第三十六話 雷鳴・前編
白い石床の上で、無双は片膝をついていた。
「あぶねぇ……死ぬかと思った」
荒い息を吐きながら、ゆっくり顔を上げる。
背中も肩も痛い。
継真に繋いでもらった右腕には、鈍い違和感が残っている。
折れてはいない。
動く。
なら、十分だ。
はるか上。
白い研究棟の外壁に、黒く割れた穴が小さく見えた。
あそこから落ちた。
地面へ叩きつけられる寸前、無双の身体を風が掬い上げた。
「……玲那か」
助けられたとは思わない。
殺さなかった。
それだけだ。
布武と継真は、無双が押し戻した先でそれぞれ研究棟へ入った。
心配じゃないわけがない。
それでも、二人なら大丈夫だと思えた。
布武は止まらない。
継真だって、もう止まらない。
なら、無双が止まる理由もない。
「……二人とも、しぶといからな」
小さく笑う。
玲那も。
解除キーも。
上だ。
最上階――九十七階。
遠い。
高い。
けれど、それだけだ。
「九十七階か」
無双の口元が、わずかに上がる。
「上等だ」
上へ戻るには、まず研究棟の中へ入らなければならない。
最初に使った昇降機が動くなら、それが一番早い。
九十七階まで外壁をよじ登るより、ずっとましだ。
問題は、玲那が素直にそこまで行かせるかどうか。
無双は白い研究棟を見上げた。
「ま、行ってみるしかないか」
一歩、踏み出す。
その時だった。
研究棟の奥で、重い何かが動いた。
警報は鳴らない。
外周は静まり返り、聞こえるのは風の音だけ。
だからこそ、その異音はよく響いた。
ごり、と。
硬い骨同士を、無理に擦り合わせたような音。
「……今度は何だ?」
外壁の継ぎ目に、淡い光が走る。
通路の先。
壁の一部が、ゆっくりと内側へ沈んだ。
扉というには厚すぎる。
何層にも重なった装甲が、噛み合わせを解くように開いていく。
がちり。
がちり。
がちり。
閉じていた歯が、一本ずつ起き上がるような音だった。
「歓迎って感じじゃないな」
暗がりに、二つの赤い点が灯る。
一歩。
石床が低く鳴った。
二歩。
外壁が震える。
三歩目で、それは光の下へ姿を現した。
四本の太い脚。
地面へ伏せるような、低く重い巨体。
肩から頭部にかけてを覆う分厚い白色装甲。
背中には、墓標のような板が何枚も並んでいる。
そして。
顔のほとんどを占める、巨大な顎。
口の奥では、獣の牙とは違う何重もの歯列が低い音を立てて回っていた。
外壁の表面に、淡い文字が浮かぶ。
『GJ―03 GRAVEJAW』
『外部迎撃、起動』
『捕縛命令、実行』
「グレイブジョウ、ね」
無双が呟く。
小さな赤い目が、無双の足元から右腕、左拳へと順に動いた。
「登録外気力、確認」
岩を擦り合わせるような声が、顎の奥から響く。
「しゃべるのか」
「灰谷玲那様より命令を受領」
赤い目が無双を捉えた。
「対象、無双。捕縛する」
「……俺、名指しかよ」
無双は肩をすくめる。
「人気者はつらいな」
「抵抗は不要。損傷を増やすだけだ」
「悪いな」
無双の足裏へ雷気が流れる。
「捕まる予定はない」
グレイブジョウの巨大な顎が開いた。
周囲の砂埃が、その奥へ吸い込まれていく。
四本の脚が石床を砕いた。
巨体が真正面から跳んでくる。
「うおっ!」
無双は雷気を弾けさせ、横へ跳んだ。
直後。
巨大な顎が閉じる。
がぎん――!
無双がいた場所の石床が、外周通路の縁ごとえぐり取られた。
破片が研究棟の下へ落ちていく。
無双は着地し、深く刻まれた顎の跡を見る。
「……おい」
まともに挟まれれば、無事では済まない。
「捕縛って言ったよな? 完全に殺る気で来てるだろ」
「否定」
赤い目が無双を追う。
「対象耐久値、評価済み」
一拍。
「現在出力での致死判定、基準値以下」
「は?」
無双は一瞬、目を丸くした。
それから口元を上げる。
「じゃあ、期待に応えないとな」
グレイブジョウが首を振った。
顎が噛みついたのは、無双ではない。
無双が次に蹴ろうとしていた、外壁の出っ張りだった。
足場が先に砕かれる。
「読んでくるな」
無双は宙で身体をひねり、飛び散った破片を蹴った。
着地先へ、もう赤い目が動いている。
右へ行こうとすれば、顎が足場を奪う。
左へ回れば、太い前脚が道を塞ぐ。
正面だけ。
無双一人が通れる隙間が残された。
無双はその細い道を見た。
「なあ」
グレイブジョウが低く身を沈める。
「それ、本気じゃないだろ」
「命令は捕縛」
「やっぱりな」
無双は左拳を握った。
「手ぇ抜く必要はないぜ」
赤い目が、わずかに絞られる。
「俺、急いでるんだよ」
無双は腰を落とした。
「ちまちま追い回されるより、その方が早い」
顎の奥で、歯列が噛み合う。
がちり。
がちり。
がちり。
背中の装甲板が、一斉に起き上がった。
墓標のような白い板が風を切る。
「対象戦闘出力、上方修正」
赤い目が無双を捉える。
「捕縛優先、維持」
歯列の回転が速くなる。
「損傷許容値、更新」
「そうこなくちゃな」
グレイブジョウが床を蹴った。
先ほどより速い。
巨体が白い残像を引き、巨大な顎が目前まで迫る。
だが。
背中の装甲板が起き上がった瞬間には、無双も動いていた。
低く潜る。
閉じる顎の影を、雷気で駆け抜ける。
「遅い!」
顎下へ滑り込み、左拳を打ち込んだ。
顎が閉じる。
巨体の重さが前へ流れる。
その付け根。
鈍い音。
グレイブジョウは揺れない。
弾かれたのは、無双の拳だった。
「硬すぎだろ」
太い前脚が振り下ろされる。
無双は内側へ抜け、同じ場所へ左肘を叩き込んだ。
雷気が弾ける。
それでも装甲には傷一つつかない。
横薙ぎの顎が、通路と外壁をまとめて抉る。
無双は身を沈め、その下を滑り抜けた。
背中の装甲板が、また起き上がる。
次が来る。
無双は残骸を蹴り、間合いを開いた。
「悪いけど、長引かせる気はない」
左手に白炎を灯す。
続いて右手。
両手を合わせる。
合掌。
白炎が消えた。
雷気が足裏から膝、腰、肩を駆け抜け、左拳へ集まっていく。
「番内――」
グレイブジョウの赤い目が細くなった。
「【雷砲】!」
無双の左拳が、空を打つ。
雷が走った。
狙いは顎の付け根。
だが。
グレイブジョウは退かなかった。
首をひねり、雷の軌道へ巨大な口を割り込ませる。
「気力砲撃、捕捉」
歯列が高速で回転する。
「咬砕処理」
雷気が何重もの歯へ絡め取られた。
顎の奥へ引きずり込まれる。
次の瞬間。
がぎん――!
歯列が噛み合った。
【雷砲】が、白い火花となって砕け散る。
「えっ!? うそだろ!?」
無双の声が跳ねた。
砕かれた雷気が、グレイブジョウの口元から漏れる。
閉じた顎が、再び開いた。
その奥に。
白炎とは違う光が灯っていた。
「……?」
白炎がない。
合掌もしていない。
それでも、冷たく硬い光が一点へ集束していく。
「――まずい」
気術ではない。
そう気づいた一瞬が、遅れた。
細い光線が、口の奥から放たれた。
無双は身をひねる。
光が肩先をかすめ、背後の外壁を音もなく焼き切った。
「っぶねぇ!」
床へ降りる。
その瞬間。
グレイブジョウが首を傾けた。
照射された光が、その動きに合わせて横へ薙がれる。
「曲げてくんのかよ!」
無双は床を蹴った。
光線が追う。
石床が裂ける。
外壁が焼ける。
通路の残骸が、次々と切断されていく。
無双は砕けた床を蹴り、外壁を走った。
迫る光を紙一重でかわしていく。
最後の足場を強く踏む。
頭上へ。
光線が、その下を抜けた。
「お返しだ!」
空中で身体を反転させる。
片脚を高く振り上げる。
踵へ雷気が集まった。
そのまま、グレイブジョウの頭上へ落ちる。
だが。
赤い目は無双を見失っていない。
四本の脚が、同時に石床を蹴った。
巨体に似合わない速度で、グレイブジョウが後方へ跳ぶ。
無双の踵は空を切った。
石床へ叩き込まれる。
轟音。
床が割れた。
踵を中心に亀裂が走り、外周通路が大きく沈む。
粉塵の向こう。
グレイブジョウが着地した。
白い装甲には、まだ傷一つない。
「……やるな」
無双は床から足を抜き、構え直した。
グレイブジョウの巨大な顎が、再びゆっくりと開く。
回転を始める歯列。
そして、そのさらに奥。
さっき光が灯った場所。
顎が開かなければ、撃てない。
ほんのわずかな時間。
けれど――確かに見える。
無双の口元が上がった。
「……なるほどな」
(第三十六話・終)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次回掲載は翌日の2026年09月28日 20時00分です。
続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。




