第三十八話 消失まで一分
布武の手が、玲那の右手首へ走った。
玲那は腕を引いてかわすと、逆に布武の手首を掴んだ。
強く引かれる。
布武は逆らわず、その勢いのまま玲那の脇へ身体を滑り込ませた。
空いた手を、白衣の内側へ伸ばす。
解除キーへ届く直前。
足が床を離れた。
身体が投げ出される。
布武は片手を床につき、勢いを逃がして着地した。
玲那は追ってこない。
次の一手を待つように、布武を見ている。
布武の両手に白炎が灯った。
左右の圧を揃え、合掌。
白炎が、すっと消える。
「番内【焔穿】」
細い火線が玲那の横を抜けた。
狙ったのは、壁際に固定された大型画面の支柱。
金具が焼き切れる。
支えを失った画面が、玲那の背中へ倒れ込んだ。
玲那が振り返り、落ちてくる画面を片腕で受け止める。
その時には、布武はもう懐へ入っていた。
画面の下を抜け、白衣の内側へ手を伸ばす。
指先が解除キーに触れた。
玲那の腰が回る。
次の瞬間。
蹴りが布武の腹へ突き刺さった。
「――っ」
息が一気に押し出される。
布武の身体が研究室を横切り、背中から壁へ叩きつけられた。
白い壁に亀裂が走る。
床へ落ち、片膝をついた。
「鍵しか見てねぇな」
玲那は受け止めていた大型画面を横へ放した。
重い音が響く。
「他に用はないもの」
布武は腹を押さえながら立ち上がった。
玲那の呼吸は乱れていない。
両手にも、白炎一つ灯っていなかった。
それでも、布武は解除キーへ目を戻す。
玲那の口元が、わずかに上がった。
布武が再び床を蹴ろうとした――その時だった。
「待て! そこから投げるな――!」
破壊された外壁の下から、聞き慣れた声が駆け上がってきた。
直後。
焦げた太い蔓が、外壁を激しく叩いた。
轟音。
その先には、無双が巻きつけられている。
「うおおおおっ!?」
蔓が大きくしなった。
無双の身体が、破壊口から研究室へ放り込まれる。
玲那と布武の間を空中で横切り、床へ叩きつけられた。
そのまま勢いよく滑り、壁際でようやく止まる。
無双を届けた蔓は力を失ったように垂れ下がり、そのまま破壊口の外へ消えていった。
短い静寂。
布武は床に転がる無双を見る。
玲那も、蔓が消えた先から目を離さなかった。
「……どうして外から来るのよ」
無双が顔を上げた。
「俺が一番聞きてぇよ!」
右腕を庇いながら起き上がる。
「無事か」
「見れば分かるでしょう」
「無事じゃなさそうだな」
「無双もね」
二人はそれ以上言わなかった。
「継真は?」
「分からない。でも、上へ向かってるはずよ」
「そうか」
無双は玲那へ向き直った。
その時。
研究室の端で、金属が鳴った。
床際の保守用ハッチが、内側からわずかに持ち上がる。
隙間から赤い非常灯の光が漏れた。
ハッチが開く。
「……着いた」
継真が顔を出した。
身体を研究室へ引き上げ、片手を一度だけ脇腹へ当てる。
まだ痛みは残っている。
それでも顔を上げ――先に無双がいることに気づいた。
「無双……どうして俺より先に?」
「外から運ばれた」
「外から?」
「あとで話す。俺もよく分かってない」
継真は破壊口を見た。
少しだけ考え――やめる。
布武が玲那から目を離さず言った。
「今は前を見て」
「……うん」
継真は頷き、二人の隣へ並んだ。
玲那は三人を順に見る。
三人が揃っても、構えを変えようとはしない。
布武は静かに息を吐いた。
「三人でも、今の私たちじゃあなたには勝てないわ」
玲那の口元が上がる。
「分かってんじゃねぇか。じゃあ、どうするよ?」
布武は答えなかった。
視線が一度だけ、玲那の白衣の内側へ向く。
無双がそれを追う。
継真も、二人が同じ場所を見たことに気づいた。
誰も言葉を交わさない。
無双と布武が、同時に床を蹴った。
無双が正面から入る。
左拳。
玲那は身体をひねってかわし、その腕を掴んだ。
無双の勢いが、そのまま前へ流される。
その脇へ、布武が滑り込む。
掌が玲那の脇腹へ迫った。
玲那は無双を押し出しながら、肘で布武の腕を弾く。
二人が左右へ散った。
玲那はその中央に立ったまま、二人を待っている。
無双と布武の目が合った。
次の瞬間。
左右から同時に駆ける。
左から無双。
右から布武。
二人の足が、同時に床を蹴った。
無双の回し蹴り。
布武の横蹴り。
二つの脚が、玲那を挟むように迫る。
玲那は両腕を開いた。
右腕で無双の脛。
左腕で布武の踵。
二人の蹴りを、同時に受け止める。
衝撃が床へ抜け、玲那の足元に亀裂が走った。
それでも、退かない。
ただ。
両腕は左右へ開いている。
白衣の前も、大きく空いた。
その中央へ、継真が走り込む。
玲那の懐へ入り、白衣の内側へ手を伸ばした。
指先に硬い感触。
掴む。
一気に引き抜く。
「……取れた」
玲那の目が、継真へ向いた。
同時に、受け止めていた二人の脚を振り払う。
無双と布武は空中で身体を返し、左右へ着地した。
継真は解除キーを胸元へ引き寄せ、二人の後ろへ下がる。
玲那が床を蹴った。
「継真!」
無双の声。
だが、遅い。
継真が二歩下がるより早く、玲那は目の前へ入っていた。
左手が継真の手首を掴む。
右手の指先が、解除キーへ触れた。
奪い返される。
三人にも、それが分かる距離だった。
無双と布武が動こうとする。
だが。
玲那は解除キーを取らなかった。
継真の手首を掴んだまま、右手を腰へ戻す。
小型端末を取り出した。
指が画面を滑る。
ブルームレイド。
生命反応――継続。
スティッチャー。
生命反応――継続。
グレイブジョウ。
生命反応――継続。
戦闘機能停止――三。
生命反応消失――零。
玲那の指が止まった。
三体とも、戦えなくなっている。
それでも。
一体も、死んでいない。
玲那は端末から目を上げた。
解除キーを握ったまま、目を逸らさない継真。
すでに次の攻撃へ備えている無双。
呼吸を整えながら、自分を見据える布武。
「……なるほどな」
口元が、わずかに上がる。
「博士がレッドオーガを高く買うわけだ」
玲那は継真の手首を離した。
「そのまま持ってろ」
三人は警戒を解かなかった。
継真は解除キーを胸元へ引き寄せる。
布武が近づき、その手から受け取った。
玲那を見たまま、服の内側へしまう。
玲那は止めなかった。
その時。
通信機が鳴った。
玲那は画面を確認し、通信を取る。
「姉さん」
一拍。
「悪いけど、一分後に棟ごと飛ばしてくれ」
相手の声は、三人には聞こえない。
玲那は短く返事を聞き、通信を切った。
研究室の端末に数字が浮かぶ。
零分五十九秒。
布武の眉がわずかに動く。
「飛ばす?」
玲那は答えなかった。
外周監視の画面へ目を向ける。
閉鎖区画の下方から、一つの反応が急速に上昇していた。
◇
「姉御、上!」
朱里が空を指した。
フィエルナが朱里と合流し、閉鎖区画へ到着した直後だった。
朱里の指の先。
そこに建物はない。
あるのは、何もない空。
だが。
突然、空の一部が水面のように揺れた。
その向こうから、一瞬だけ炎が噴き出す。
すぐに消える。
直後。
また別の場所で、空が歪んだ。
フィエルナの目が細くなる。
「……あそこね」
背中から翼が大きく開いた。
「朱里ちゃん、ここにいて」
次の瞬間。
地面を蹴っていた。
◇
零分十二秒。
無双は玲那へ向き直った。
「法原はどこへ行った」
「教えるわけねぇだろ」
零分九秒。
玲那は数字から目を離す。
「話は終わりだ」
その視線が、一瞬だけ外周監視の画面へ流れた。
上昇していた反応は、もう九十七階のすぐ下まで来ている。
玲那の両手に白炎が灯った。
布武の目が細くなる。
無双は足裏へ雷気を流した。
布武は、服の内側の解除キーを庇うように半身になる。
継真も構える。
玲那は左右の白炎を練り上げた。
両手を合わせる。
合掌。
白炎が、すっと消えた。
「番内【烈風波】」
空気が爆ぜた。
風は三人の身体だけを捉え、破壊された外壁へ押し流す。
無双が床を踏む。
雷気が弾け、靴底が白い床を削った。
布武は腰を落とす。
継真も床へ手を伸ばす。
届かない。
三人の身体が浮く。
そのまま、破壊口から外へ放り出された。
玲那は外壁の縁に立った。
片手を軽く上げる。
「じゃあな」
端末の数字が、零になった。
その瞬間。
研究室の空気が、低く震えた。
床。
壁。
天井。
建物全体を包むように、白い光の筋が走る。
無双たちは落下しながら振り返った。
外からは何も見えない。
ただ、研究棟があるはずの空間だけが、大きく歪んだ。
一瞬。
隠蔽の向こうにあった白い研究棟の輪郭が、空いっぱいに浮かび上がる。
「な――」
次の瞬間。
輪郭が内側へ折り畳まれた。
巨大な研究棟が、空間ごと一点へ吸い込まれていく。
白い光が弾ける。
風が遅れて押し寄せた。
そして。
そこには、もう何もなかった。
研究棟そのものが、この場所から消えていた。
三人の身体が落ちる。
「またこれかよ!」
無双の両手に白炎が灯った。
右手の白炎が、不規則に膨らむ。
大きく揺れた。
左が追いつかない。
両手を合わせようとした瞬間、二つの白炎が弾けるように崩れた。
「くそっ……!」
「無双、やめて!」
「これ以上、右腕を使わないで!」
継真が叫んだ。
その時。
下から、強い風が吹き上がる。
大きな翼が、三人の下を横切った。
「無双くん!」
フィエルナが三人より下へ潜り込み、落下速度を合わせる。
「三人とも、あたしにつかまって!」
「フィエルナ!?」
「話はあと! 離さないで!」
フィエルナは布武の腕を掴む。
反対の手で継真を引き寄せた。
無双がフィエルナの肩へ手を伸ばす。
指が届く。
強く掴んだ。
翼が大きく開く。
四人の身体が、一度大きく沈む。
フィエルナは落下の勢いを横へ逃がした。
大きな弧を描いて飛ぶ。
翼が空気を打つたび、地面へ向かっていた軌道が少しずつ緩やかになっていく。
閉鎖区画の上を滑るように進み、古びた管理棟の前へ降りた。
足が地面へ触れる。
何歩も滑り。
翼を広げたまま、ようやく止まった。
「姉御!」
朱里が駆け寄ってくる。
フィエルナは翼をたたみ、三人を見渡した。
「三人とも、動ける?」
「動ける」
無双が答える。
フィエルナは、その荒い呼吸と右腕を見て片眉を上げた。
「その息で言われても、説得力ないわよ」
「大丈夫だって」
「そういうことにしておくわ」
布武が服の内側から解除キーを取り出す。
継真が隣へ立った。
「それが……」
「ええ。解除キーよ」
フィエルナも、小さな鍵へ目を向ける。
「取りに行ったものは、それ?」
「一応ね」
継真は解除キーを見つめた。
「戻ってから確認しよう」
「そうね」
無双は空を見上げた。
さっきまで研究棟があった場所。
今は、本当に何もない。
隠れているだけではない。
気配も。
歪みも。
爆炎も。
すべて消えていた。
残っているのは、錆びた柵と、古びた管理棟と、閉ざされた搬入口だけ。
研究棟は、この場所から消えた。
それでも。
解除キーだけは、布武の手の中に残っていた。
(第三十八話・終)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次回掲載日:2026年10月11日 20時00分です。
続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。




