第四十一話 ひらいた瞳
三日間かけて山野を走り抜け、無双たちはようやくヴァレンの研究所へ戻ってきた。
深い森の奥。
岩壁と木々に隠れるように造られた入口は、三人が出発した時と変わらず、重い扉を閉ざしている。
「……着いたね」
継真が、ほっとしたように息を吐いた。
三日間走り続けたせいで、三人の衣服には土埃がつき、額や首筋には汗が滲んでいる。
「早くヴァレンさんに見てもらおう」
継真が扉へ向かう。
「待て」
無双の声に、足を止めた。
「どうしたの?」
無双は答えず、扉の縁へ目を凝らした。
出発した時にはなかった小さな穴が、いくつか並んでいる。
「二人とも、油断すんなよ」
布武が眉を寄せた。
「何を警戒するの?」
「分かんねえ。でも――」
無双は扉を指した。
「ここ、ヴァレンの研究所だぞ」
布武の表情がわずかに引き締まる。
一方、継真は扉と無双を見比べた。
「もう帰ってきたんだよ? 大丈夫じゃない?」
「いや、だから――」
継真が扉へ手をかけた。
重い扉が開く。
その瞬間。
研究所の中から、凄まじい爆風が噴き出した。
「うわああああっ!」
継真の身体が宙を舞った。
勢いよく後方へ吹き飛ばされ、離れた草地へ背中から落ちる。
無双と布武も髪を激しく煽られたが、咄嗟に足を踏ん張った。
風が収まる。
「……だから言ったのに」
無双は呆れながらも、すぐに継真のもとへ走った。
「生きてるか?」
「なんとか……」
継真は土埃にまみれ、髪には草まで引っかかっていた。
無双に身体を起こしてもらい、自分の腕や身体を確かめる。
痛みはある。
だが、怪我はない。
布武も駆け寄り、継真の無事を確認すると研究所の入口へ振り返った。
そこには、いつの間にか白衣姿のヴァレンが立っていた。
「警戒が足りんな」
布武の眉が跳ね上がる。
「人を吹き飛ばして、最初に言うことがそれ!?」
「追跡者がいないことを確認してから開けろ。入口は一番狙われやすい」
「だからって吹き飛ばす必要はないでしょう!」
「殺傷力はない。継真が耐えられる威力に調整してある。着地点も計算済みだ」
無双に支えられながら立ち上がった継真は、離れた入口にいるヴァレンを見る。
「……ヴァレンさん、やっぱり怖いよ……」
聞こえたのかどうか。
ヴァレンは何の反応も示さず、三人を順に見た。
土埃のついた服。
汗で濡れた髪。
そして、一人だけ余計に土と草まみれになっている継真。
「そのまま入るな」
「は?」
布武が睨む。
「汚れている。入口脇の洗浄室で落としてこい」
布武は自分たちの格好を見て、最後に継真を見る。
「……一人だけ、あんたのせいで余計に汚れてるんだけど」
「継真が扉を開けたからだ」
「仕掛けたのはあんたでしょうが!」
ヴァレンは布武の怒声を気にも留めない。
その視線が、彼女の服の内側へ一度だけ向いた。
「鍵はそのまま持っていろ」
布武が少し意外そうな顔をする。
「調べないの?」
「先に話を聞く」
ヴァレンは淡々と続けた。
「どういう経緯で持ち帰ったか分からないまま調べても、見落としが増えるだけだ」
三人へ背を向ける。
「洗ったら三人で来い。鍵を見るのは、それからだ」
布武が何か言い返すより先に、ヴァレンは研究所の奥へ消えていった。
「……ほんっと腹立つ」
布武が低く呟き、洗浄室へ向かう。
継真は土と草にまみれた自分の服を見下ろした。
「無双……次はもっと本気で止めてよ」
「止めたって」
「止まってないからこうなったんだよ……」
無双は継真の髪についていた草を払い落とした。
「次から自分で警戒しろ」
「次もあるの……?」
無双は答えなかった。
「二人とも、早くしなさい!」
少し先から布武の声が飛んでくる。
「解除キーを調べてもらうんでしょう!」
無双と継真は顔を見合わせた。
「……行くか」
「うん……」
二人は布武のあとを追った。
*
汚れを落とした三人がヴァレンのもとへ戻ると、作業台の周囲にはいくつもの機器が並べられていた。
中央には、透明な箱状の装置が置かれている。
「まず経緯を話せ」
三人は、ベルガンドの研究棟で起きたことを伝えた。
法原は不在だったこと。
代わりに、灰谷玲那が待ち構えていたこと。
解除キーを確保したものの、玲那は容易に奪い返せる状態で、小型端末を確認したあと自ら継真の手を離したこと。
そして――
『そのまま持ってろ』
そう言い残したこと。
さらに、研究棟そのものがその場から消え、跡地には土台ごと抜き取られたような巨大な穴が残っていたこと。
鴉羽の痕跡も、ベルガンドの路地で突然途切れていたことまで伝えた。
ヴァレンは最後まで口を挟まなかった。
「玲那が鍵を取り返さなかった理由は?」
「分からないわ」
布武が答える。
「端末で何かを確認してた。でも、画面までは見えてない」
「取り返せる状態で、あえて持たせたか」
ヴァレンの視線が、布武の胸元へ向く。
「なら、細工されている可能性は考えた方がいい」
「やっぱり?」
「安全な物として扱う理由はない」
ヴァレンが手を差し出した。
「鍵を」
布武は服の内側から解除キーを取り出した。
三日間持ち歩いてきたそれは、研究棟を出た時から何も変わっていない。
ヴァレンは直接端末へ差し込まず、透明な箱の中へ置いた。
蓋が閉じる。
細い光が四方から走り、解除キーを何度もなぞった。
「何を調べてるんだ?」
無双が箱を覗き込む。
「外装、内部構造、気力反応、通信機能。余計な物が増えていないかも見る」
画面へ情報が次々と並んでいく。
「カプセルとは繋がってないの?」
布武が尋ねた。
「切ってある。生命維持装置にも外部にも信号は出ない」
ヴァレンは画面を見たまま答える。
「まず、鍵だけを見る」
やがて、走査していた光が消えた。
ヴァレンは結果を一つずつ確認し――わずかに眉を寄せる。
「……妙だな」
「何か見つかった?」
「逆だ」
ヴァレンは画面から目を離さない。
「何もない」
「何も?」
「外装にも内部にも、不自然な追加はない。外部へ信号を送る機構も見当たらん」
無双は箱の中の解除キーを見る。
「じゃあ、普通の鍵なのか?」
「今調べた範囲ではな」
「なら、安全?」
「見つからないことと、ないことは別だ」
布武の問いに、ヴァレンは即答した。
「次は認証情報を見る」
継真が少し身を乗り出す。
「カプセルに使うんですか?」
「まだ使わん」
ヴァレンは別の画面を開いた。
「実機には接続せず、ここで認証だけ再現する。どちらの鍵かを確かめるだけだ」
もう一度、装置の遮断状態を確認する。
透明な箱の中で、解除キーの表面に淡い光が走った。
画面へ複雑な波形が現れ、一つずつ照合されていく。
誰も口を開かなかった。
短い電子音。
画面に、一つの名前が表示される。
ヴァレンが読み上げた。
「……鶴羽見灯影」
継真の目が大きく開く。
「灯影の……?」
「ああ。この鍵は、灯影のカプセルに対応している」
「じゃあ――」
継真が立ち上がりかけた。
「まだだ」
ヴァレンが制する。
「確認したのは認証だけだ。安全に解除できると決まったわけじゃない」
「……はい」
それでも。
継真の握った拳には、抑えきれない力が入っていた。
無双がそんな継真を見て、小さく笑う。
「でも、一歩進んだな」
「……うん」
継真も、わずかに笑った。
その直後だった。
研究所の奥から、低い駆動音が響いた。
ゴウン――。
三人の表情が止まる。
「……何?」
布武が扉の向こうを見る。
続いて。
生命維持装置の起動を知らせる警告音が、研究所内へ鳴り響いた。
ヴァレンが即座に画面を切り替える。
「灯影のカプセルが動いている」
「え?」
継真が立ち上がった。
布武がヴァレンを見る。
「何をしたの?」
「解除命令は出してない」
ヴァレンの指が猛烈な速さで端末を走る。
「解析装置から生命維持区画への通信――なし。解除信号も出ていない」
無双が眉を寄せた。
「じゃあ、なんで動いてるんだ?」
「それを調べてる」
画面の中では、灯影のカプセルが解除処理を進めている。
「灯影……!」
継真はもう待てなかった。
解析室を飛び出す。
「継真!」
無双と布武も、そのあとを追った。
ヴァレンは灯影の生命値を確認する。
安定範囲。
それを確かめると、三人を追わなかった。
灯影の起動記録を開き、同時に隣の雲龍の生命維持装置にも異常がないか確認を始める。
*
継真が生命維持区画へ駆け込んだ。
並んだ二基のカプセル。
そのうち一基だけが、白い光を明滅させている。
表示された名前。
鶴羽見灯影。
「……灯影」
継真は駆け寄った。
簡素な白い病衣を身につけた少女が、まだ目を閉じたまま横たわっている。
低い解錠音。
カプセルの蓋が、ゆっくりと持ち上がる。
白い冷気が床へ流れ出した。
継真は伸ばしかけた手を止めた。
ただ。
そこにいる灯影を見つめる。
ほどなくして、無双と布武も駆け込んできた。
「継真!」
声をかけられても、継真は振り返らない。
二人も、その視線を追った。
カプセルの中にいる灯影は、継真の記憶にある姿よりもずっと幼かった。
結われていない長い黒髪が肩から寝台へ流れ、腰よりも下まで広がっている。
幼さの残る輪郭。
長い睫毛。
静かに整った顔立ち。
その睫毛が、かすかに震えた。
「灯影……?」
まぶたが、ゆっくりと開く。
青みを帯びた灰色の瞳。
焦点の定まらない視線が天井をさまよい――やがて、目の前にいる継真で止まった。
灯影の眉が、わずかに寄る。
「……ここ、どこ?」
少し掠れた声。
継真は何かを言おうとして、一度だけ唇を結んだ。
目の奥が熱くなる。
それでも。
灯影を不安にさせないように、笑った。
「灯影」
名前を呼ぶ。
「俺だよ」
灯影は目の前の少年をじっと見つめた。
姿は、彼女が知る継真とはまるで違う。
けれど。
その視線が、目元で止まった。
「その顔……」
灯影が不思議そうに瞬きをする。
「昔の継真さんに、似てる」
継真の目から、一筋の涙がこぼれた。
「似てるんじゃないよ」
声だけは、できるだけいつも通りにした。
「俺なんだ」
灯影の目が少し大きくなる。
「……継真さん、なの?」
「ああ。俺だよ」
灯影はゆっくりと手を上げた。
まだ力の入りきらない指先が、継真の頬へ触れる。
頬をなぞり。
目元へ。
姿が変わっても、その奥にいる相手を確かめるように。
やがて。
灯影の表情が柔らかくなった。
「……ほんとだ」
小さく息を漏らす。
「継真さんだね」
「灯影……」
継真は、その手を両手で包み込んだ。
もう一筋。
涙が落ちる。
それでも、声を上げて泣くことはなかった。
「よかった……」
灯影はそんな継真を見て、少し困ったように笑った。
「そんな顔しないでよ」
「してないよ」
「泣いてるのに?」
継真は返す言葉を失った。
「継真さん、昔からでーじ分かりやすいから」
その声を聞いて、継真もようやく笑う。
「灯影は変わらないな」
「そう?」
灯影は自分の手を見る。
続いて腕へ視線を落とし、自分の小さくなった身体を確かめた。
少しの沈黙。
「……いや」
首を傾げる。
「これは、だいぶ変わってるね」
継真の口元が、わずかに緩んだ。
「それは……説明するよ」
「うん。お願い」
灯影はそう答えてから、初めて継真の後ろへ目を向けた。
そこに立つ無双と布武を、順に見る。
「それで……」
少しだけ首を傾げる。
「そっちの二人は、誰なの?」
(第四十一話・終)
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