第四話 正面突破
背中に回った腕は細いのに、無双の体は軽々と浮いた。
酒場の喧騒が遠ざかる。
割れた壁の粉塵、酒、汗――鼻を刺していた匂いが数歩で薄まった。代わりに押し寄せてくるのは、正午の熱気と油の焦げる匂い、香辛料の刺激。交易都市カーヴァンの“昼”そのものだ。
通りは明るい。眩しいくらいだ。
それでも、人の視線は不思議と無双たちに向かない。少女が選ぶのは日向の大通りじゃない。屋台の裏、荷車の陰、布の暖簾の向こう、建物と建物の隙間――。
町が速いからこそ、速さに紛れる道がある。
角を二つ曲がったところで少女は足を止め、振り返らずに鼻先をわずかに動かした。
「……もういい」
ざわめきの中に、あの獣の足音が混ざっていない。
そのまま、人気のない路地裏へ無双を連れていく。
日差しは上から落ちているのに、路地には光が入らない。壁の影が濃く、湿った石の匂いがする。通りの喧騒だけが、遠くで鳴っていた。
少女は無双を下ろした。乱暴に見えて、落とさない。
無双は足をつき、服の埃を払う。追いつかれる気配もない。
少女が腕を組んで言った。
「子どもが襲われてたから思わず助けたけど。……あんた、何をしたの?」
「お前も子どもだろ。それに俺は何もしてない」
「何もしてないなら、なんで獣人に絡まれてんのよ」
「知らねぇよ」
短い会話の間に、互いの呼吸が落ち着く。
そして――二人は、初めてちゃんと相手の顔を見た。
暗い路地の中でも、目は見える。輪郭も、癖も。
少女のほうが先に、口を開く。
「……あんた。もしかして、無双?」
無双は息を止めた。
自己紹介はしていない。名乗ってもいない。
なのに、その名前だけは迷いがない。
そして、その呼び方が――胸の奥を叩いた。
その名を、こういう間で呼ぶのは。こういう顔で言うのは。
ひとりしかいない。
「……お前、布武か?」
少女は、当然みたいに頷く。
「正解。……え、なにその顔」
「悪い。目覚めてから記憶がところどころ曖昧でさ。全部は戻ってない」
「そう。じゃ、そのうち戻るわよ」
軽い。
軽いのに、雑じゃない。
“戻る”と言い切る声が、無双の中の穴を少しだけ塞いだ。
「久しぶりの再会にしては、軽くないか」
「兄妹の再会なんて、こんなもんでしょ。たぶん」
「“たぶん”って」
「だって正しい再会の作法、知らないし」
布武は肩をすくめる。
その仕草が、やっぱり記憶のどこかと一致する感じがした。
(――ほんとに、布武だ)
無双が確信したところで、布武は空気を切り替える。
「……で。なんでカーヴァンにいるのよ」
「ヴァレンがこの町に――布武がいるって」
「……は?」
布武の眉がぴくりと動く。
「だから来た」
「あの男、なんで私の居場所を知ってんのよ」
「知らねぇって顔してたけどな。『さぁな。だがいる』って」
「なにそれ」
「探索系の気術とか?」
「そんなのあるなら私が使いたいわよ…」
「それもそうか」
無双が言うと、布武は一瞬だけ笑って――すぐに笑わなくなった。
「私は目覚めてからずっと、幻成学府会を追ってた」
禁忌研究。学府会。
その言葉が出た途端、路地の空気が少し重くなる。
「そんな便利なものがあれば苦労してない。……ヴァレンのそれは、たぶん“気術”じゃない」
「じゃあ何だ」
「知らない。だから腹立つ」
布武の口調が少しだけ荒くなる。
でも怒鳴らない。怒り方が、布武のままだ。
無双は話を戻す。
「ところで、手配書の件。お前だろ」
「あー、あれね。大げさよね」
布武は投げるように言ってから、淡々と説明を続ける。
「ボムスン。表は優秀な貿易商。裏で珍しい種族を捕まえて売ってる」
「人身売買か」
「そう。で、その取引のどこかで幻成学府会と接点がある。――“かも”だけど」
“かも”。
だからこそ、焦ってはいけない。慎重に詰める。
「私は調査のために一度、ボムスンのアジトに潜った。けど、見つかった」
「ルーガか」
「獣人は鼻が利くからね」
「それで逃げた?」
「そう。ついでに――檻に入ってた人たちを助けたわ」
「ついでって言うなよ」
「ついでよ。放っとけなかったのよ」
その言い方が軽いから、余計に分かる。
布武は、そういう人間だ。
「それで手配書が出回ったってわけか」
「そう。名前は空白で、顔だけ似顔絵。……雑な手配書で笑えるでしょ」
「俺は笑えねぇ。似てるって言われて絡まれた」
布武は息を吐く。
「私はもう一回潜入して、今度こそボムスンから情報を引き出すつもりよ」
無双は即答した。
「めんどくせぇ」
「……は?」
「潜入とか回りくどい。直接行けばいいだろ」
布武の目が鋭くなる。
「バカなの」
「その方が早い」
「効率の話はしてない」
布武は低い声で言う。
「ボムスンが用心深い相手だった場合、町の外に逃げられるかもしれない。そうなったら探し出す方が面倒」
「俺が囮になる」
無双が言うと、布武は少しだけ目を細めた。
「その間に、ボムスンを見つけて情報を吐かせりゃいい」
「……できるの?」
「まかせろ!」
無双は自分の胸を叩いてニコッと笑った。
布武はその笑顔を見て、ほんの一瞬だけ何かを考える顔をする――すぐに、決めたように頷いた。
「わかった。まかせるわ。私はボムスンから、学府会の居場所を。経路を。知っている情報を聞き出す」
「決まりだ!さっさと行くぞ」
「――待って」
布武が無双の袖を掴んだ。
「まずは逃げ道を塞ぐ」
言い切る声は淡々としているのに、強い。
「潜入はそのため。逃げ道を見つけて、潰す。逃げられない状況にして、初めて“情報”がこっちに残る」
無双は頷く。
「めんどくせぇ。でも――分かった」
言いかけたところで、布武が先に言った。
「私は先に回る。あんたは正面から行って」
「おいおい。再会してすぐ別行動かよ」
「兄妹の再会なんて、こんなもんでしょ。たぶん」
「まぁ…“たぶん”そうなのかもな」
布武は肩をすくめる。その仕草が、やっぱり布武だ。
「最後に正面突破するなら2つ条件がある」
「条件?」
「門を叩くのは派手でいい。」
布武が一拍置いて言う。
「ルーガが出たら、倒して」
「最初からそのつもりだ」
「なら大丈夫ね」
布武は少しだけ口角を上げた。
無双は拳を握り、ゆっくりほどいた。
「よし。乗り込むか」
「私は先に行く」
布武は踵を返し、路地の影に溶けるように去った。
無双は一人になって、昼の喧騒へ戻る。
屋台の油が跳ね、香辛料が風に舞い、荷車が軋む。
中央広場が見えてきた。
目的地は中央広場の裏。
大きな商館。
白い壁に、金の意匠。
商人が出入りし、荷が積まれ、笑い声がする。
ここが表門。
そして――ここが、ボムスンの館。
無双は、門の前で立ち止まった。
背筋を伸ばす。息をひとつ吐く。
正面から行く。
面倒くさいことはしない。
門番が気づいて、こちらを見た。
「子どもがなんの用だ?」
無双は真っ直ぐな声で言った。
「ボムスンに会いに来た」
門番が眉をひそめる。
「ん?――どこかで見た顔だな」
無双の顔を門番が確認していると
門が内側から開く――館の影が、ふっと濃くなった。
空気が変わる。
風が止まったみたいに、商館の笑い声だけが遠くなる。
その影から、獣の気配が前へ出る。
金具の擦れる音。爪が石を掻く音。
そして、聞き覚えのある唸り声。
無双は、口角だけを上げた。
「……来たな」
影から現れたのは、狼の獣人――ルーガ。
昼の真ん中で、獣の目が光っていた。
(第四話・終)




