悪が湧く。
“あの時”の記憶が、勝手に背中を掻く。
――また来たのか。しかも、正面から。
その子どもの前に、灰色の狼が立っていた。
普段つまらなそうに仕事をこなすルーガが――笑っている。
「おい……ルーガ……!」
返事は届かない距離だ。
代わりに、門前でまた空気が縮む。戦いの匂いがする。
ボムスンが窓枠を掴み直した、その時。
背後で、倒れる音がした。
鈍い。人が倒れる音。
しかも二つ、続けて。
「おい、警備!何が起きている!!」
返事はない。
ボムスンが振り向くと、部屋の扉が開く。
少女が入ってきた。
その後ろの廊下に、警備が転がって見える。
血は少ない。首も折れていない。意識だけが落ちている。
少女は近づいてくる。腰までの黒髪。子どもより少し大きい体。
だが顔を上げた瞬間、ボムスンの背中に冷たいものが走る。
この目だ。
静かで、薄く笑っていて、笑っていない。
少女はボムスンの前で止まった。息が乱れていない。
戦った直後の人間の息じゃない。
「ボムスン」
名を呼ばれただけで、ボムスンは一歩引いた。机にぶつかり、金貨がまた鳴る。
「……お前はいったい何なんだ……!」
少女は名乗らない。
名乗る必要がないという顔で、言った。
「幻成学府会。連絡の取り方」
ボムスンの喉が詰まる。答えないのは怖い。答えるのも怖い。
視線が逃げ、窓の外――門前へ吸い寄せられる。
門前の子ども。灰色の狼。
今、こちらにいる少女。
――子どもだ。子どものはずだ。
なのに、なぜこんなに怖い。
少女がもう一歩近づく。
「知ってること、全部」
「し、知らねぇよ!」
声が裏返った。
嘘を吐くつもりはない。吐いても通じないと身体が知っている。
少女は急がない。
急がないから怖い。
「じゃあ」
淡々と、次の言葉を落とす。
「思い出すまで、ここにいればいい」
「……っ」
“期間”が含まれていた。逃げられない時間。逃げられない部屋。逃げられない目。
ボムスンは反射で窓の外へ視線を逃がした。
(……頼むぞ、ルーガ)
その祈りが、どれだけ薄いか自分で分かっているのに。
◇
門の外。石畳の上。
無双は構えを崩さないまま、息だけを整えていた。
ルーガは笑っている。
あの笑いは余裕じゃない。――“楽しい”の笑いだ。
「いいねぇ……中央広場での蹴り、返してきたか」
無双は口角だけ上げる。
「効いただろ」
「効いた効いた。……でも足りねぇ」
ルーガが一歩、早い。無双との距離が消える。
無双は半歩外へ。肘を立て、拳を肩でいなす。
ズン、獣の体重が骨に乗る。掠っただけで布が裂ける。
「くせぇ」
ルーガが吐き捨てる。
だがそれは悪態じゃない。鼻先がわずかに上がり、吸う息が短くなる。
――来る。
ルーガは両手を開く。
掌が――白く燃えた。
火じゃない。煙でもない。
白い熱が皮膚の上を走り、輪郭を際立たせる。
左は静かに整い、右は荒く膨らむ。そこに“差”が生まれる前に――ルーガが噛み合わせる。
言霊が落ちた。
「——番内【狼躍〈ろうやく〉】」
白い燃えが“芯”を持ち、両手が釣り合う。
合掌。
成立した瞬間、石畳が鳴った。
獣の踏み込みが、ひとつ上の段に跳ね上がる。
膝が重い。
爪が速い。
間合いが“壊れる”。
無双は頬を紙一枚で避けた。
避けたのに熱が走り、血が落ちる。遅れて皮膚が痛む。
ルーガは楽しそうに笑った。
「いい顔だ。追いつかねぇって顔」
無双は一歩退いた。
(……やばい、早い)
見てる。反応してる。――なのに追いつかない。
ルーガの足が滑る。跳ばない。滑る。距離が“消える”。
爪が来た。
無双は肘で受ける。
ズン、と骨が沈む。痺れが腕から肩へ走った。
「っ……!」
次は膝。腹を抉る角度。
無双は半歩外へ逃げるが、遅い。息が抜ける。
無双は拳を返す。
顎、喉、肋、脇腹、脚――倒すための場所だけを叩く。
だがルーガは揺れない。狼躍で“重さ”が増し、体幹が岩みたいだ。
「どうした? さっきの派手さはどこだ」
「……長引くの、嫌いなんだよ」
無双が吐き捨てるように笑う。
そして本音が胸の内側で鳴った。
(長引くと、負ける)
狼躍の持続が切れる前に自分の体力が削られる。
無双は、息を落とした。
(決める。……一撃で)
わざと、半歩だけ“踏み込める隙”を見せた。
ルーガの鼻が動く。匂いで読んで、獣みたいに笑う。
「いいねぇ。踏み込みたい。殴りたい……でも怖い。そうだろ?」
次の瞬間、ルーガが入る。
狼躍の踏み込み。爪が置かれる。“終わり”の距離。
その瞬間――
無双は両手を開いた。
掌が、白く燃え、白炎が灯る。
本能が危険を告げ、ルーガは大きく距離をとる。
門番が声にならない声を漏らした。
知っている。理屈は。
左に“知識”。右に“威力”。
釣り合わなければ、合掌はできない。
(雷砲……やる)
頭は覚えてる。
でも身体が追いつくかは別だ。
無双は両手を勢いよく近づけた。
――反発。
磁石みたいに押し返され、指先が跳ねる。
合掌できない。
「はっ!」
ルーガが笑って距離を詰める。
「失敗だ! そりゃ――」
爪が来る。
無双は、引かない。
欲を落とす。
威力を欲張ると、釣り合わない。
右の出力を削る。削りすぎるな。削りすぎたら、意味がない。
白炎が、細い線になる。
反発が――薄くなる。
ルーガの瞳孔がわずかに開いた。
ほんの一瞬、踏み込みが遅れる。
「……今の失敗から、戻した?」
その一瞬が、十分だった。
無双の両手が、今度は“吸い寄せられる”みたいに近づいた。
カチッ、と噛み合う感覚。指と指が揃い、掌と掌が重なる。
合掌が――成立する。
両手の白炎が、重なった瞬間にすっと消えた。
胸の奥が、跳ねた。
成功の快感が、理屈より先に身体を満たす。
無双は腹から言霊を落とした。
「——番内ッ!!【雷砲〈らいほう〉】!!!」
次の瞬間、無双の右腕が弾けた。
バチバチバチッ!!
雷が纏わりつき、火花が跳ねる。
空気が焦げる匂い。髪が逆立つ。
右拳が、雷の塊みたいに光る。
ルーガが目を細めた。
「……っは。派手だなァ!!」
狼躍の踏み込みで、ルーガがさらに詰める。
爪が来る。――勝負の一瞬。
無双は、拳を引かない。
真っ直ぐ。
「——行けッ!!」
正拳。
拳から雷が放たれる。
一本の稲妻が、空気を割って“直線”で走った。
バァンッ!!!
轟音が遅れて爆ぜる。
雷はルーガを貫いた。
貫いたのは胸の中心じゃない。肋の外側。致命を避けた線。
それでも獣人の身体が跳ねる。
狼躍で増した重さが、一瞬で剥がれるみたいに抜け落ちた。
「——っ、がァ……!!」
雷は止まらない。
ルーガの背を抜けた稲妻が、そのまま館へ突き刺さった。
ドガァンッ!!
壁が割れ、梁が裂け、石が砕ける。
屋敷の一部が派手に崩れた。粉じんが舞い、火花が散り、昼の光が歪む。
門番たちは凍りつく。縄を握ったまま、一歩も動けない。
“子ども”が放った一撃が、館を壊した。
ルーガは膝をつき、笑おうとした。
だが笑いが喉で途切れる。
狼躍が剥がれていく。時間切れだ。
息が入らない。
「……っは……」
掠れた声だけが落ちる。
「……やるじゃねぇか……ガキ……」
そして、石畳に沈んだ。
無双はすぐに胸の上下を見る。
生きている。気を失っているだけだ。
右腕の雷が、バチ、と最後に鳴って消えた。
無双は息を整え、拳をほどく。
「……終わりだ」
――だが。
崩れた壁の奥から、慌ただしい足音が響いた。館の中が動いている。
無双が顔を上げたとき、門の内側から布武が現れた。
腰までの黒髪。息が乱れていない。
布武の視線が、倒れたルーガに一瞬だけ落ちる。
次に無双の右腕。雷の余韻。
それだけ見て、短く言う。
「行く」
「……少し休みたい」
無双が冗談みたいに言うと、布武は即答した。
「ダメ」
迷いのない声だった。
無双は笑って、頷く。
「だよな」
布武が踵を返す。
無双も、館の奥を一度だけ見てから走り出した。
◇
それから十分後。
ボムスンの館の前に、隊列ができた。
鎧と槍。都市の警備隊。怒号と足音が石畳を叩く。
「突入!」
門は歪んだままだ。内側の壁も崩れている。
煙と粉じんの匂いが残っていた。
先頭が踏み込む。
最初に見えたのは――門前に転がる灰色の狼だった。
「ルーガ……!?」
獣人の用心棒。だが動かない。
死んではいない。呼吸だけが荒い。
隊の視線が室内へ移る。
警備が何人も倒れている。血は少ない。意識を刈られただけだ。
そして、奥の部屋。
「ボムスンだ!」
豪奢な机のそばで、貿易商は気絶していた。
指輪の手がだらりと垂れ、口は布で塞がれている。
「確保!」
縄。手枷。命令が飛ぶ。
同時に、別動が館の中を洗う。
床板の下。壁の裏。金庫。
帳簿。印章。やり取りの紙切れ。
「……見つけました。これ……台帳です」
「運搬の記録もあります。港の倉庫番号……!」
証拠が、次々に積み上がる。
隊長が吐き捨てる。
「終わりだ、ボムスン」
だが、その時。
一人の隊員が、奇妙な顔で紙束を持ち上げた。
「……隊長。これ、おかしいです」
「何がだ」
隊員は指で“そこだけ”を叩いた。
台帳の綴じ跡。
紙は残っているのに――一枚だけ、きれいに抜かれている。
乱暴に破った跡じゃない。
焦って千切った跡でもない。
綴じ糸をほどいて、必要な一枚だけを抜いた――そんな手口だった。
隊長の眉が動く。
「……誰かが、先に入ってたのか?」
館内の空気が、冷える。
ボムスンは捕まった。証拠もある。
それでも、最後の一枚が無い。
◇
その頃。
無双と布武は、町の外へ向かって走っていた。
カーヴァンの“速い昼”を抜け、石畳が土に変わり、匂いが薄くなる。
無双は息を整えながら言った。
「……ボムスンには会えたのか?」
布武は頷く。
ただ、走る速度だけを落とさない。
「布武。次、どこに行く」
布武は一拍だけ黙った。耳を澄ますように。
そして短く言う。
「港」
無双が眉を寄せる。
「港に何がある?」
布武は答えない。
代わりに、草を踏む音に混じって――別の音がした。
カチリ。
金属が鳴る音。
すぐ後ろじゃない。けれど、近い。
無双が振り返る。
道には、自分たちの足跡しかない。
布武が、視線だけで“向こう”を示した。
木々の影。そこに誰かがいる、とは言わない。言わなくても分かる。
無双の喉が鳴る。
「……追われてる?」
布武は、ようやく口を開いた。
「追ってるんじゃない」
一拍。
「――見張ってる」
無双の背筋が冷えた。
ボムスンを捕まえたところで終わらない。
館の“最後の一枚”は、もう別の手の中だ。
布武は走りながら、言葉を落とす。
「急ぐ。先に着かれたら、終わり」
無双は答える代わりに、一段速度を上げた。
胸の奥で、雷とは別の音が鳴る。
学府会へ繋がるのは、港。
そして“誰か”は、もうそこに向かっている。
最後の一枚を抜いたのは、誰だ?
(第五話・終)




