第三十九話 時禊の告人
事件から、三日が過ぎた。
ベルガンドのギルドが経営する酒場では、昼を前にして、すでに料理の匂いが立ち込めていた。
その一角で、皿が次々と空になっていく。
無双は骨付き肉を食べ終えると、すぐ隣の大皿へ手を伸ばした。
ほとんど同時に、反対側から布武の手も伸びる。
二人の指が、残り一切れの肉を挟んだ。
「俺が先だった」
「私よ」
互いに譲らず見つめ合ったあと、二人は肉を半分に割った。
空になった皿が、卓の端へまた一枚重ねられる。
パン。
肉。
煮込み。
焼き魚。
運ばれてきた料理は、二人の前でみるみる姿を消していった。
向かいに座る朱里は、匙を口元で止めたまま、その様子を見つめている。
「……まだ食べるの?」
無双は煮込みを飲み込み、当然のようにうなずいた。
「今日、ベルガンドを出るからな。食える時に食っておく」
「食い溜めよ」
布武も平然と答え、切り分けたパンを口へ運ぶ。
隣のフィエルナが、卓の端に積み上がった皿へ目を向けた。
「二人とも、三日前にあれだけ怪我してたとは思えないね」
「継真のおかげだ」
無双が迷わず答える。
三日前に負った傷は、継真の治療と三日間の休息で、旅に支障がないところまで回復していた。
「俺だけの力じゃないよ。ちゃんと休めたのも大きいから」
継真はそう言いながら、空になった皿を卓の端へ重ねた。
朱里は無双と布武を見比べ、継真へ顔を向ける。
「継真は驚かないんだね」
「布武は昔からよく食べるから」
継真は、また一枚空いた皿を重ねる。
「無双が普段どれくらい食べるのかは、俺も知らないけど」
「俺は布武より食えるぞ」
無双が得意げに胸を張った。
継真は取り合わず、次の空皿へ手を伸ばす。
「二人とも、食べられない時でも動けるようには鍛えてる。でも、食べられる時は遠慮しないんだ」
「遠慮したら、料理に失礼だろ」
「そういう話じゃないよ」
朱里が吹き出す。
布武は会話に加わらず、残っていた焼き魚を自分の皿へ移した。
それに気づいた無双が手を止める。
「それ、俺も食いたかった」
「話しているからよ」
「ずるくないか?」
「戦場なら死んでいたわね」
「ここは酒場だぞ」
フィエルナが堪えきれず笑う。
「元気になったのは分かったけど、無双くんも布武ちゃんも、少しは継真くんを見習いなさい」
「俺は食べてるよ」
継真の前にも料理はある。
ただし、無双と布武の前に積み上がった皿と比べれば、普通の一人前にしか見えなかった。
「継真くんは自分の分を食べてるからいいの。二人は食べる速さがおかしいのよ」
そう言われても、無双と布武の手は止まらない。
やがて、最後のパンまで無双の口へ消えた。
「よし」
満足そうに腹を押さえる無双を見て、朱里が呆れたように笑う。
その隣で、フィエルナの表情が少しだけ変わった。
「食事が終わったなら、昨日までに分かったことを話しておくわ」
無双たちの視線が、フィエルナへ集まる。
「研究棟があった場所と、鴉羽のことよ」
フィエルナは卓の上で両手を組んだ。
「研究棟が消えた翌日から、ロウガンたちと周辺を調べていたの」
◇
事件の翌日。
閉鎖区画の奥には、巨大な穴だけが残されていた。
瓦礫も。
焼け跡も。
建物を運び出した痕跡もない。
地面だけが、土台ごと抜き取られたように深く抉れている。
ロウガンは穴の縁へしゃがみ込み、足元の土へ触れた。
「爆発じゃねえな」
フィエルナも穴の底を見下ろした。
「建物そのものが、ここからなくなってる」
傍らでは、朱里が【跡噛み】で痕跡を探っていた。
何度か場所を変えたあと、首を横へ振る。
「痕跡はあるよ。でも、穴の上で終わってる」
「続きは?」
「ない。どこにも」
空へ伸びた形跡も。
地下へ潜った跡も。
別の方角へ続く痕跡もない。
研究棟は、その場所から忽然と消えていた。
フィエルナは巨大な穴を見つめる。
「隠れただけじゃないわね」
ロウガンが立ち上がった。
「建物ごと、どっかへ飛ばしやがったか」
「気術なのか、幻成学府会の技術なのかまでは分からない。でも、その可能性が高そうね」
研究棟の調査をギルドへ任せ、フィエルナと朱里は鴉羽の痕跡を追った。
門の記録。
街道。
路地。
裏道。
ギルドの者たちも街の内外へ散った。
だが、鴉羽を見たという者は一人も見つからない。
唯一、朱里の【跡噛み】だけが痕跡を拾っていた。
中央区から離れた、古い建物の並ぶ細い路地。
朱里は足跡を追い、角を曲がった。
その先で、足を止める。
「……ここで消えてる」
遅れて降り立ったフィエルナが周囲を見る。
左右を高い壁に挟まれた行き止まり。
扉もない。
壁を越えた形跡もない。
「引き返した跡は?」
「ない」
朱里はもう一度、地面へ視線を落とした。
「ここまでは来てる。でも、その先がない」
鴉羽の痕跡は、誰もいない路地の途中で突然途切れていた。
◇
捜索二日目の夕刻。
ギルドの一室に、ベルガンド周辺の地図が広げられていた。
ロウガンは地図の前で腕を組み、無双たちを見る。
「研究棟と鴉羽は、こっちで追う」
布武は黙って聞いている。
「お前さんたちは、持ち帰った解除キーを優先しろ」
「そのつもりよ」
布武が答えた。
無双が尋ねる。
「何か分かったら、どうやって知らせればいい?」
ロウガンは鼻を鳴らした。
「研究所の場所を聞くつもりはねえ。次にベルガンドへ来た時でいい」
無双は短く考え、うなずいた。
「分かった」
◇
「――昨日までに分かったのは、そこまでよ」
フィエルナの声とともに、酒場の喧騒が戻ってきた。
無双は卓の上に並ぶ空皿へ視線を落とす。
「結局、鴉羽も見つからなかったのか」
「ええ。今もギルドが捜してる。でも、手がかりはないわ」
布武が静かに口を開く。
「研究棟も鴉羽も、追える痕跡が残っていない。今は解除キーを調べるべきね」
継真もうなずいた。
「安全に使えるかどうかも、まだ分からないし」
無双は悔しそうに息を吐いたが、反対はしなかった。
フィエルナは三人の顔を順に見る。
「だから、あなたたちは今日、ベルガンドを出るのね」
「ああ」
無双がうなずく。
「解除キーを調べられる場所に戻る」
「遠いの?」
「走って三日くらいだ」
朱里が目を丸くした。
「三日も走るの?」
「来る時も、それくらいだったぞ」
無双が当然のように答える。
フィエルナは呆れたように笑った。
「ロウガンが馬車を用意するって言ってたでしょう?」
「あれは断った」
「どうして?」
「帰る場所を知られるわけにはいかないからだ」
無双は迷わず答えたあと、少しだけ申し訳なさそうにフィエルナを見る。
「すまない。どこへ戻るのかは言えない」
フィエルナは無双の顔を見つめ、静かにうなずいた。
「分かった。言えない事情があるなら、これ以上は聞かないわ」
「助かる」
無双は、ほっとしたように笑った。
そのまま卓に残っていた水を飲み干し、杯を置く。
そこで、何かを思い出したようにフィエルナを見た。
「そういえば、フィエルナ」
「何?」
「最初に会った時、俺の名前に心当たりがあるって言ってたよな」
フィエルナの指が、卓の上で止まった。
「法原を追ってる理由とも繋がってるって。あれ、もう話せるか?」
布武と継真も、フィエルナへ視線を向ける。
朱里も黙って答えを待っていた。
フィエルナはすぐには口を開かなかった。
やがて周囲の客へ目を向け、少しだけ声を落とす。
「父さんから、時禊の告人があたしの前に現れるって言われてたの」
「時禊の告人?」
「ええ。その告人から、法原のことと、無双くんに会うことになるって聞かされたわ」
◇
竹田の里を発つ日。
旅支度を終えたフィエルナを、バンブーが呼び止めた。
「フィエルナ」
振り返る。
バンブーは腕を組み、いつになく真剣な顔で立っていた。
「何、父さん?」
「お前の前に、時禊の告人が現れる」
唐突な言葉に、フィエルナは眉を寄せた。
時禊の告人。
名前だけなら知っている。
国や町を渡り歩き、選んだ者の前へ突然現れる正体不明の存在。
頼みを聞いた者には、これから起こる未来を一つ告げる。
旅人の間で、そんな噂が語られていた。
「告人って、あの?」
「ああ」
「どんな人なの?」
「分からん」
バンブーは迷いなく答えた。
フィエルナは目を細める。
「姿も分からない人が、あたしの前に現れるの?」
「そうだ」
「父さんは、どうしてそれを知ってるの?」
バンブーは答えなかった。
代わりに、低い声で告げる。
「現れたら、話を聞け」
「それだけ?」
「指示には従え」
フィエルナは、しばらく父の顔を見つめた。
「ずいぶん怪しい話ね」
「分かってる」
「理由は教えてくれないの?」
「今は言えん」
普段のバンブーなら、最後は自分で決めろと笑い飛ばしていたはずだった。
その父が、理由を明かさないまま従えと言っている。
冗談ではないことだけは分かった。
「……分かったわ。話は聞く」
バンブーは、それ以上何も言わなかった。
◇
それからフィエルナは、ベルガンドへ渡った。
街に滞在し、ギルドの仕事を手伝いながら過ごす。
告人が現れたのは、ベルガンドでの暮らしにも慣れ始めた頃だった。
その日。
フィエルナはギルドからの帰り道を歩いていた。
日が沈みかけた古い通り。
人影は少ない。
閉じた店の軒先を、夕風が吹き抜けていく。
ふと。
背後で足音が止まった。
フィエルナも立ち止まる。
敵意は感じない。
それでも警戒を解かず、ゆっくりと振り返った。
そこに立つ人物を見た瞬間。
息を呑んだ。
「……母さん?」
記憶にある姿と、何一つ違わない。
顔。
立ち方。
風に揺れた髪を耳へかける仕草。
幼い頃に何度も見た母そのものだった。
だが。
フィエルナはすぐに目を細める。
母は、もういない。
目の前にいるはずがない。
「違う」
片足を引き、重心を落とす。
「あなた、何者?」
母の姿をした人物は、穏やかにフィエルナを見つめた。
「あなたには、母親に見えるのですね」
声まで同じだった。
それでも。
母の言葉ではない。
「質問に答えて」
「人は私を、時禊の告人と呼びます」
フィエルナの構えが、わずかに緩む。
バンブーの言葉が脳裏によみがえった。
――お前の前に、時禊の告人が現れる。
「……本当に現れるなんてね」
「お父上から聞いていましたか」
その一言で、フィエルナは再び目を細めた。
「父さんを知ってるの?」
告人は答えない。
フィエルナは警戒を残したまま、母と同じ顔を見据えた。
「どうして、母さんの姿をしているの?」
「見る者が違えば、見える姿も変わります」
母の顔が、かすかに笑う。
「必要なことだけ、お伝えします」
納得できる説明ではない。
それでも、不思議と敵意は感じなかった。
バンブーの指示もある。
フィエルナは重心を戻した。
「話を聞けって言われてるわ。用件は?」
「幻成学府会に所属する法原について、情報を集めていただきたいのです」
「幻成学府会?」
フィエルナの表情が変わる。
禁じられた幻成の研究に関わっていると噂される集団。
その名を知らないわけではない。
だが、実態はほとんど明らかになっていなかった。
「法原っていうのは?」
「一週間後、その者はベルガンドへ現れます」
フィエルナは告人を見据えた。
「ずいぶん具体的ね」
告人は答えず、静かに続ける。
「法原と幻成学府会について、可能な限り調べてください」
「集めた情報を、あなたに渡せばいいの?」
「いいえ」
告人は首を横へ振った。
「鬼の血族、天下無双へ伝えてください」
聞いたことのない名前だった。
「天下無双?」
「法原を追っていれば、必ず出会います」
「無双もベルガンドへ来るのね」
「はい。そう遠くはありません」
一週間後、法原がベルガンドへ現れる。
法原を追えば、天下無双という鬼の血族に出会う。
あまりにも話がつながりすぎている。
「どうして、あたしが無双へ情報を渡す必要があるの?」
「必要になるからです」
「誰にとって?」
告人は答えなかった。
夕風が、二人の間を通り抜ける。
信用できる根拠など、どこにもない。
それでも。
バンブーは、この存在が現れることを知っていた。
そして、指示に従えと言った。
「……分かったわ」
フィエルナは警戒を残したまま答える。
「法原と幻成学府会を調べる。無双に会えたら、集めた情報を伝える」
「ありがとうございます」
告人は、母の顔で微笑んだ。
◇
「――その日から、あたしはロウガンたちに協力してもらって、法原と幻成学府会について調べ始めたの」
フィエルナの声とともに、意識が酒場へ戻る。
しばらく、誰も口を開かなかった。
周囲では変わらず客たちの話し声が響き、食器の触れ合う音が聞こえている。
朱里が、不思議そうに首を傾げた。
「見る人によって違うなら、私には誰に見えるんだろう」
「それは、あたしにも分からないわ」
フィエルナは答え、無双たち三人へ目を向ける。
「無双くんたちは、告人について何か知らない?」
無双は布武と継真を順に見る。
「俺は初めて聞いた。二人は?」
継真が首を横へ振る。
「俺も知らない。目覚めてから、まだそんなに経ってないし」
二人の視線が布武へ集まった。
布武は少し考えてから口を開く。
「噂だけなら聞いたことがあるわ」
「知ってるのか?」
「旅をしている間に、いくつかの町でね」
布武は卓上に残った水へ目を落とした。
「人によって姿が違うこと。頼みを聞けば、未来を一つ教えること。そのあたりは、どの町でも似たような話だったわ」
「本当にいるって思ってたの?」
朱里が尋ねる。
布武は首を横へ振った。
「いいえ。町ごとに内容も少しずつ違っていたし、旅人が広めた作り話だと思っていたわ」
「でも、フィエルナは会った」
無双の言葉に、布武はすぐにはうなずかなかった。
「少なくとも、噂のもとになった存在は実在するみたいね」
法原が現れることも。
無双と出会うことも。
告人の言葉どおりだった。
フィエルナは、無双をまっすぐ見つめた。
「告人は、会ったこともない無双くんの名前を知っていた」
一拍。
「法原も、あなたたちを知っていたわ」
先ほどまでの柔らかさが、少しだけ薄れる。
責める響きではない。
ただ。
答えを求める目だった。
「あなたたちは――」
無双。
布武。
継真。
三人を順に見つめる。
「いったい何者なの?」
(第三十九話・終)
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次回の掲載日は翌日の2026年10月18日 20時00分です。
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