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レッドオーガ ―不殺の鬼の名を継ぐ、白き鬼―  作者: うみぐま


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第三十二話 燎原・前編

布武は床を転がった。


 背中が白い床に叩きつけられ、肺の空気が抜ける。


 それでもすぐに身体をひねり、片膝をついた。


 耳を刺す警報。


 赤い光が、白い廊下を規則的に染めている。


 布武は顔を上げた。


 自分が飛び込んできた外壁には、番内【焔穿《えんせん》】で穿った焦げた裂け目が残っていた。


 その向こうには、白い空。


 そして、遠すぎる地上。


「……無双。継真」


 返事はない。


 無双は外へ落ちた。


 継真は別の階へ入った。


 分かっている。


 それでも布武の足は一度、裂け目へ向きかけた。


 止める。


 今は、そちらではない。


 無双なら生きている。


 継真も、怖がりながらでも進む男だ。


 布武は奥歯を噛み、立ち上がった。


 その時。


『警報止めろ』


 天井から荒い女の声が流れた。


 玲那だ。


『侵入者には手ぇ出すな。あたしが見る』


 次の瞬間、警報が途切れる。


 赤い光も消えた。


 残ったのは、低い機械の唸りだけ。


 布武は周囲へ視線を走らせた。


 人の気配はある。


 だが、こちらへは来ない。


 廊下の奥にあった足音さえ、遠ざかっていく。


「……空けたのね」


 誰も邪魔をしないのではない。


 邪魔をさせないようにした。


 玲那が。


 布武は服についた破片を払い、通路の奥を見る。


 解除キーは玲那が持っている。


 九十七階へ戻らなければならない。


 その時だった。


 薬品と消毒液に混じって、別の匂いが鼻をかすめた。


 土。


 草。


 花。


 布武が足を止める。


 通路の先に、巨大な透明扉があった。


 その向こうだけが緑に満ちている。


 整然と並ぶ花壇。


 透明な培養壁。


 管につながれた植物。


 自然ではない。


 すべてが測られ、並べられ、育てられている緑だった。


 布武は扉の横にある表示を見る。


 ――温室区画。


 その下の案内には、この区画の先に上階へ続く昇降機と非常階段が示されていた。


「……通れってことね」


 近づくと、扉の縁に光が走った。


 空気が抜けるような音とともに、左右へ開く。


 土と草の匂いが濃くなった。


 布武は中へ入る。


 白い通路の両側に花壇が続き、そのさらに外側には培養液へ根を浸した植物が並んでいた。


 どれも、美しい。


 そして――整いすぎている。


 花弁の大きさ。


 葉の向き。


 蔓の巻き方。


 すべてが同じ角度で揃っていた。


 生きたまま、標本の形に整えられている。


「……趣味が悪いわね」


 背後で透明扉が閉まった。


 内側にも開閉用の表示はある。


 閉じ込められたわけではない。


 だが、布武は前を向いた。


 追い込まれたのではない。


 招き入れられた。


 ここへ。


 白い人工光の中で、何かがきらめいた。


 埃ではない。


 細かな粒子が、温室全体を薄く漂っている。


 淡い緑。


 時折、紫。


 空気の流れとは関係なく、ゆっくりと広がっていた。


「胞子……?」


 布武は片腕で口元と鼻を覆う。


 だが、気づく前に一息は吸っている。


 眩暈はない。


 膝も折れない。


 ただ、喉の奥に薄い膜を貼られたような違和感だけが残った。


 布武は奥を見る。


 温室の中央。


 人工光が最も強く落ちる場所に、巨大な蕾がある。


 その時。


 床下を走る管の中で、培養液の流れが速くなった。


 こぽ、と泡が立つ。


 一つではない。


 左右の管。


 花壇の縁。


 培養壁の下。


 同時に花々が震えた。


 漂う胞子が濃くなる。


 巨大な蕾に、細い裂け目が走った。


 一枚。


 また一枚。


 花弁が開いていく。


 その奥にあったのは、黒い面だった。


 絡み合う根。


 脈打つ蔓。


 人の顔に似せようとして、途中でやめたような影。


 根が持ち上がる。


 蔓が束ねられ、人に似た身体を形作っていく。


 胸には白と淡い緑の硬質な花弁が幾重にも重なり、装甲のように胴を覆う。


 両腕は根と蔓の束。


 指先には黒い刺。


 下半身から伸びる根は床下の管へつながったままだ。


 それは、この温室から切り離された一体ではなかった。


 温室そのものに根を張っている。


 黒い面が、布武へ向いた。


 近くの管理端末に文字が浮かぶ。


 BR―07。


 BLOOMRAID。


 起動。


 表示はすぐに消えた。


 咆哮はない。


 ただ、ブルームレイドが片腕を上げる。


 それだけで左右の花壇が揺れた。


 床下の根が震える。


 天井から垂れた蔓までが、同時に動いた。


 一体が動いたのではない。


 温室が応じた。


 布武は半歩、足を引く。


 まず火を試す。


 相手は植物に近い。


 火が通るなら、それが一番早い。


 布武は一度息を止め、口元から腕を離した。


 両手に白炎を灯す。


 左右の圧を揃える。


 合掌。


 白炎が消え――火気へ変わる。


 はずだった。


「……?」


 熱が形になる直前。


 ブルームレイドの周囲を漂っていた胞子が、布武の周囲へ薄く寄った。


 生まれかけた火気が歪む。


 ほどける。


 消えた。


 掌に残ったのは、濡れた布を押しつけられたような鈍い感触だけだった。


 布武の眉がわずかに動く。


 黒帳。


 あの縁で覚えた、気術が成立する前に欠けていく感覚に似ている。


 だが――同じではない。


 考える間もなく、床が鳴った。


 花壇の間から、蔓が跳ね上がる。


 一本。


 二本。


 三本。


 細かな刺を並べた蔓が、足首、肩、首へ同時に伸びてきた。


 布武は横へ跳ぶ。


 一本目を飛び越える。


 二本目を身体をひねってかわす。


 三本目が頬のすぐ横を通り過ぎた。


 触れていない。


 それでも肌がひりつく。


 刺の先端は、わずかに反り返っていた。


 引っかけ、裂き、削り取るための形。


 布武は片腕で再び口元を覆いかけ――やめた。


 片手を塞いだままでは、次を捌ききれない。


 呼吸を浅くする。


 そして両手を空けた。


 火気が使えない。


 なら、今は別の手でいい。


 布武は床を蹴った。


 距離を取らない。


 温室全体が相手なら、離れるほど蔓の数が増える。


 なら、中心を叩く。


 白い通路を滑るように進む。


 左右から伸びる蔓を最小限の動きでかわし、一本を手の甲で弾いた。


 刺が皮膚をかすめる。


 薄く血が滲む。


 止まらない。


 ブルームレイドの懐へ入った。


 胸の花弁装甲が閉じる。


 布武はその重なりを見る。


 正面から砕かない。


 装甲なら、力の逃げる場所がある。


 指先が花弁の隙間へ滑り込む。


 腰から通した力を一点へ集める。


 鈍い音。


 割ったのではない。


 噛み合わせをずらした。


 内側の蔓が露出する。


 布武の手刀が走った。


 斜めに裂け目が入る。


 さらに一歩。


 反対の手刀を腰の高さへ振り抜く。


 一閃。


 ブルームレイドの身体が上下に分かれた。


 上半身が落ちる。


 だが。


 床へ着くより先に、下半身の断面から根が噴き出した。


 絡まり、束になり、その上へ蔓と花弁が巻きつく。


 新しい上半身が生える。


 同時に、床へ落ちた古い上半身からも蔓が伸びた。


 布武の足首へ絡みつこうとする。


 布武はかわし、そのまま新しい身体へ踏み込んだ。


 腕を折り、露出した根を叩き潰す。


 それでも、別の場所から新しい蔓が伸びる。


 砕いた場所を直しているのではない。


 次を作っている。


 布武の視線が、床下の管へ落ちた。


 花壇。


 培養壁。


 そこからブルームレイドへ伸びる根。


 再生している。


 いや――違う。


 布武は短く息を吐いた。


 温室が、替えを生やしている。


 その時。


 低く続いていた機械音が沈んだ。


 ご、と。


 床下で何か巨大なものが動く。


 左右の花壇が一斉に沈む。


 管の中の培養液が逆流し、天井から垂れていた蔓が千切れた。


 すべてがブルームレイドの右腕へ集まる。


 温室中の根を束ねた、一本の巨大な腕。


 太く。


 重く。


 黒い刺が何重にも並ぶ。


 ブルームレイドが、それを持ち上げた。


 布武は右へ動く。


 床下から根が突き上がり、道を塞ぐ。


 左も同じ。


 逃げ道が閉じていく。


 巨大な腕が落ちた。


 空気が潰れる。


 受け方を間違えれば、腕ごと持っていかれる。


 避けられない。


 布武は両腕を上げた。


 生身では受けない。


 気力を、両腕の表面へ沿わせる。


 薄く。


 硬く。


 密に。


 両腕の輪郭が、一瞬だけ白く滲んだ。


 轟音。


 白い床が沈む。


 布武の両足が床を削った。


「っ……!」


 衝撃が腕から肩、背中へ抜ける。


 黒い刺が気力の膜へ食い込む。


 膜が軋んだ。


 一部の刺が抜け、腕を裂く。


 血が飛ぶ。


 それでも――折れていない。


 潰れてもいない。


 布武はまだ立っていた。


 ブルームレイドの花弁が、わずかに震える。


 布武は浅く息を吐いた。


「……練れるじゃない」


 気力は消えていない。


 黒帳の中のように、通常の気術そのものが成立しないわけではない。


 布武は足へ気力を通す。


 わずかに乱れる。


 それでも残る。


 床を掴むように踏み込み、肩を沈めた。


 受け止めない。


 力を横へ流す。


 巨大な腕の先端が床を抉った。


 その隙間を、布武は低く抜ける。


 着地。


 すぐに距離を取った。


 背後で再び床が砕け、胞子が大きく舞い上がる。


 布武は息を止めた。


 喉の奥には、まだ薄い違和感が残っている。


 だが、倒れない。


 膝も折れない。


 気力も残っている。


 なら。


 布武は両手に白炎を灯した。


 左右の圧を揃える。


 合掌。


 白炎が消える。


 今度は、火ではない。


 小さな風が掌の間に生まれた。


 弱い。


 不安定。


 それでも、確かに風気として形になった。


 周囲の胞子が、ほんのわずかに揺れる。


 すぐに風はほどけた。


 実戦で頼るには弱すぎる。


 だが――成立した。


 火気は形になる前に崩れた。


 風気は弱くても、一度は形になった。


 同じではない。


 ブルームレイドが巨大な腕を引き戻す。


 束ねられていた根がほどけ、無数の蔓へ戻っていく。


 次が来る。


 布武はその向こうに漂う胞子を見た。


 ブルームレイドの周囲は濃い。


 離れるほど、薄くなる。


 布武の目が細くなった。


 気力は練れる。


 風気も成立した。


 なら――。


 確かめるべきは火気。


 あの濃い霞の外で。


(第三十二話・終)

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

次回投稿日は翌日の2026年09月14日 20時00分です。


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