第四十二話 目覚めの風
布武は少しだけ灯影を見つめ、それから表情を緩めた。
「良い話と悪い話、どっちから聞きたい?」
灯影の目が、わずかに見開かれる。
一瞬の間。
やがて、口元に小さな笑みが浮かんだ。
「……その聞き方、懐かしいね」
「で、どっち?」
「じゃあ、良い話からお願いしようかな」
「そう」
布武は隣にいる無双を示した。
「こっちが無双。私は妹」
「またそれかよ」
無双がすぐに口を挟む。
「継真の時も同じこと言ってたよな?」
「分かりやすいでしょ」
「良い話なのか、それ」
灯影は二人のやり取りを見て、小さく笑った。
それから、無双へ視線を向ける。
「……無双?」
「ああ」
目の前の少年をじっと見つめる。
布武に言われなければ、そう呼ばれる相手だとは分からなかった。
「それじゃ、悪い話は?」
布武の表情から、わずかに笑みが消える。
「無双は当時の記憶と力を、ほとんど失ってる」
灯影が無双を見る。
無双は小さくうなずいた。
「覚えてることもある。でも、抜けてる方が多い」
「そっか……」
「法原に何をされたのかも、まだ俺たちには分からない」
灯影は少し考え、それから布武へ目を戻した。
「妹ってことは……」
「布武よ」
灯影は少女の顔を、もう一度じっと見る。
「……やっぱり、布武なんだ」
「ええ」
「ずいぶん可愛くなったなって」
布武の眉が寄った。
「そこ?」
「褒めたんだけどな」
「今それを言われても、素直に喜べないわよ」
灯影がくすりと笑う。
やがて、その視線が隣のカプセルへ向かった。
「……雲龍は?」
「まだ眠ってる」
継真が答える。
灯影は、生命維持装置の中で眠る雲龍を見つめた。
「雲龍も、小さくなってるんだね」
「ああ」
「起こせないの?」
「カプセルごとに鍵が違うんだ。今回持って帰ったのは、灯影の鍵だった」
「そっか」
しばらく雲龍を見つめる。
それから、穏やかに笑った。
「なら、次は雲龍の番だね」
「ああ」
無双が迷わずうなずく。
灯影は身体を起こそうとした。
「灯影?」
継真がすぐに手を差し出す。
「雲龍の近くまで行きたい」
「まだ起きたばかりだよ」
「大丈夫だはずよ」
灯影は継真の手を取った。
「立てなかったら、その時は継真さんにお願いするから」
「……分かった」
カプセルから足を下ろす。
床へ立った瞬間、身体がわずかに揺れた。
「灯影」
「大丈夫」
一度だけ継真の腕へ体重を預け、呼吸を整える。
今度はしっかりと立った。
「ほらね」
「今ふらついたよ」
「一回だけでしょ」
「一回でも心配するよ」
灯影は困ったように笑う。
「継真さんは変わらないね」
そのまま腕を借り、雲龍のカプセルまで歩いた。
ガラス越しの仲間へ、そっと手を添える。
「雲龍」
眠る顔を見つめる。
「もう少し待っててね」
青灰色の瞳が、穏やかに細められた。
「今度は、雲龍の番だから」
*
解析室へ戻ると、ヴァレンは二基の生命維持装置の状態を確認していた。
「ヴァレンさん、雲龍は?」
継真が尋ねる。
「今のところ異常はない」
「よかった……」
「灯影のカプセルが勝手に動いた以上、確認は必要だ」
灯影はヴァレンを見る。
「この人が、ヴァレン?」
「ああ。ヴァレンさんだよ」
継真が答えた。
「ヴォルテ・ヴァレンだ」
「ウチは鶴羽見灯影。……って、もう知ってるか」
「ここを近く管理していたからな」
「そっか」
灯影は小さく笑った。
ヴァレンが灯影へ視線を向ける。
「気分は?」
「身体がちょっと重いかな。でも、大丈夫だよ」
「目眩、吐き気は」
「ないよ」
「手足は?」
灯影は両手を握って開き、足を軽く動かした。
「ちゃんと動く。まだちょっと変な感じはするけどね」
「覚醒直後なら、その程度は想定内だ」
ヴァレンが画面へ戻る。
「ヴァレン」
「何だ」
「ありがとう」
指が止まった。
「何の話だ」
「ウチたちのこと」
灯影は穏やかに笑う。
「ずっとここで、守ってくれてたんでしょ?」
「生命維持装置を管理していただけだ」
「でも、ウチからしたら守ってくれたのと一緒さ」
継真をちらりと見る。
「こうして、また会えたわけだからよ」
「俺の都合でやったことだ。気にするな」
「うん。でも、お礼くらい言わせてね」
ヴァレンは返事をせず、画面へ視線を戻した。
灯影もそれ以上は言わなかった。
少しして、閉ざされた研究所の中を見回す。
「ヴァレン」
「今度は何だ」
「少しだけ、外の空気吸ってきてもいいかね?」
継真がすぐに振り向く。
「もう外に出るのか? まだ起きたばかりだよ」
「うん。でも――」
灯影は天井を見上げた。
「ちょっと、風に当たりたいわけよ」
「でも、体調が――」
「一人で行くわけじゃないさ」
ヴァレンは数値を確認した。
「入口付近までなら構わん。具合が変わったらすぐ戻れ」
「ありがとう」
「ただし、その格好では出るな」
灯影が白い病衣へ目を落とす。
「これじゃ駄目?」
「着替えを用意してある」
布武がゆっくりヴァレンを見る。
「……なんで毎度、あんたのところには私たち用の服があるのよ」
「必要になるからだ」
「答えになってないんだけど」
「今はそれどころじゃない。着替えさせてこい」
「自分から服の話をしたんでしょうが……」
灯影は二人を見比べ、くすりと笑った。
「ふたり、でーじ仲良さそうだね」
「どこがよ!」
「違うの?」
「絶対違うわよ」
楽しそうに笑う灯影を、布武が促した。
「行くわよ」
「うん」
*
用意されていたのは、白を基調に黒を差した上衣と、細身の黒いパンツだった。
着替えを終えた灯影を見て、布武が長い黒髪へ目を向ける。
「髪もやるわ」
「布武が?」
「そのままじゃ邪魔でしょ」
「じゃあ、お願いしようかな」
灯影が椅子へ座る。
布武は腰より下まで伸びた黒髪を手に取り、こめかみ付近から細く編み込みながら後頭部へ回していく。
その間に、十二年間に起きたことを、必要な分だけ伝えた。
やがて左右の編み込みが後頭部で重なり、小さな花のような輪にまとまる。
その下から、長い黒髪が背中へ流れた。
「できたわ」
灯影は鏡の中の自分を見る。
髪へ軽く触れた。
「……なんか、やっと起きた気がするね」
「じゃあ、行きましょう」
「うん」
灯影は立ち上がる。
「久しぶりの外、でーじ楽しみだね」
*
研究所の扉が開いた。
外の空気が、四人の間をすり抜けるように流れ込む。
灯影は一歩外へ出たところで、足を止めた。
深い森の向こうまで空が広がっている。
木々が風に揺れ、葉の擦れる音が重なった。
長い黒髪が、柔らかくなびく。
灯影は目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「……気持ちいい」
もう一度、深く息を吸う。
「風って、こんな匂いだったんだね」
隣に立った継真が、すぐに顔を覗き込む。
「気分は悪くない?」
「大丈夫だよ」
「本当に?」
「継真さん」
「何?」
「さっきから、ウチの顔ばっかり見てるよ」
「仕方ないだろ。起きたばかりなんだから」
「昔から、でーじ心配性だからよ」
「灯影のことなんだから、心配するに決まってるよ」
灯影は柔らかく笑った。
「うん。知ってる」
そっと継真の手を取る。
継真も、その手を握り返した。
少しの間、灯影は風に髪をなびかせていた。
やがて、無双と布武へ顔を向ける。
「二人にも、ちゃんとお礼言ってなかったね」
「お礼?」
「ウチを起こす鍵、三人で持ってきてくれたんでしょ?」
「ああ」
「危ないところだったって聞いたさ」
灯影は二人を順に見る。
「ありがとう」
「別に、お礼なんて――」
布武が言いかける。
「言いたいから言ってるだけだよ」
「……そう」
無双が笑った。
「でも、まだ一人だ」
「うん」
「次は雲龍だ。絶対に起こす」
迷いのない言葉に、灯影が少し目を丸くする。
「迷わないんだね、無双は」
「起こすって決めてるからな」
「そっか」
灯影は嬉しそうに目を細めた。
「じゃあ、ウチも信じるさ」
「ああ。任せろ」
「簡単に請け負うわね」
布武が呆れたように言う。
「できるか分かんねえって言うよりいいだろ」
「限度ってものがあるのよ」
二人のやり取りに、灯影が小さく笑った。
そのあと。
布武が不意に尋ねる。
「怖くないの?」
「何が?」
「目が覚めたら十二年も経ってて、自分の身体まで変わってる」
灯影は少し黙った。
自分の小さくなった手を見る。
「怖くないって言ったら、嘘になるよ」
声は穏やかだった。
「まだ分からないことばっかりだし、自分の身体なのに、自分じゃないみたいな感じもする」
継真の手を少しだけ強く握る。
「でも、継真さんがいる」
無双と布武を見る。
「二人もいる」
灯影は微笑んだ。
「だったら、急いで全部分からなくても大丈夫だはずよ」
布武は何も言わなかった。
ただ、その目が少しだけ柔らかくなる。
灯影は研究所へ振り返った。
「雲龍が起きたら、今度はみんなで外に来ようね」
「ああ」
無双がうなずく。
「次は四人じゃない。みんなでだ」
「うん」
灯影は笑った。
風の中で笑うその姿を見ていると、十二年という空白さえ遠く感じられた。
*
「……ん?」
灯影が、ふと右手へ目を落とした。
指先がかすかに震えている。
「灯影?」
「なんか……変だなって」
手を握る。
開いて、もう一度握る。
直後。
小さく息を詰め、胸元へ手を当てた。
「身体の中が……熱い」
「熱い?」
「うん。中から、じわってくる感じ」
額に、うっすらと汗が滲んだ。
次の瞬間。
身体が大きく揺れる。
「灯影!」
膝から力が抜ける。
継真が咄嗟に身体を受け止めた。
無双と布武も表情を変える。
「ごめんね」
灯影は苦しそうに息をしながら、それでも笑おうとした。
「心配しすぎって言ったばっかりなのに」
「今はそんなこと言ってる場合じゃないよ」
継真は灯影をゆっくり地面へ座らせた。
「診るから」
「うん……お願い」
左右の手に白炎が灯る。
静かに釣り合った二つの力。
合掌。
白炎が消えた。
「番外――【深命の理】」
指先に残った青白い光が、灯影の身体へ触れた。
胸元から、さらに深く。
身体の内側を探るように光が走る。
継真の表情が変わった。
「……え?」
もう一度。
さらに深く診る。
額に、冷たい汗が浮かぶ。
「継真さん?」
返事がない。
「どうしたの?」
布武も異変に気づいた。
継真は灯影の胸元へ手をかざしたまま、息を呑む。
「……鬼門が」
「何?」
「開いてる」
布武の顔色が変わった。
「本来なら閉じてるはずなのに、開きっぱなしになってる」
継真の声が震える。
「そこから鬼気が流れ続けてる。灯影自身でも、閉じられてない」
布武がすぐに灯影を見る。
「灯影、抑えられないの?」
「やってる……」
灯影は目を閉じた。
内側へ意識を集中させる。
眉間に苦しそうな皺が寄った。
「駄目……」
胸元の服を握る。
「力が……ウチの言うこと、全然聞かないわけよ」
継真の顔から血の気が引いた。
「このままじゃ、まずい」
無双が一歩詰め寄る。
「どうすれば止められる?」
「今、探してる。でも――」
継真は唇を噛んだ。
「このまま鬼気が増え続けたら、灯影自身じゃ止められなくなる」
「そうなったら?」
継真は答えられなかった。
「継真」
無双がもう一度呼ぶ。
継真は灯影の手を握りしめた。
「……力に、呑まれる」
「どういう意味だ」
継真の喉が小さく動く。
「このままだと――」
絞り出すように告げた。
「灯影が……灯影じゃなくなる」
その直後。
灯影の身体が、びくりと大きく跳ねた。
「っ……!」
「灯影!」
継真が肩へ手を伸ばす。
触れるより先に――
赤い鬼気が噴き出した。
「っ!?」
継真が反射的に腕で顔を庇う。
灯影を中心に、赤い鬼気が炎のように立ち上った。
空気が震える。
地面の小石が跳ね、周囲の草が外側へ押し伏せられていく。
「何だよ、この鬼気……!」
無双が目を見開いた。
「灯影! 聞こえる!?」
布武が叫ぶ。
返事はない。
赤い鬼気は、さらに勢いを増していく。
風もないのに、灯影の長い黒髪が持ち上がった。
後頭部で小さな花のようにまとめられていた髪がほどける。
腰より下まで届く黒髪が、大きく広がった。
そこへ、あふれ出した鬼気が絡みつく。
一本。
また一本。
赤い鬼気が長い髪を覆い、炎のように揺らめいた。
黒髪そのものが染まったわけではない。
だが。
鬼気に包まれた髪は、燃え上がるような赤に見えた。
「灯影……」
継真の声が震える。
灯影の額が、左右二か所で盛り上がった。
次の瞬間。
二本の角が突き出す。
鋭い鬼の角。
その表面にも、赤い鬼気が揺らめいていた。
「そんな……」
継真は顔を青ざめさせながらも、その場を離れない。
「灯影。俺の声、聞こえるか?」
返事はない。
「大丈夫だ。俺がいるから」
灯影の肩が、わずかに動いた。
継真の表情に、一瞬だけ希望が浮かぶ。
「そうだ。ゆっくりでいい。灯影――」
俯いていた顔が、ゆっくりと上がった。
継真の手が止まる。
青みを帯びた灰色だった瞳は、金色へ変わっていた。
その中心で。
瞳孔が、縦へ細く裂けている。
灯影は継真を見ていた。
確かに、その目は彼を捉えている。
けれど。
少し前まで、心配しすぎだと笑っていた目ではなかった。
「灯影……俺が分かるか?」
継真が震える手を伸ばした。
金色の瞳が、その手へ向く。
「触るな」
低い声。
継真の手が止まった。
「……灯影?」
返事はない。
柔らかな表情は消えている。
眉間には苛立ちが滲み、その瞳にも親しみはなかった。
布武がゆっくりと身構える。
「継真、離れて!」
「でも――」
「今は近づかないで!」
灯影の視線が布武へ動く。
次に、無双へ。
三人を順に眺め、苛立たしそうに眉を寄せた。
「……何なんだよ」
継真の表情が強張る。
そんな声を出す灯影を、彼は知らない。
「さっきから……うるさい」
「灯影、落ち着いてくれ」
「黙れ」
赤い鬼気が一気に膨れ上がった。
空気が軋み、継真の身体がわずかに押される。
無双がすぐに継真の前へ出た。
「継真、下がれ」
「無双……」
「今は近づかない方がいい」
無双は灯影から目を離さない。
金色の瞳が、無双を捉えた。
灯影が、ゆっくりと腰を落とす。
布武の表情が変わる。
「無双、来る!」
無双も反射的に構えた。
「灯影!」
継真が叫ぶ。
だが、灯影はもう彼を見なかった。
無双だけを正面から見据える。
低く吐き捨てた。
「邪魔だ」
次の瞬間。
灯影が地面を蹴った。
轟音。
踏み抜かれた地面が大きく抉れ、赤い鬼気が爆発したように広がる。
「――っ!」
無双の髪が激しく煽られた。
赤い鬼気をまとった灯影が、凄まじい勢いで一直線に迫ってくる。
ついさっきまで。
外の風に笑っていた。
継真の手を握っていた。
雲龍が目覚めたら、みんなで外へ来ようと話していた。
その面影は、もうどこにもない。
二本の角。
金色の瞳。
炎のような赤い鬼気をまとった長い髪。
そして。
振り上げられた拳が――
無双へ迫った。
(第四十二話・終)
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