第三十四話 深命・前編
白い壁が、斜めに裂けた。
圧縮された水気の跡を追うように亀裂が広がる。
継真は割れた隙間へ肩から飛び込み、そのまま白い床へ転がった。
「っ……!」
背中を打ち、息が詰まる。
起き上がろうとして、脇腹の奥が遅れて痛んだ。
継真は床に片手をついたまま、浅く息を吸う。
吸いきる前に喉が詰まり、短く吐いた。
白い廊下には赤い光が走り、耳を刺す警報が鳴っている。
割れた外壁の向こうには、もう空しか見えない。
無双の声も、布武の声も聞こえなかった。
その時。
天井のどこかで雑音が鳴った。
『警報止めろ』
玲那の声だった。
『侵入者には手ぇ出すな。あたしが見る』
短い命令。
次の瞬間、警報が途切れた。
赤い灯りも消える。
白い廊下に残ったのは、機械の低い唸りだけだった。
継真はゆっくり立ち上がる。
右手が自然と脇腹へ向かい、触れる直前で止まった。
そのまま拳を握り直す。
廊下の角には、階層案内らしき表示が光っていた。
上へ向かう矢印。
その先に、九十七という数字。
玲那は、そこにいる。
解除キーも、そこにある。
「……行こう」
声は誰にも届かない。
それでも継真は、廊下の奥へ足を向けた。
数歩進んだところで、足を止める。
脇腹の奥が、鈍く痛んだ。
壁際へ寄り、片膝をつく。
両手に白炎を灯す。
胸の前で合掌。
白炎が、すっと消えた。
「番外【命癒の理】」
右手を脇腹へ重ねる。
掌の下へ、淡い熱が沈んでいった。
ゆっくりと息を吸う。
さっきより深く入る。
痛みも、少しだけ遠のいた。
それでも――奥に残る重さまでは消えない。
継真はしばらく呼吸を整え、手を離した。
壁に手をついて立ち上がる。
膝が一度だけ揺れた。
それでも、足は動く。
継真は廊下の先を見た。
銀色の昇降機。
操作盤へ触れる。
短い電子音。
表示が赤く変わり、鍵の印が浮かんだ。
「……駄目ですか」
非常階段の扉にも、同じ読み取り装置がついている。
継真は小さく息を吐いた。
その時。
右手側の通路の奥で、白い光が揺れた。
視線を向ける。
扉の横に表示があった。
――処置室。
継真は、もう一度昇降機を見る。
赤い鍵の印は消えていない。
それから処置室へ視線を戻した。
しばらく迷ったあと、操作盤から手を離す。
足音を殺して、扉へ近づいた。
中から声はしない。
助けを呼ぶ音もない。
それでも、何かがいる。
「……確認だけです」
小さく呟いて、扉をほんの少し開けた。
細い隙間から、冷たい光が継真の顔を照らした。
処置室の中は、白かった。
壁も床も、器具の先まで白い。
清潔というより、色を奪われたような部屋だった。
中央には、大きすぎる処置台がある。
人を寝かせるというより、巨体を固定するための台。
床へ太い脚が打ち込まれ、四隅には金属の固定具。
その周囲を、透明な管と銀色の器具が囲んでいた。
処置台の向こうに、大きな影がある。
継真は扉をもう少しだけ開いた。
影が動いた。
「……っ」
人ではない。
白灰色の外装をまとった巨体が、処置室の奥に立っていた。
継真が見上げても、肩の高さに視線が届かない。
腕一本が継真の胴ほどもあり、握られた拳は顔より大きい。
外装の継ぎ目には、黒い縫合糸のような線。
背中から伸びた太い管が、処置台の奥へ続いている。
白い殻に覆われた顔の奥で、赤い目だけが鈍く光っていた。
処置台の脇にある表示盤が点滅する。
――試作体【スティッチャー】。
「……スティッチャー?」
小さく読み上げた。
赤い目が、ゆっくり継真へ向く。
「……」
継真は扉の隙間で固まった。
一秒。
二秒。
静かに扉を閉める。
「し、失礼しました」
ぴしゃり、と扉が閉じた。
継真は小さく息を吐いた。
「違いました。完全に違いました。人じゃなかったです」
誰に言い訳しているのかも分からないまま、その場を離れようとする。
その背後で――。
轟音が鳴った。
処置室の扉が内側から弾け飛ぶ。
「っ!」
継真は反射的に床へ身を投げる。
折れ曲がった扉が廊下を横切り、反対側の壁へ叩きつけられた。
処置室の奥から、スティッチャーが一歩踏み出す。
床が、みしりと鳴った。
背中の管が白い床を引きずる。
赤い目は、継真から外れない。
「……追って、きますか」
スティッチャーが腕を上げた。
継真は立ち上がるより早く、床を蹴った。
白い廊下を走る。
背後で床が砕けた。
重い足音が追ってくる。
一歩ごとに床が鳴り、壁まで震える。
継真は角を曲がった。
直後。
背後で轟音が響く。
スティッチャーが曲がりきれず、肩から壁へ突っ込んでいた。
壁材が崩れる。
足音が一瞬だけ止まった。
継真は息を吐く。
「……曲がるのは苦手なんですね」
その時。
すぐ横の壁が、内側から軋んだ。
継真の顔が固まる。
「……え?」
白灰色の腕が、壁を突き破った。
「うわっ!」
継真は横へ転がる。
巨大な手が、さっきまで頭のあった場所を掴んだ。
白い壁材が床へ散る。
「壁から来るのは反則です!」
腕が引っ込む。
次の瞬間。
壁全体が、内側から大きく膨らんだ。
継真はもう走っていた。
直後、壁が弾け飛ぶ。
白い破片の中から、スティッチャーが現れた。
肩の外装には細い亀裂が走っている。
それでも、動きは止まらない。
赤い目だけを継真へ向け、再び走り出す。
継真も走った。
呼吸が荒くなる。
脇腹が痛む。
足も重い。
このまま逃げ続ければ、追いつかれる。
そして――。
廊下が途切れた。
行き止まり。
白い防火扉が道を塞いでいる。
横の読み取り装置には、赤い鍵の印。
「……そっちもですか」
背後から、重い足音が近づいてくる。
継真はゆっくり振り返った。
逃げ道は、もうない。
スティッチャーが拳を振り上げる。
継真は息を呑み――前へ出た。
下がれば、防火扉ごと潰される。
継真の顔より大きな拳が落ちてくる。
その外側へ掌を添えた。
止めない。
流す。
巨体の力が継真の横を通り抜け、拳が白い壁へ突き刺さった。
轟音。
壁材が砕ける。
継真はそのまま懐へ滑り込んだ。
踏み出した脚の後ろへ足を差し入れ、膝裏へ踵を当てる。
崩す。
だが。
「……重い」
膝は、ほとんど沈まない。
スティッチャーが壁から腕を引き抜こうとする。
その瞬間。
継真はスティッチャーの脇腹へ掌を当て、横へ短く押し込んだ。
巨体が半歩だけ崩れる。
肩が砕けた壁へぶつかった。
ぱき、と乾いた音。
白灰色の外装に走っていた亀裂が、一気に広がった。
肩を覆う外装が剥がれ、床へ落ちる。
継真の目が止まった。
その下にあったのは、過剰に膨れた筋肉。
何度も縫い直されたような黒い線。
皮膚の奥へ食い込む細い管。
無理にひとつへ繋ぎ合わされたような身体だった。
スティッチャーは露出した肩を見もしない。
痛がらない。
庇いもしない。
赤い目を継真へ向け、再び拳を振り上げる。
継真は横へ逃れた。
拳が床を砕く。
その動きに合わせて、肩の縫い目が強く引きつった。
管の根元が引かれ、傷が開く。
「……」
怖い。
今も、怖い。
けれど。
継真の目は、もう拳だけを追っていなかった。
縫い目。
管。
筋肉のつながり。
動くたびに歪む肩。
痛みを感じていないのか。
感じても、止まれないのか。
スティッチャーが踏み込む。
継真は拳を流し、懐へ入った。
また傷が開く。
それでも止まらない。
継真は小さく息を吐いた。
乱れていた呼吸が、少しずつ整っていく。
怖さが消えたわけではない。
ただ――。
診るものが決まると、余計な恐怖心が後ろへ下がった。
継真は一歩、距離を取る。
両手に白炎を灯した。
胸の前で合掌する。
白炎が、すっと消える。
赤い目が、継真を捉えた。
継真も、その身体から目を逸らさない。
「番外【深命の理】」
(第三十四話・終)
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次回掲載は翌日の2026年09月21日 20時00分です。
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